いじめと失恋と進路と不安障害で辛くても生き抜いている人がここにいるという叫び
タイトル通り、私は今いじめと失恋と進路(進路選び)と不安障害で悩んでいます。
自分で言うのもおかしいですが、毎日生きるのをやめてしまいたくなるほどしんどいです。
無論、私よりつらい人は沢山いると思います。私と同じ状況に陥っても全く動じない人もいると思います。
そこはあくまでも私の主観による苦しさなので、ご了承ください。
というわけで「なぜ苦しい状況に陥ってしまったのか」、「なぜそれでも生きているのか」といった事柄を中心に書いていこうと思います。
※完全な自分語りなので、そういうものが苦手な方はブラウザバック推奨です。また、特定防止の為いくつかの事情をぼかしています。ご了承ください。
①始まりは父の失業だった
まず前提として私の両親は今でこそ普通の夫婦ですが、昔はとても酷い不仲でした。
とはいえ生活できないほどではなかったですし、それが物心ついた時からの当たり前だったので、さほど苦しくはありませんでした。
親が不仲というのは一見してデメリットですが、ちゃんとメリットもあります。
お互いが子供から気に入られたい(そして最終的には親権を取りたい)ので可能な限りポケットマネーを全ブッパしてくれますし、
なにか不都合なこと、叱られるようなことがあっても「【片方の親】に言われたから……」と言えば万事解決、モーマンタイです(クズ)
たまに理不尽極まりない叱られ方もありました。親の怒声はひどいもので、喧嘩を目前で見せられることもしばしばでしたが、まあ生き抜いていました。
しかし、それも父の失業で急激に悪化してしまいます。
父は、私が生まれて以来努めていたある職場での人間関係の問題が深刻化し、
鬱になり、そして失職してしまったのです。
それ以来、ただでさえ冷え切っていた家庭環境は更に冷え、私は両親からサンドバッグとしての役割を見出され、
罵倒され、虐待まがいのこともされました。
そして、私は次第に重度な不安障害になってしまいました。
はっきりした時期は覚えていませんが、これは中学の時のことです。
②受験の失敗、内進コースへの入学
私は不安障害の中、必死に中学校に通いました。
誰かから吹き込まれたのか、自分自身が思い込んでいただけなのかはわかりませんが、
とにかく不登校だけにはなりたくなかったのです。
それに、冷え切った家にいたって仕方ないですか
ら。
そうやって登校しているうちに、気がつけば中学3年生。受験シーズンになりました。
それでも、私は病気を言い訳にして勉強をしませんでした。できませんでした。
そして、あっという間に春が到来し、滑り止めにしていた男子校のみ合格。
志望校だった公立は不合格でした。
当然、両親(主に父)からは怒られました。
両親は家庭環境が不安障害の原因だとは露(つゆ)ほども思っておらず、
言うとしても「あの人(もう一人の親)」のせいです。
頑張れなかったコンプレックスと親からの批判を抱え、私はとある私立の男子校に入学しました。
そこでの生活は案外なかなか楽しかったです。共学では味わえないようなバカなことや、特殊な授業は好奇心をそそられ、学問に励む日々でした。
それに、幸いにも彼女ができました。
遠距離ですが、なかなか幸せな日々でした。
しかし、そんな日々も長くは続きませんでした。
2年で私は内進コースに入りました。
私は不安障害もあり中学の勉強も基礎がぐらついていました。
高校1年当時の学力では行けたとして大東亜帝国(大学群です)に入れるぐらいでした。
だから私は、どうせ行くなら楽に行こうと、あまり考えず内部進学コースに入りました。
今思えば本当にバカな選択だったと思います。将来のことを何も考えていませんでした。
だから、その後のトラブルに繋がってしまったのかもしれません。
私はそのクラスで、深刻ないじめに遭いました。
➂いじめの内容、そして失恋
なぜいじめられることになったのか、いじめが開始して半年経った今でも未だにわかりません。
私が「調子に乗っていた」からか「そもそも馴染めなかった」からか……
とにかく、些細なきっかけからいじめに発展してしまいました。
元々私は小学生の頃にいじめられたことがあります。
