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そして誰も来なくなった File 9

僕は二枚の招待状を机に並べて凝視していた。

午前六時。マーガレットさんが煙のように消えてしまった。彼女の部屋のベッド下やクローゼットのなか、館中のフロアを見て回ったが、結果は徒労に終わった。僕が昨晩のうちに彼女の秘密を訊いておくべきだったと悔やんだ。だが、もはや後の祭りだった。二人の夜の会話を陰でノイ・テーラーに聞かれたのかもしれない。秘密を隠すため、奴はマーガレットさんを亡き者にしたのだと想像するだけで身の毛がよだち、リスクを回避できなかった自分を責めに責めた。

朝食の席で、七名となった招待客が集まると、必然的にマーガレットさんがいないことが話題になった。浜内エリカは彼女こそ犯人だと決めつけ、昨日まで美里を犯人扱いしていたことなど忘却の彼方であった。飛鳥とギルバート以外の五人はバラバラに根拠のない意見をぶつけあった。さも自らの主張が正しいという態度で議論しているつもりだろうが、聞けば中の空っぽな机上の論争を繰り返しているだけに思えた。テーブルに並べたマーガリン付のバターロールも、まったく味がしなかった。

マーガレットさん、どうか、生きていてください。

祈るような気持ちで自室に籠った僕は、ダイニングで拾った彼女宛ての招待状を机に並べた。小一時間の捜索の結果、これだけが唯一手掛かりになりそうな代物だったからだ。彼女の部屋にある雑多な私物は、すべて孤島に来る前に持参しているもので、今回の事件とは関係が薄そうだった。

改めて彼女の招待状を眺めてみる。

赤色の背景と、片隅に星条旗がはためいているデザイン。ここが飛鳥の招待状との相違点だった。では、何を意味しているのか。星条旗はアメリカ合衆国だろう。彼女の父親がシカゴ出身だと言っていたから合致する。では、赤色は何を指すのか、それが問題だった。

赤イコール赤信号、赤信号イコール危険か停止。いや、おかしい。アメリカとつながらない。

赤は太陽の色か。パプリカかスイカなど食べ物の色か。いや、益々不可解だ。わざわざ招待状に載せる意味がない。その物のデザインを描きこめばいい話だろう。

背景色になっているのが味噌かもしれない。背景が赤色…なんだろうか。

こんなときにスマホが使えればインターネット検索で調べられるのになと、今更ながらスマホに依存してきた生活を懐かしく思った。簡単に情報や知識をインプットできてしまう道具が身近にあるから、自力でアウトプットする練習が減ってしまったように思える。さて、困った。

「孤高の精神家を気取るのはカッコ悪い」

高校二年の夏、美里と話していたときの台詞だった。このときの衝撃は今でも胸に残っている。

僕の家は経済的に窮屈だったので、夏休みや冬休みに旅行に出かけたり、家族とショッピングで買い物に行ったりする機会に乏しかった。各々がドラマや漫画、軽いジョギングに行く程度の過ごし方だった。だから必然的に何でも一人で考えて一人で楽しもうとする習慣ができた。読書やゲームで密かに生ぬるい時間を消費していた。好きな作者の本をすべて読破して優越感に浸った。たいして政治に関心がなくても、又聞きしたニュースを「意識高い系」のふりをしてクラスの面々にぶつけて相手が目を丸くするのを面白がった。ゆえに、高校に入って他の同級生が家族で楽しむ様子を聞き驚いたほどだった。

美里とは近所の幼馴染なので、名前と存在自体は知っていた。アパートの駐車場やスーパーでふらりと歩いている美里を見かけることはしばしばあったし、中学校の運動会で同じアナウンス係になったときに結構かわいい声をしているんだと知った。しかし、飛鳥の思った「かわいい」は、恋愛対象としての「かわいい」ではなくて、ほとんど異性を知らないで育った男が異性に近づいたときに感じる小さな波紋とでも言うべき感情であった。それ以上先は、男女の違いが邪魔をして、コミュニケーションを取りたいと思う欲求は湧いても、霧が朝日に乾くように消えていった。

高校のとき、偶然図書館で美里と逢ったときは鮮明に覚えている。美里が薦めてきたのはハヤカワ文庫の『ゼロ時間へ』だった。作者のアガサ・クリスティは有名でも、『オリエント急行の殺人』や『ABC殺人事件』くらいしか一般的には人口に膾炙していないだろう。それを恥ずかし気に、しかし強い意思をもって突き出してきたのだから、笑いを堪えるのが大変だった。なんだこいつは、と思った。

偶然か必然かはさておき、二人は休み時間や放課後に度々顔を合わせるようになった。クラスは別だったけれど、求めているものが似ていたのか、図書室でばったり、というパターンが多かった気がする。自習スペースも併設されていたので、隣に座って問題を教え合ったりもした。正直とても楽しい、いや、自分には楽しすぎる時間だと思った。

