そして誰も来なくなった File 17
チリン、チリン。美里が去った後の『ヱルキュール』に響く入り口のベルは悲しい夏の音を奏でている。失恋、という考えたくない言葉が僕の狭い脳裏をぶつかったり跳ねたりして痛みを味わせた。マーガレットさんは細い眼を三日月のように光らせて、垂れ下がった僕の黒髪を眺めていた。
「もう、おっちょこちょいなんだから。彼女の前でソーダをこぼすなんて初歩的なミスよ」
僕は物言わず頭を振る。
「彼女にちゃんと想いを伝えてないんでしょ? 煮え切らないんだから」
再び僕は頭を振ってマーガレットさんの言葉を遮断する。
「私の奢りなんだから、遠慮なく飲みなさい。ささ、元気出して」
「マーガレットさん」
彼女は「うん?」と首を傾げた。これまで女傑だと思ってきたけれど、よく見ればその相貌はテディベアを思わせるようで胸がくすぐられる。常に異性を磁石のように引き寄せずにはいられないオーラが、彼女の全身から滲んでいるのだ。得な容姿をしている、と羨ましく思った。
「このところ猛暑が続いていますよね。体は大丈夫ですか?」
「な、何よ突然。ええ、まあまあ元気でいるけれど」
「変な質問をしてごめんなさい。こうも暑いと熱中症や食中毒の危険がありますから、ちょっと思い出して訊いてみたまでです」
彼女の次の言葉を遮るようにして続ける。
「マーガレットさん。僕、こんな話をニュースで観たことがあるんです。いつだったか、今日みたいな猛暑日にキャンプで川魚を釣った男性のグループが、自分たちで魚を捌いて料理をしたのです。すると、悲しいことに男性のすべてが腹痛を訴え、救急搬送されました。原因は何だったと思いますか?」
「そりゃあ、調理する以前に暑さで魚が傷んでいたか、生焼けのまま食べてあたったんじゃないかって思うけど」
「そうですよね。当初、調べた警察も食中毒の線で調査を進めました。魚の身からは毒素が検出されました。しかし、彼らが食べた魚はまったく傷んでいなかったんです。アニサキスなどの魚由来の寄生虫なども見つからなかった。どういうことか、おわかりですね? つまり、川の水そのものが汚染されていたんです。付近の工場から流れ出た廃水が原因でした」
マーガレットさんは口を挟んだ。
「飛鳥くん。貴方の意図するものが読み取れないんだけど」
「そうですか? 僕はただ、一つの真理をお伝えしたかっただけです。目の前に食中毒を起こす魚があれば、誰だってその魚を除去しようとするでしょう。しかし多くの人は、なぜ魚が毒をもったかまで掘り下げて考えようとしない。目に見えるかたちあるものを絶対視して、危険な魚だけ取り除けば万事オーケーだと信じているのです。その魚が育った川が毒で汚染されているなんて考えないんです」
三日月のような美しい瞳が、だんだん三角形の鬼のように変貌していく。僕は気圧されないように僕のソーダ水を彼女に差し出した。
「これは賭けです。もしもマーガレットさんご本人が、ギルバートという一匹の魚を毒で穢した川の水ではないとお思いでしたら、是非このソーダ水を飲んでください」
ソーダ水の炭酸はしゅわしゅわと溶けて水面に溜まっていく。グラスに映る彼女の洋服が揺れながら歪み、可笑しそうに上下し、荒い呼吸を吐き出していく。
「どうしましたか? マーガレットさん。いえ、ノイ・テーラーの亡霊さん」
彼女は、不敵に嗤っていた。
「やっぱり、油断できない人ね。いつ、わかったの?」
僕は親指と他の四本の指を組んで三角形をつくり、口を開いた。
「ついさっき、あの動画を観たときです」
(つづく)
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