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そして誰も来なくなった File 20

「さあ、私のものに…!」

理性をとろかすような香りに頭がくらくらする。残り1センチのところまで彼女の唇が迫ると、もはや抵抗する気力さえ失ってしまい、強張っていた両肩から力が抜けた。彼女の細い両手がしっかりと僕の頬を捕まえ、ブロンズの髪の毛がふわりと目元にかかる。

ごめん、美里…。

「いい子ね」

彼女の息が僕の顔を撫でた瞬間、

ピロリロリン! ピロリロリン!

スマホの着信音が鳴った。はっと彼女の力が緩んだと思った隙を逃さずに、僕は腕を振り払って、ポケットからスマホを取り出し、SNSの電話機能が起動していることを確かめた。電話は美里からだった。

「美里!」

「どわっ! 急にでかい声出さないでよ! びっくりするでしょう?」

それもそうだ。慌てて僕は弁解した。

「いや、ごめんごめん。焦っててさ」

「なーんでマーガレットさんと二人きりでランデブーしてる最中に焦ることがあるのよ? あ~! まさか、さては飛鳥、お取込み中だった? ごっめ~ん!」

「お前、ゼッタイ謝る気ないだろ…」

会話しながら、そそくさと客席から距離を取ってマーガレットさんに捕まらないようにした。彼女は勢いを挫かれてひどく憎らし気に僕と僕のスマホを睨んでいる。美里に事態を悟られぬように、電話を早めに切り上げようと話をまとめた。

「悪い、ちょっと外せない用事を片付けたいから、また折り返す。それでもいいか?」

「お、おう! 私は大丈夫! そうそう、私からは一言だけなの! マーガレットさんの左手を見るべし! いじょー!」

ピロロンと雑に電話が切れた。ツーツーツーという無機質な機械音が耳朶に響く。相変わらず、おかしな人である。

「まったく、どこまでも邪魔な女ね」

僕はスマホをポケットに片付けて言った。

「邪魔をしているのは貴女のほうですよ、マーガレットさん。いいえ、もっと申し上げれば、貴女が自分自身を邪魔だと感じているんでしょう。だから他の誰かの言動が気になってしかたないんです」

「どういう意味?」

僕は腹に力を込めた。

「貴女が縛られているものはテーラーの血筋や米中の国際関係だけではない。貴女の私的な問題に、足を取られていると言いたいのです」

「私的な問題?」

失礼に当たらぬよう、そっと彼女の左手を指さした。

「はい。なぜなら、ついさっき僕を自分のものにしようとしましたけれど、それは浮気ですよね。だって貴女は既婚者ですから」

彼女の瞼が揺れた。アタリだな、と僕は直感した。

「貴女の左手は他の女性に比べても艶があります。そんな手であるがゆえに気づけたのです。かすかに…ほんのかすかにですが、左手の薬指がわずかに変色している。それは、薬指に指輪を嵌めていたために、日焼けによって色味に差が出たためです。仮にどれだけ日焼け対策をしていても、探偵という仕事上いつも手袋やクリームで保護していられるわけではないですから」

「飛鳥くん、貴方って人は…!」

「これは憶測ですが。そのお相手は、諜報機関の上司ですね」

彼女はふっと顔を横に背けて唇を尖らせた。

「だから、なんだっていうのよ」

「大学にいたときに接近した上司という男と、貴女は交際を始めた。そのような深い関係である男でなかったら、今回のような残酷な計画に貴女が乗っかるはずがないんです。いくら曾祖父母の過去を知りたいという好奇心があっても、殺人の片棒を担ぎたくはないでしょう」

「当然よ! でも、他に仕方なかったの」

「指輪を外しているのは、貴女が既婚者であることを隠す以外にも理由がある。このようなことをぬけぬけと申し上げるのは気が引けるのですが」

「いいわよ、言わなくて。可哀そうだから。…私は、一度はあの男に心底惚れたわ。でも今は嘘のようにまったく。彼、私の調査能力を利用して自分の計画を実行したかっただけなの」

やはりそうか、と僕は重々しく頷いた。

「関係を終わらせようとしたわ、何度もね。でも彼がそうさせなかった。機関に逆らえばどうなるかわかっているかと脅されてね。私のこれまでの恋愛歴や思春期の隠したい秘密さえ、いつの間にか彼は握っていた。あの男の情報網は悪魔的よ。だから、今回の計画、ギルバートを館から追放して島ごと手に入れるように仕組んだ殺人事件も、協力せざるを得なかった」

彼女は胸からピストルを取り出した。頬から白い涙が伝っていく。

「飛鳥くん、ごめんなさい。私、貴方を見ていい人だって直感的に思ったわ。本当よ。だからどうしても美里ちゃんを消したくて仕方なかった。あんな純粋な、貴方と親しい存在が憎くて堪らなかった。私は、あの子のようになれないのが悔しかった」

