タンケ/今を苦しむ誰かのために

20歳、医療専門学生。生きていく中で得た気づきを誰かひとりにでも伝えられたらと思い書い…

タンケ/今を苦しむ誰かのために

20歳、医療専門学生。生きていく中で得た気づきを誰かひとりにでも伝えられたらと思い書いてます。 好きなことはサッカー、読書、音楽、アニメ、カラオケ

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最近の記事

ネメシアとライム

あなたから言ってきたんでしょ 今夜は襲っちゃいそうって その気にさせたのはあなたでしょ 追う追わないがそんなに大事? それもそうか 追われても好きにはなれないの 勝ちが決まってる恋に 熱も情もないんだわ 恋には階段があって 熱がないと始まらないの そのあとの準備はあるのに 中々たどりつけないの 誠実で真面目で一途なんて 始まりには必要ないわ 余裕と軽さと適当さが 心を踊らせるの 刺激なんてしょうもない 共感?違うから面白いんだろ 燃える恋はできないけれど 僕はずっとこ

    • この世界から脱出可能だと知る(思考の中で)

      他者に煽られてただ闇雲に、突発的に動き出してしまうことに問題がある気がする。 一度立ち止まって、時代背景的な視点と同時代の他の立場の視点から現在地を見ることで、ただ環境に流されている自分に気づくことが出来る。そうすると、その環境からは逃れられることが出来るのだという希望が生まれる。 ただ、そんな余裕すらもない人がいるのも確かだから、ある程度余裕のある人が近くの世界からでも考えていかないといけない。 意思決定を他者に委ねているうちは問題は解決しないと思う。問題の形も最適な

      • つまらないのは誰のせい?

        絵画を鑑賞できるようになるために時代背景や作者の生い立ちを知る必要があるのはそもそも絵画とは作者が誰かに伝えたい事であるからに他ならない。 これは絵画だけに至った話ではなく音楽や小説、アニメなど全ての作品は伝えたい思いが土台となって細かな部分にこだわることが出来る。 作品の思いを受け取るには作者自身の器量と受け取る側の教養というふたつのアプローチがある。 この内、受け取る側にできることは作品に対する縦軸(時間軸)と横軸(空間軸)に目を向けそんなナラティブがある中で、

        • それでもあなたは妬みますか?

          街で見かける可愛い子その隣にはブ男。 「なんであんな奴が。」 と思ったことは無いだろうか。 そいつよりも俺の方が努力してるし、頭もいいし、背だって高い。 なのに俺が持っていないものを持ってるなんて許せないと。 だがそれは認知の歪みである。 彼の外見や肩書きだけを見て全てを分かった気になっている。 そう思うのは無論、君が外面的な所にのみ価値があると思い込んでいるからだ。 君は彼がどんな人生を歩んできたかも知らないで、想像すらしないまま、不平不満をあげつらう。 「俺

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        • 心の友
          2本

        記事

          Parfect days この世の中で満足した日々を送るには、ユーモアの技術が必要だ。 木漏れ日はこの瞬間の私だけが感じられるものであり、唯一無二の「私」であることをより一層突きつけてくれる、親友のような存在だ。 世の中の感性に飲まれることなく余裕を持った人生を送りたいものだ。

          Parfect days この世の中で満足した日々を送るには、ユーモアの技術が必要だ。 木漏れ日はこの瞬間の私だけが感じられるものであり、唯一無二の「私」であることをより一層突きつけてくれる、親友のような存在だ。 世の中の感性に飲まれることなく余裕を持った人生を送りたいものだ。

          成功より成長。よりも楽しさ

          成功ではなく成長、 でもなく、楽しさに囚われろ。 成長の目的はあくまでも自分を上に立たせたいだけのプライドに過ぎない。自分の評価を気にしているうちは満たされない苦しみから逃れることはできないだろう。 have to とwant to の間でバランスを取りながらhave toの中からでも楽しいことが見つかる場合もある。

          成功より成長。よりも楽しさ

          受け取っていたことに気づくと世界の見方が変わる

          重い荷物を背負って街を歩く時、一気に社会に見放されたような気がしてくる。 普段は全く気にならないバスの2つの段差、2ミリ程度の段差、ホームと電車の隙間に至るまで私には親切にしてくれない。 こんな時に手を差し伸べてくれる人が居たのなら問答無用でその人を好きになるだろう。 なぜなら、バスの乗降や切符の購入にかかる時間、電車内の座席の確保に至るまで常に誰かに迷惑をかけているという気持ちに苛まれるからだ。 普段の私はそうい人がいても全くもって迷惑だなんて思わない。にもかかわら

          受け取っていたことに気づくと世界の見方が変わる

          深淵に飲み込まれそうになる時は目の前にあるものについて、どうしてこれがここにあるのかと問うてみるといい。 そうすると綿々と続く誰かの頑張りや想いによって今私の目の前にあることに気がつく。 それに気づいたが最後、私ばかりが不幸だ、などと言ってられなくなる程に力が湧き出てくるだろう。