二年の夏季補習が始まり、進路を考える時期になって、飛鳥は自身の将来に頭を悩ませていた。親の負担を強いて大学に進むか、さっさと就職してお金を稼ぐか。実際、大学で勉強したいことがないわけではなかった。飛鳥は小説家になりたかった。そのための文学部に進みたかったのだ。文学部に進んだからとて小説家になれるわけではないし、親を困らせてまで学べるほどの価値が自分にあるとは思えなかった。文学部に対する漠然とした憧憬の念を密かに抱いていた。モヤモヤした膿のようなものを、ふと自習スペースの机に突っ伏している美里に言ってみたのだ。それで返ってきたのが、

「孤高の精神家を気取るのはカッコ悪い」

という言葉だった。

生まれて初めて僕は絶句というものを体感した。美里には「進学するべきか、働くべきか」という問いかけしかしていなかった。その返答が「孤高の精神家」だった訳を知りたくて、なお先を促した。

「だって飛鳥、友達やご両親に相談すらしないで悩んでるでしょ」

その通りだった。なぜ美里にはわかってしまったのか、訊きたくても口が動かなかった。飛鳥は根拠なく「我賢し」と自認する癖があった。人より早く単語帳を覚えられたり、古文に書かれた内容を読解するのが楽しい余りに、人にはできない技が身についているのだと心の奥底で思っていた。口にしたことも、意識したこともないレベルの自惚れであった。反面、誰かを頼ったりするのはひどく苦手で、勉強以外の、生活のなかで浮かんだわからないものをわからないままにするのが彼の常套手段だった。「わからない」を知っている自分を肯定し、それに悩んでいる自我を偏愛していたと言ってもいい。

「じゃあ、どうしたら答えがわかるんだよ」

ぶっきら棒に言った飛鳥に、美里は毅然として答えた。

「決まってるじゃない。知りまくるのよ」

「はあ?」

「わからない自分を曝け出して、知らないことで恥を受けたっていいのよ。自分が腑に落ちるまで聞きまくって知りまくって、泥をかぶってでも答えを探せばいいの」

言葉に詰まった。やっぱり「なんだこいつは」であった。

「…。美里、案外お前って強いんだな」

「何言ってるの? 呆れた!」

おどけた調子で腕を伸ばした美里は、大あくびをして再び眠りの世界に旅立っていった。何のための自習スペースだ…と言いたくなったが、心を洗濯してもらえた気がして、そっと席を立った。

結局、親に相談したらすんなり進学を認めてもらえた。その代わりの条件があった。小説家になりたいのであれば、大学に行くためのバイトをすること、そして最低年二回はコンクールに応募すること、が課された。現在までちょこまかと小説らしき原稿を書いては捨て、コンクールに送っては落選し、を繰り返しているところであった。

美里に相談しなかったら、きっと親に相談せずに抱え込んで、楽な道を選んでいたかもしれない。お金や成績で転換できない部分の財産を、美里はプレゼントしてくれたのだ。

「知りまくる…か」

身を翻して部屋を出ると、まっすぐマーガレットさんの部屋へ向かった。相変わらず物でごった返している。時計は十一時を指していた。もう一度、丹念に現場を検証していく。ベッド上の雑誌、ノート、ドレス、コスメ、鏡、煙草の灰皿。ふと、机の上に裸の写真が乗っているのに気がついた。モノクロの写真で、かなり古い年代だと思った。

四隅が擦り切れていることからして、毎日のように手に触れている写真だろう。若者たちが群れになって行進し、意気軒昂に叫んでいる様子だ。手には皆が同じような大きさの冊子をもっており、しかと握りしめている。

「どこかで見たことがある写真だ」

受験勉強だったか、必ず見た記憶が残っている。あまりいい意味で先生は語っていなかった。その写真と、マーガレットさんの「赤」が結びいたとき、一つの環となって飛鳥の頭を回転した。肌が粟立った。

「でも、どうしてアメリカとつながるのかがわからない」

一つ解決したらまた新たな疑問が出てくる。一難去ってまた一難ならぬ、一問去ってまた一問だ。髪の毛をかきむしりながら部屋を後にすると、目の前にギルバートさんが立っていた。

「いかがされました?」

普段と変わらぬ平然とした態度が、逆に恐怖を与えた。女性の部屋に無断で入ったのだから、咎めるのが平常だろう。それを咎めずに静かに問い質すのは、別の怪しさがあるのではないか。薄気味悪くなって、僕は

「いえ、調べものをしたかったですから。失礼しました」

と言って足早に離れようとした。

「それは、熱心なことで」

すれ違いざまにギルバートが発した言葉は、例えようのない昏さを内に秘めていた。殺気だ、と感じたときにはすでに遅かった。

目の前に鋭い光が走って、目がくらんだ。冷たい悪鬼のような眼をした男の動きを、僕は封じることができなかった。

                            (つづく)

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