ピストルの安全装置がカチャリと外される。

「最後のお願いよ。どうか私のものになって。でなければ、私はあの男の命令に従って、貴方を殺さなければならなくなる」

僕は一歩、二歩と彼女に接近した。止めて、と彼女が小さく抵抗する。それを無視して、僕はゆっくりピストルの方へ歩いていく。

「マーガレットさん」

僕は久しぶりに彼女を名前で呼んだ。

「マーガレットさんは、聡明で純粋な人です。こんなむごい殺人を演じるには惜しい人だ。これは本音です。ですから、どうかピストルを下ろしてください。僕からのお願いです」

「嫌、来ないで。私は聡明で純粋なんかじゃない、汚い女よ。誰かを傷つなければ人を愛せない女なの。ほとんど初対面の貴方に何がわかるの!」

「わかりませんってば!」

「え?」

「誰かが誰かを理解するなんて、到底できやしないんだ。だって当人ですら、自分の本当の気持ちに気づけないのが人間でしょう? だったら猶更、他人の感情や過去を理解するなんて不可能だ。でも、マーガレットさん」

僕はガクガク震えている彼女の腕からピストルを取りあげて脇へ棄てた。

「100パーセント相手を理解できなくても、その人を大切にすることはできます。現に、僕にとってマーガレットさんは大切な人の一人なんです」

「どうして…?」

「決まっています。マーガレットさんは他の人より秀でた頭脳をお持ちだ。しかも言葉遣いや性格がユニークです。それに何より、犯罪の計画を壊してまで地下の美里を助けてくれた。それは、単にギルバートを死地に追いやるためだけですか? 貴女の良心が、美里を救いたいと思ったからじゃないんですか?」

彼女は無言で、チェックのタイル地を眺めている。おもむろにスマホを取り出すと、電話をかけた。

「もしもし、私よ。ねえ、エックス。残念だけど、佐渡飛鳥と梶原美里を取り逃がしたわ。…ええ、わかってるわよ、大変な失態だってことくらい。でも彼らは何一つ真相を掴んでいなかったわ。それは確かよ。だから、警察が怪しむ前に、さっさと引き揚げるわ。店員を呼び戻してちょうだい」

マーガレットさんはスマホの電源を切ると、こちらを向いた。

「あと数分で、店員が戻ってくる。その前にここから出なさい。見つからないようにね」

「ありがとうございます。マーガレットさんは?」

彼女は寂しそうに首を振った。

「生憎、行く宛がないわ。上司の存在だけが私の命だから。でも、もういいわ」

「上司のもとを去るのですか」

「ええ、警察に出頭して罪を償って、これきり諜報機関から足を洗うことにする。おそらく出所後に上司や他の仲間が追いかけてくるでしょうけど、心配しないで。私は生き残ってみせるから。名前と住む場所を棄てて、自由に生きてみせる」

マーガレットさんは僕の狭い肩をトントンと叩いた。

「次は、生きて逢いましょう。そのときは必ず飛鳥くんのハートを奪ってみせるわ」

お互いに頬が緩んだ。

「ありがとうございます」

「いいから、早く行きなさい」

僕は駆け足で誰もいない『ヱルキュール』を後にした。


「飛鳥くんの勝ち、いいえ、あの子の勝ちね」

独り遺されたマーガレット・K・水谷は、ゆらゆらとソーダ水のグラスを揺らしている。半透明のグラスに映る自分の姿は、外見こそモデルのような美貌を誇っているが、内面は救いがたく濁っていた。諜報機関の一員となってからの彼女が歩んできた罪の歴史は、とうてい容易に償いきれるものではなかった。彼女は唾を呑み込むと、グラスの持ち手に力を込める。

「飛鳥くん。また生きて、逢いたかった」

店の客が戻る前に、マーガレットは強酸性の毒を混入させたソーダ水を一気に飲み干した。ごほごほと咳き込んで、たちまち胸が苦しくなった。

これで、私の汚い人生ともサヨナラできるのね。

彼女は、静かに瞼を閉じた。

……。

……。

…。

夏の風が聞こえる。人々の声がする。

あれ?

私、生きてる?

はっと眼を開くと、来客がぞろぞろと店内に戻ってきている。一人で席に突っ伏していた彼女の姿を怪訝に見る者もいた。途端に恥ずかしくなって、慌てて乱れた髪の毛を整える。

どうなっているの…?

残ったソーダ水をじっくりと眺める。炭酸がすべて抜けて、ほぼ普通の水に変わっている。そっと舐めてみると、その塩辛さに意図せず口をすぼめた。まさかと思って、カバンの中に入れた薬包みを確認する。白い粉状のものが透明の袋に包んであるが、そのどれも自分が持ってきた袋とは若干のかたちが異なっていた。中身を取り出して観察し、口に含めたときに、ようやく答えがわかった。何の変哲もない、ただの食塩だった。

「あの子、私たちがスマホの映像を観ていたときに、袋ごと入れ替えたのね!」

やられた。すべてお見通しだったのだ。自分が犯人だということや、すべてが終わった暁には命を絶とうとしていることも。どっと全身の力が抜けたが、同時にニヤニヤ笑っている自分もいた。

「まったく、本当に抜け目のない子ね」

昼下がりの陽光が、マーガレットを静かに輝かせている。

                     (lylics につづく)








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