見出し画像

言葉くづし 10―彦三大橋

冬兄とは不思議なひとだ。

ふだんはまったくお洒落なんかやらない。
変わり映えのしない組合せの上下を何着も持っていて、服装に迷ったりはしない。髪の毛も基本的にボサボサ、下手すると朝起きたときの洗顔さえテキトーなのだ。

それなのに、今日に限って違う。

シャワーを浴びてきたのか、我が家の固形石鹸のいい匂いが漂ってくる。黒で統一したシャツとズボンに、小さな黄金のネックレスが映えている。髪の毛をツーブロックに分けて軽くワックスで形を整え、清潔感を演出。いつ買っておいたのか、袖口から虹色のミサンガが覗いていて、妹の私ですら「かっこいい」と思ってしまった。

そんな彼が闖入した結果、その場の空気が一変した。変化の理由は彼の見た目ばかりでない。冬兄と夏炉の言葉のやりとり……わずか数秒のその会話が、ふたりの特別な過去を想像させるには十分だった。さっきまでお喋りを止めなかった美咲も、いまは完全に冬兄のペースに圧されている。

「動画制作の件、たしかに突拍子もない提案だけどな。でも、やってみる価値は十分あると思うぜ、霧島」

「霧島」と呼ばれるたび、夏炉は視線を逸らして唇を尖らせる。

「そんな絵空事、うまくいくか分かんないよ」

「その通り。どうなるかは未知数だな」

冬兄はどこか楽しげだ。

「私のコミュ障は? 生徒会への許可は?」

「大丈夫だ。俺の優秀な妹が一緒に学校を回ってくれるよ。生徒会には仲のいい先生がいるから、俺の方からも頼んでみるし」

美咲がムースをごくりと飲み込んで言った。

「あなた、途中で割り込んだくせにイイとこ全部もってかないでよね! 私だって実行委員なんだから先生とのコネくらいもってるし!」

「ははは、それは悪かった」

美咲に睨まれても冬兄は落ち着き払っている。
どんな言葉を選べば相手を懐柔できるかを心得ている。決して隙を与えず、かと言って反感を抱かせず、あくまで穏便かつ確実に正しい言葉が紡がれていく。

これが兄、徳田冬仁という男のもつ「ちから」。

彼は、おもむろにテーブルの縁まで近づいて、夏炉の目線に合うような高さでしゃがみこんだ。

「駄目で元々だ。やってみないか?」

夏炉はしばらくカップに付着した水滴を見つめながらストローを弄くっていたが、ゆっくりと意味を確かめるように答えた。

「そこまで言われたら……断れないじゃない」

それまで張り詰めていた緊張感が、栓が抜けたように緩やかになった。夏炉の頬がうっすら暖色に染まっていたのは、天井に吊るされたオレンジライトのせいだったのだろうか。

 ☆ ☆   ☆ ☆   ☆ ☆  ☆ ☆

南町の尾山神社そばの路地。
蝉の声と青空をバックに、巨大な金沢城の杜が広がっている。地面から太陽の反射光がチリチリと脚を焼いていく。
みんなと解散したあと、私は周りに誰もいないことを確認して後ろから冬兄にタックルした。マンガチックに大きく身体を仰け反らせた彼の身体をすかさず組み伏せ、馬乗りになったところで尋問スタートだ。

「さあ、説明してもらいましょうか!」

渾身のハンマーロックで動きを完全に封じる。

「冬兄、いつどこで夏炉と知り合ったの? しかもなんであんな馴れ馴れしいわけ? かつての恋人? それとも友達以上恋人未満? まさか生き別れの兄妹とか?」

「なんでもいいだろ、そんなこと!」

「よくないっ! 夏炉は私の友達だ! 理解者なんだ! 曲がりなりにも文化祭の動画を一緒に撮ることにした仲間なんだ! 私が知らないことを冬兄が知ってるなんて許さないんだからっ!」

ぎゃあぎゃあ早口で騒ぎ立てる。恥も外聞も捨てて大して美しくもない脚を開き、ローファー越しに彼の背中をガンガン踏みつけた。だが、どうしてか薄っぺらい瞳からボロボロ涙が零れる。

自分でも相当めちゃくちゃなこと言っているのは分かってる。私はエゴの塊なんだ。ただ、あの子のことを一番に知り、考え、そして守りたい。でもそれは単に彼女を独占したいという欲望と隣合わせの感情だ。だから冬兄のほうが夏炉の過去を知ってるだけで、狂ったように吠えてしまう。

でも、こんなのって、負け犬の遠吠えだ。

悔しさが募ってどうしようもなくなった私は、彼の首根っこに垂直に爪を立ててみせる。

「痛い?」

「ああ、かなり痛い」

「我慢できない?」

「まじで無理。痛々しくて、情けなくて、恥ずかしくて、こっちが見てらんない」

裏道を通る男性の歩行者が不審げに私たちをチラ見する。これ以上怪しまれないよう、私はハンマーロックを解いて地べたに座り込んだ。

ゼエゼエ息を切らせる私と、意外にも落ち着いた雰囲気の彼。

居たたまれないとは、このことだ。

「お前が他人ひとのことでムキになるのって珍しいよな」

「ハハハ、ほんとほんと。もうさあ、思いっきし大雨が降ればいいのにねえ。まったく笑えるくるいの良い天気だよ。お日様も笑ってるぅ〜って」

私は、それきり黙って瞳を伏せる。城の杜を背に立っている彼の姿はやけに大きく見えた。積雲のたまった茜の空に二羽のカラスが仲良く飛んでいる。

「《夏炉》……ってさ、霧島の二つ名か何か?」

私はイエスともノーともつかぬ返事をした。

「そうね……あの子が大切にしてる、もう一人の自分って感じかな」

「なるほどね」

すっかり真夏の日に焼けた彼は、私と同じ位置まで視線を下げた。彫りの深い顔立ちが夕陽の逆光を受けて、いつもより逞しく輝いてみえた。

「あの子の『ちから』になりたい?」

私はコンマ一秒で大きく頷く。

その返事に満足したのか、冬兄はゆっくり口を開いた。

「それなら歩いて話そう」

私の手を優しく取って立ち上がらせると、彼は肩を並べて歩き出した。

「……あれから十年も経つんだな。俺たち、まだ小学生だったぜ」

「十年前?」

「ああ。冬花にはキツイ記憶かもしれないけど、俺たちを生んだ母さんが家を出てった年だ」

二人分の長い影が舗道の上を前後に揺れている。片一方の影が立ち止まり、もう片方がちょっと手前で止まって、振り返った。

「当時は俺も結構グレてたよ。お前も狂ったように計算ドリルに打ち込んでたよな。そんな俺たちの気持ちなんてそっちのけで、お父さんは再婚を決めて、いまのお義母さんが家にやって来た。まじで傑作だった」

ひとつ咳払いをして、冬兄は言った。

「そんなときに霧島と会ったんだ。夏休みに入ったばかりの、蒸し暑い日……」

私の脳裏に、あの夏の記憶が昨日のように蘇生する。

「大雨で浅野川が氾濫した、あの日のことだ」

(つづく)


この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?