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そして誰も来なくなった File 11

『飛鳥』

放課後に僕の背中を呼ぶ声がする。懐かしいトーン。ちょっとだけ尖った口調。そして柔らかな香り。リュックサックを持ち直して振り返ると、寝癖のついた髪の毛が目元を覆って、彼女の姿を隠す。

『美里。どうした』

彼女は周囲の視線を気にすることなく、遠慮なく僕のもとへ走ってくる。異性に近づいてくるなんて、初めて喋ったときには信じられないほど積極的な行動だ。もしかして、僕の力で彼女を変えられたのかもしれないと、勝手気ままな解釈をして独り愉しんでみる。

『ほら、当直の仕事!』

四十人分の数学Aのワークをどっさりと僕の両腕に移してきた。重たい。もっと受け取りやすく渡してくれればいいのに、彼女は他人に対する配慮というものが欠如している。前のめりになりながら、ムッとして返事をする。

『わざわざどーもありがとーです』

『ぜんっぜん、感謝してないでしょ! 言葉じゃなくて態度でわかる! 私にはわかる! 言葉になってない君の慢心を感じる! 傲岸不遜!』

『あのね…』

なぜ「傲岸不遜」なんて難しい言葉を知っているのに、テストの成績となるとクラスの最下位から数えた方が早いのか。彼女にまつわる謎の最たるものだ。そもそも、学校の放課後に使う四字熟語ではないと思う。

だから、わざと悪口を言ってその場をやり過ごすことにした。彼女の面白い反応を見たい気持ちもあった。

『そんな口うるさいこと言ってると、結婚できないぞ』

特に本気で言ったわけではなかった。彼女が執拗に文句をぶつけてくるのも、僕が意地悪にそれをあしらうのも、もはや日常の一コマになっていた。ふざけて合ってからかい合って、最後には笑って『じゃあね』と別れる放課後が当たり前の光景だと思っていた。でも、この日はちがった。

『あ、そう』

いつもより素っ気ない返事に、背筋に線をすうっと引かれるような悪寒を感じた。踏み入ってはいけない彼女の領域を荒らしてしまったのではないかと思った。傷つけた、と言えば正しいのかもしれない。友達づきあいを始めて四カ月、初めて彼女が僕の意地悪を否定的にとらえた瞬間だった。僕が彼女を傷つけるなんて、絶対にありえないと思った。震える唇でそっと訊いた。

『もしかして、気にしてたか。それなら謝る…』

『別にいいわ。私、結婚なんてしないつもりだから』

ぐさり。胸を錐で貫かれたような痛み。なぜ痛みを感じたのか、そもそも錐の存在を感じたのかすらわからない言いようのない疼き。いや、ちがう。錐の痛みを自覚してしまえば、それは心の深奥に眠る欲望を認めることになってしまうのだ。彼女に対する感情がそんな欲望であっていいはずがなかった。彼女とは一生友達でいられればそれでよいのだ。物心ついたときから養ってきた理性が、経験値の少ない「恋愛」という感情を抹殺して、いつものごとく平然とした態度で彼女を睨み返す。

『へっ、強がって。そんならそれでいいよ。じゃあね』

彼女は無言で踵を返して去っていった。いつもの『じゃあね』を残すことなく去ってしまった。僕は独りで廊下に立っていた。他の同級生が掃除や放課後の部活動で横を通り抜けるのだが、彼ら彼女らの姿は眼に映らない。世界にたった独りで廊下に落とされたような、昏い孤独感に胸が締めつけられた。

翌朝、彼女がクラスに入ってきたとき、思い切って『おはよう』と挨拶をしてみた。

『おはよ』

普段通りの三文字の挨拶にほっとする。僕が勝手に気疲れして、彼女を傷つけたのではないかと恐れていただけなんだ。ちょっと安心して、朝学習のプリントに取り組むべく席に戻った。