元来男らしい性格ではありませんし、素質があったのでしょう。
いじめの内容は酷いものでした。クラスラインから追放されたり、わざと私の聞こえるところで悪口を言われたり、
私の写実的な似顔絵に「クラス全員」で落書きをされたり……(少人数クラスなので、団結しやすかったんです)
また、クラス内にいた親友(あくまで私が思っていただけですが)すらいじめに加担し、私の発言を捏造され、いじめはより深刻化しました。
そんな状況のせいで、治りかけだった不安障害は悪化し、私は鬱に近い状態にすらなりました。
それでも毎日登校していましたが、ストレスは相当なものだったのでしょう(変な言い方ですが、当時のことを覚えていないんです)。
そして、あろうことか次第に遠距離の彼女との貴重なデートでも陰鬱な感情を出してしまいました。
遠距離恋愛では生命線となる、普段のチャットですら私は陰鬱でした。
これはどう考えても私が悪いです。
本当に、申し訳ないことをしてしまいました。
至極当然ながら、ついぞ彼女からも振られてしまいました。
彼女を悪く言うつもりはありませんが、それからの日々はさらに最悪となりました。
不安障害に、いじめに、そして始めての彼女(しかもとても良い人)との失恋に……
私の精神はすっかり参ってしまいました。不眠になり、3時間か4時間しか寝れず(これでも不眠症の中ではマシなほうですが)、
汚い話ですが深夜に一人で嘔吐したこともあります。
でも、これだけでは苦しみの連鎖は終わりません。
前述の通り、私は考えなしに内進コースに入ってしまいました。
他の高校を知らないのでなんとも言えませんが、
このコースでは保健室登校やコース変更は絶対に不可能であり、
担任からも「クラスメイトが嫌なら出ていってもらうしかない」とも言われました。
しかし、出ていくとしたら通信制高校に行くことになります。
当然高校側が調べることを手伝ってくれるわけがないので、すべて自力で転学先を調べなければいけません。
この国には数多の通信制高校があります。
その中には普通の高校と同じように、自分と相性の良い通信制高校もあれば、悪い通信制高校もあります。
それらをすべてリサーチし最適な選択肢を選ぶのは至難の業です。
この頃には父の就職先もとっくに決まり、年の功か親の不仲も解消されていましたが、それでも私は高校生です。
親にはなかなか頼れませんし、頼ったとしても限界はあります。
そもそも親だって通信制高校について私より知らなかったので、実質戦力は知識もメンタルもポーン以下の私だけです。
……そんなこんなで、進路選びに奔走し気がついたら2月末になってしまいました。
志望高校は未だ見つからず、日々焦燥感と不安感が首に突きつけられています。
④なぜそれでも私は生きているのか。
この間、私は何回も、何十回も、死のうとしました。
首吊り用ロープはもう目を瞑っても作れます。真夜中のキッチンから包丁を持ち出して自分の部屋に置き、覚悟が決められないまま朝を迎えたこともあります。
枕を濡らさなかった夜のほうが圧倒的に少ないです。
それでも、私は生きています。
高尚な理由はありません。
ただ、優柔不断なだけです。
死のうと思った所で、迷っている間に自殺衝動は収まります。そうして今日も生き永らえました。
でも、「優柔不断」なだけでは無いかもしれません。
私は、この人生に意味を見つけたいんです。
私は生まれてから今まで、苦しかったことのほうが楽しかったことよりも遥かに多い人生でした。
1日単位でも月単位でも年単位でもです。
「苦しい人はあなただけじゃない」
そう言われても、他者との相対的な評価は感覚に適応されません。焦燥感と劣等感が身体を支配するのみです。
こういう場面で信じられるのは己の感覚を基準にした相対的評価のみです。
だからこそ、私はこの世界に何かしらの意味を見つけたいんです。
他者との比較でない、自分だけの純粋な価値をです。
それを見つけるまで、どれだけ辛くても生きていこうと思います。
ここまで聴いてくださりありがとうございました。
あなたの人生に幸あれ。
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