          深淵に飲み込まれそうになる時は目の前にあるものについて、どうしてこれがここにあるのかと問うてみるといい。 そうすると綿々と続く誰かの頑張りや想いによって今私の目の前にあることに気がつく。 それに気づいたが最後、私ばかりが不幸だ、などと言ってられなくなる程に力が湧き出てくるだろう。

          我々には子供のように夢中になって、誰がいるとか関係なくはしゃいで、自然と声が出てしまう、そんな時間が必要だ。 私は何にはしゃいでいただろうか。

          我々には子供のように夢中になって、誰がいるとか関係なくはしゃいで、自然と声が出てしまう、そんな時間が必要だ。 私は何にはしゃいでいただろうか。

          高校サッカーに「贈与」をみた

          なぜ都会のチャラついた髪型をしてドヤ顔で立っている奴に腹が立つのか。 それはたぶん、 「お前の力でそこにたっている訳では無いのになんでそんなにイキってんだよ」 って思うから。それはつまり、能力がなかった自分から見た嫉妬やずるいという感情からだろう。 大してすごいことをした訳では無いのに自分のことをかっこいいとでも思ってる奴が嫌いだ。仕草や髪型、走り方にそれが現れる。そうやってひとつの評価基準の檻の中でヒエラルキーの上に立ってるようなヤツらが心底羨ましい。 世界はこんなに多

          高校サッカーに「贈与」をみた

          不寛容から抜け出すには

          自分は被害者で守られるべき存在だって思った時は、自分に優しくしてくれないもの全てに不寛容になる気がする。 資本主義や能力主義という構造自体が不寛容さを生み出す元凶になってるのでは。 時間的余裕も金銭的余裕もなければ私は被害者だって、慰められるべきだって思うのはしょうがない気もする。 車内で赤ちゃんの鳴き声にブチギレている人達に対しても、そのような態度を採らざるを得ないほど生活に困窮しているのだなと想像することが出来たら、不寛容のループから抜け出す一筋の光になるのではないか

          「すばらしき世界」

          果たして人を殺してしまったがいじめを見たら止めに入る人と障害者をいじめて表面だけいい人ヅラしてる奴のどちらが腐っているだろうか。生活弱者には厳しいこの社会はおかしい、だから変える必要があると善良な顔をして近づくリベラルは変えられないものを認められないから元々そんな人いなかったかのように一斉に手を引く。作中、三上を人として見ていたのは三上の即時的な怒りに身を引かず真っ向から向かい合った人たちだけだった。 彼は最後の日、苦虫を噛み殺すような笑顔を作り世間の声に同調した。かつて人を

          この世界がつらいなら

          自分を大切にするとは、他人と比べても悲観することなく自分の能力をちゃんとしたものさしで測って観てあげることだ。 自分と他人は違う。 猫だって同じじゃないか。 二本足で立てる猫もいればそんなことに興味がないって子だっている。 それができるから偉いとか社会的に価値のある人間だとかそんなことどうだっていい。 大谷翔平はそんな目的のために野球を続けているわけじゃないだろう。 君には君なりのペースと能力がある。すごい人になれないからと言って自己嫌悪に陥る必要は無いし、生まれてくるの

          ケセラセラから始まる息吹

          Mrs. GREEN APPLEのケセラセラ これを聞いてるとみんな何かしら悩みや苦悩を抱えて生きているんだよなって、他者への思いやりが生まれる。 そして、どんなことをされても許して共感してあげられるような共同体や仲間意識を持てて、めちゃくちゃ心に余裕ができる。 自分だけじゃない、皆それぞれ悩んでるんだって思えた時、自分の悩みなんか放り出して抱きしめに行きたくなる。 私は、だれかの悩みも苦痛もそれに付随してしまう行動も全てを受け入れ抱きしめられる、そんな人になりたいと

          ケセラセラから始まる息吹

          あなたがいることでそのままの私でいられた

          つまり、自分の能力を発揮できる相手がいる状態が幸せな状態と言えるのではないだろうか。 話し相手がいるとか、コンビニでおにぎりを買ってお金を払う相手がいることですら、当たり前のようでいて、実は私の能力を認めてくれる相手がいるということではないか? それって素晴らしいことじゃないか? でもこれらの行為は誰もが当たり前のようにできてしまっている事だから今更価値を感じるほどのものでは無いとみんなが思っている。 でも、みんなができるから価値がないとか誰もできないことだから価値が

          あなたがいることでそのままの私でいられた

          この世界も捨てたもんじゃない

          僕はついついみんなも頑張って生きていることを忘れてしまう。 なんで私だけこんな思いしなければいけないの?だとか、俺はこんなに頑張ってるのにあいつらは、だとか。 彼らも同じく悩み苦しみ頑張って生きている仲間だと、同士だと思えることが出来たならこの世界も割と捨てたもんじゃないなと思えてくる。

          この世界も捨てたもんじゃない