だが、やはりあの日を境に、彼女と僕の会話量はめっきりと減ったのだ。

数値化して示せと言われたら無理な話だ。だが、確実に以前と比べてつっこんだ悪ふざけや馬鹿騒ぎができなくなってしまった。一枚、彼女の上にヴェールが被さったような感覚。僕がそう感じたのか、彼女が意図的にそうした雰囲気を醸したのか。彼女は他のクラスメイト、特に他の男子学生には変わりなく接していたので、余計に僕の論理は混乱した。百歩譲って、彼女が僕の言葉に傷ついたなら、彼女は僕と結婚したかった、つまり彼女は僕に恋していた証拠になる。だが、もしそれを是とするならば、僕はどうすればいいのか皆目わからない。わかったところで二の足を踏み出せないで体育座りをするだけである。もし非とするならば、彼女とは友達以上でも以下でも何者でもないのであって、根拠のない悪夢に独り悶々としているだけの喜劇にすぎない。そうなれば少なくとも彼女に対して悪いことをしていないのだから、道徳的、倫理的な面では気が楽である。だが反対に、友達以上にはなれない「佐渡飛鳥」を認める段階に思考が至ると、二本目、三本目の錐がぐさぐさと僕の胸を苛めてくるのである。

卒業して数年が経ち、謎の孤島で彼女と再会した。僕は『梶原美里』の名前に吸い寄せられてここへ来た。ずっと引っかかっていた存在、大切なはずの存在。大切なのにどう向き合っていけばいいのかわからない存在。誰も知るはずのない答えを知りたくて、まとまらない思考を整理したくて、ただ彼女に逢いたくなった。

そんな彼女が、大学で彼氏をつくったという。再会して二分で判明した衝撃の事実に、僕の胸は痛んだ。同時にすっきりもした。もう彼女との関係で悩まなくてもいいのだ、友達でいればいいのだと割り切ろうとした。

だが、理屈で巧みに押さえつけたはずの感情は、暴風雨でマンホールが浮き上がるかのように膨張を続けた。これには難儀した。さらに彼女が今藤はじめ殺害の容疑を被るに至って、やむにやまれぬ義憤の念が湧き上がってきた。

必ず、彼女の潔白を証明してみせる。必ず、もう一度生きて再会する。その後で、はっきりと「梶原美里」という人間と真剣に向き合いたい。だから…。

「ここで死ねないんだよ!」

ギルバートが突き出してきた右腕を確と掴み、渾身の力を込めて握りしめる。こちらを凝視するギルバートは、プルプルと体を震わせながら、猛禽のような顔つきで訴えてくる。

「手を離しなさい。ミスター・サド。仮にも老体をそのような力で押さえつけるとは」

僕は二の句を聞くまでもなく言った。

「死んでも離しませんよ。ギルバートさん。いや、ノイ・テーラーさん」

ギルバートはカタカタと機械のような笑いを零した。悪戯のばれた幼子のような無邪気な笑い方である。僕は続けた。

「あなたこそ身動きがとれないのが、何よりの証拠です。さあ、もしご自身が潔白なら、その左手のリモコンを押してご覧なさいよ。今藤はじめを殺害したときのように」

ギルバートも僕も、お互いに睨み合って動かない。正確には動けないのだ。先に動いた方が、負ける。

「みなさんに配った招待状、このなかには電流を吸い寄せる避雷針のような装置が内蔵されているんです。カードの縁をよく見たら、伝導性の金属でできた層が紙の層にサンドイッチ状になっていました。犯人がリモコンを操作して、館のどこかにある発電機を起動させればいいのです。伝導性の層に高圧の電流が流れれば、たとえ招待状を直接もっていなくても、ポケットに入っているほどの距離であれば、強すぎる電流に自ずと持ち主は感電死する。」

「発電機。どこにそんなものが?」

「ご存知のわりに往生際が悪いですよ。この孤島は雨が多いようだ。きっと雨の水を利用した水力発電装置が地下かどこかにあるのでしょう。そして、そこで蓄えた電気をピンポイントで発射する仕掛けも随所にある。例えば、僕らがいる廊下の天井、とか」

