そして誰も来なくなった Final
「ええ~! 彼氏いないのかよ!」
マーガレットさんが犯人だとわかったときの衝撃よりはるかに大きい。SNSの電話で知った美里の言葉に、ほっとするような切ないような複雑な感情が錯綜した。到底、理解が追い付いていかない。歩道の花壇には向日葵の花が大きくその花弁を揺らしている。
「ちょっと、声が大きいって! 他の人が聞いてたらどうしてくれるのよ!仕方ないでしょ、その人とはつまらない喧嘩で別れちゃったんだから!」
「じゃあ、なんで孤島に来たとき彼氏とデートの約束があったって言ったんだよ」
「いいじゃない、乙女が嘘をつくのはそれなりの理由があるのよ!」
やはり、よくわからない人だ。なんでわざわざ、付き合っていないのに彼氏がいるなんて話を創るんだろうか。漱石の『三四郎』を読んだときも思ったが、女性の心理を男性が理解するなんて永遠に不可能じゃなかろうかとさえ思ってしまった。私見だが、同じ物事を前にしても、男性はどちらかというと大雑把に、しかも保守的な理屈でとらえようとする傾向があり、対して女性のほうは男性よりはるかに緻密に、感受性豊かな言葉で表現する傾向があると思うのだ。もちろん、男性と女性という違いだけで人をピンで留めることはしたくないから、あくまでざっくりとした感覚に過ぎない。しかし、短い人生のなかでこのような違いを感じる経験が多かったように思えるのも、また事実なのであった。
「まあともかく、別れてしまったのは苦しいだろうけど…」
「それはいいの。過ぎ去った話だから。私はいつでも今を生きているのよ!」
この切り替えの速さと逞しさは、美里が女性だからだろうか。いや、これは梶原美里という人間の持ち味だろうなと思った。やはり、この人の生き方が好きだ。世界のあり方が好き、といえば適当かもしれない。
「ああ、それと」
美里は思い出したように言った。
「よかった。無事に飛鳥が戻ってこれて。マーガレットさんと二人きりでどうなるかと思ってたから」
「美里、気づいてたのか?」
「漠然とね。飛鳥みたく論理的に考えたわけじゃないけど、私たちを『ヱルキュール』に誘ってきたのがマーガレットさんだったから、もしかしてと怪しく思ったの。左手の薬指は変色しているのに気づいて、ああこの人既婚者なんだな、でも飛鳥のこと狙ってるな、つまり事件の黒幕だなって思ったのよ」
「ご、ごめん。美里の言っている説明が僕には理解できないのだが…」
駄目だ、全然ついていけない。論理はめちゃくちゃなのに、マーガレットさんが黒幕だという結論は奇跡的に合っている。
「当たり前でしょ! 私の推理は状況証拠と女の勘のコラボレーションよ! 孤高の精神家を気取っている君にはこの崇高なるアタマは理解できないわ! はっはっは!」
本当に謎だ。しかもなんか腹が立つ。意地悪に美里の弱点を突っ込んでやろうかと思ったが、まあいいかと大人の対応を取ることとしよう。少なくとも僕は美里のお陰で生きて帰ってきたのだ。気を取り直して素直にお礼を言っておこう。
「ありがとね」
「何が?」
「さっき電話をかけてくれて。それに、暗に彼女が黒幕だって伝えてくれただろ?」
僕は、美里がドリンク代の伝票をポケットに突っ込んだとき、一緒に入れてくれたものを引っ張り出した。ちょっと縒れているが、近所の街中映画館で上映されているも映画のペアチケットである。
タイトルは『黒幕の裏の彼女』。
正直なところ、最後まで自分の推理に自信が持てなかったのだ。彼女が事件の黒幕だなんて、ただの思い過ごしではないかと冷や冷やしていた。このチケットを美里が入れてくれたのを見て、ようやく胸を張ってマーガレットさんに真実を話す勇気が出たのであった。
「ああ、それね! 偶然手に入ったから、飛鳥と観ようかなって思ったの!」
ドキン! と心臓が高鳴る。実は、電話の会話の冒頭がこの話だったのだ。まずは映画のペアチケットを美里が入れてくれたのを伝えて、そのうえで、美里に彼氏がいるのにこんなものを貰っていいのかと尋ねた。そこで、「いやあ、もう彼氏いないんだよ」との返事を受けたために、始めの僕の台詞となるのである。
映画でデート、ということなのか。そもそも、彼女と付き合っているわけではないのだから、デートと呼ぶには時期尚早なのだろうか。まずい、焦ってきた。自分で勝手に焦ってきている。ここで気が急いてはすべての努力が水の泡だ。まあ、努力というほどのことをしてこなかったのであるが。ああ、やっぱりわからなくなってきたぞ。
それにしても、驚くようなことを言う人だ。迷った挙句、僕はシンプルに答えることにした。
「映画、いいよ。でもその前に、あのさ」
恐る恐る、彼女に聞いてみた。太陽の熱を吸収したアスファルトがこちらへ熱気を押し上げてくる。汗が止まらない。
「何よ、もったいぶっちゃって。はっきり言いなさいよ」
僕は深い深い息を吐いて、渾身の力で尋ねてみた。
「美里は、僕のことどう思っているの?」
数秒間、返事が無かった。スマホを持つ手が震えて、まずいことをしたと後悔した。足が石のように固まって動かず、電信柱にもたれるようにして立ち止まる。早く、何か言ってくれ。変人とかキモイとかなんでもいいから、早く答えを聞かせてほしい。
ふふ、と彼女の微笑が漏れた気がした。答えは、思った以上のものだった。
「決まってるじゃない。恋人以上よ!」
「ええ!?」
「なーにその変な声! おもしろー! 飛鳥はやっぱり飛鳥だね!」
いや、ちょっと待ってくれ。恋人以上って、そんな言葉生まれて初めて聞いた。単純に「友達」、「恋人」なら馴染みがある言葉だし、「友達以上、恋人未満」のようなペアを知ってはいるのであるが。それにしても。
「恋人以上って、なんだよ…」
もはや腹に力が入らない。完全に彼女に敗北した感覚に陥る。
「飛鳥、アタマいい癖してこういうところ弱いんだよ! 自分で考えなさい! 小説家希望なんでしょ? ちょっとは表現力を広げる努力をしたら?」
鬼のような槍のような言葉の嵐に、僕の自尊心は粉々に砕け散っていく。
「わかりました。どうか修行させてくださいませ」
「謙虚でよろしい! では、百点満点の回答ができたときに、私に聞かせるように。いいわね! じゃあ、映画の待ち合わせはまた今度!」
電話が切れた。駄目押しのように「指きりっ!」というスタンプが送信されてくる。
これは、ハッピーエンドなんだろうか。結局、美里と僕はどんな関係なんだ? 「恋人以上」って、どんな関係なんだ? 僕の精神年齢では理解できそうもなかった。ともかく、美里との映画鑑賞をうまくやるか…。
僕は旗町の裏通りを抜けて橋へ足を踏み入れた。途端に夏の風が体を吹き付けて、ほてったアタマをやわらかく溶かしていく。僕は元来た道を振り返って、妖艶な彼女の背中を思い浮かべた。
マーガレットさん。また、いつか必ず逢いましょう。そのときはどうか、犯罪とは縁の遠い世界で語り合えることを祈って。
『ヱルキュール』の方角に一礼した僕は、まっすぐ熱に焼けた街を駆け抜けていった。
Fin.
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