僕はギルバートの腕を離さないよう注意しながら首を上げた。天井の隅に、鋭利な切っ先を向けた機械仕掛けがこちらに首を垂れている。

「館にある機械の存在を知り、誰にも怪しまれず行動できるのは執事のあなたしかいない。第一、殺人事件が起きているわりには落ち着きすぎている。あなたがリモコンを操作すれば、あの機械から電流が流れる。今藤のときもそうしたのでしょう。ダイニングの天井にある機械を作動させて、彼を感電させた。彼はきっと、招待状に書かれた何かに囚われていて、招待状を手放せなかったのでしょう。だからあのように無傷のまま命を絶たれてしまった」

ギルバートは、黙って僕の話を聴いている。

「それがわかっていたので、あなたが僕に向かってリモコンを操作しようとしたとき、失礼ながらあなたの右腕を押さえました。ご希望でしたら、このままリモコンを押しても構いませんよ。もれなく僕の体を電流が伝って、あなたもろとも冥途行きですがね」

ノイ・テーラーは不敵な態度を崩さない。

「うまくやったつもりだろうが…。お前は肝心なことが抜けている。第一、この態勢では私を逮捕できない。他の招待客には睡眠薬入りのドリンクを提供して、ぐっすり休んでもらった。助けは来ない」

「マーガレットさんと、美里は? 僕の憶測ですが、彼女たちは謎を解き明かしたのでしょう。だからあなたの故意か、自身で進んでかは知らないが、この場から姿を消した。違いますか」

「その通り、素晴らしい推理だ。惜しいよ、君のような有能な人材を亡き者にするのは。だがこれも宿命だ。残念だが、彼女たちはもうあの世に旅立った。梶原美里は地下の空路に辿り着いて、そこで招待状の秘密を知った。監視カメラですべて確認していたのだ。だから、タイミングを見計らって、空路を爆破して貯水槽を破壊した。午前八時ごろのことだから、とっくに水死体となって地下で浮かんでいるだろうよ」

僕は絶句した。そんなことを信じたくなかった。だがそれを真実だとすれば、僕はノイ・テーラーとただ一人で闘っていることになる。まだ雨は止まない。他の助けも借りられない。大切な彼女たちは、もう逢えないという。途端に足腰の力が抜けて、へなへなと地べたに座り込んでしまった。握りしめた右腕がだらんと下がる。

「潔いことだ。さあ、お前も美里さんの元へ行け。彼女に彼岸で再開できるよう祈っているよ」

僕は抵抗する気力を喪っていた。ギルバートは勝ち誇ったように、僕に狙いを定めてリモコンを押した。

バチン。

炸裂音がした。もう死ぬんだ。そう思って眼を閉じた。

だが、聞こえてくるのは彼岸に行ったはずの美里の声ではない。顔を上げて聞いたのは、喘ぎ喘ぎ、信じられない様子で僕を凝視するノイ・テーラーの荒い呼吸だった。

「なぜ…なぜ…」

何度もリモコンを押すのだが、まったく電気が流れない。僕はとっさに、招待状を階下へ投げつけた。その場所から、僕とギルバートに向かって声を上げる二人の影が舞い込んだ。

「はーい、こんにちは。女幽霊、二人組でーす」

僕はまた信じられない光景を目にしていた。美里とマーガレットが、水滴を垂らしながらもしっかりした足取りで歩いてくる。足はついているから、幽霊ではない。嬉しくて不思議すぎて、僕は叫んだ。

「美里! マーガレットさん!」

「飛鳥、詳しい話は後よ。さっさとこの男を退治するわ」

「お前たち、まさか機械をハッキングしたな!」

「ええ。結構堅いセキュリティで難しかったから、リモコン操作では作動しないようにするのが手一杯だったけれど。それでも時間稼ぎにはなったようね」

「姑息な…」

マーガレット言った。

「もう止めましょう。ギルバート・ロス。いいえ、ノイ・テーラーの亡霊さん」

                            (つづく)




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