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それがやさしさじゃ困る

昨日の夕方に、ある新聞社から取材を受けたが、その際に「子供を分析しすぎるのはよくない」という話をした。

発達障害の子供が劇的に増えたことからも明らかなように、平成、令和の間に変化したのは、どちらかというと子供ではなく、子供に対する見立ての方である。今の子供たちは大人に分析されすぎていて、それが「配慮」という新しい管理の口実になっている。どんな子供かわからないままに、勝手に遊ばせておくという当たり前のことがそうではなくなっているのは、大変なことだと思う。

今の時代は、とにかく偶然的な未来を嫌う。イレギュラーは混乱のもとなので、前もって整えておくのがやさしさだと言われる。しかし、これは諸刃の剣である。既に配慮しているんだから、あなたの方もこっちが不快にならないように配慮して、という目に見えない外圧が世間をすっかり覆っているのだ。私は、こういう趨勢で割りを食う人たちをマイノリティと呼びたい。事実は単に個人の心が蔑ろにされているだけなのだが。

日本において、ソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)という言葉が「1億総活躍」というまがまがしい言葉の代わりに登場した(リンクPDFの注10などを参照)ことは示唆的である。インクルージョンは、今や中学公民教科書「現代社会」の単元において、太字の重要語句として登場するほどに時代を象徴する言葉に出世した。しかし、これが政治的に導入された経緯を踏まえれば、「ダイバーシティ(多様性)の理念のもと、社会の中で排除される人をつくらない、全ての人々が平等に社会に参加できるようにする」というその言葉のタテマエの裏には、資本主義の本音が隠されていることがはっきりと伺える。つまりこれは、あらゆる多様な傾向を持つ人たちが、どの人も資本的成長の足をひっぱることがないように、一般社会のレールに紐づけされなければならない。それが社会的包摂だと宣言しているようなものである。そこには、それぞれが別個の価値観の中で人生を豊かにすればよいという理念は含まれていない。

多様性を旗印として利用するだけして、つまり、あらゆる雑多なものを認めているふりをして、実質的にはすべてをノーマライズしようとする。「みんなちがって、みんないい」と嘯きながら、猥雑な多様性をまるできれいなもののように美しくコーティングして、多様性をむしろ見えなくしまうのが、現代のダイバーシティ社会の正体である。

いつも子供の思考を先回りして、よかれと思って段取りを組み、道を整える。そのことを通して子供が未来に有していたはずのあらゆる可能性の芽を未然に摘んでしまう。たびたびそういう親を目撃するが、現代はこの親と同じことを競うように皆でやろうとする「先回り社会」である。

多様性を認めることや、子供の可能性を信じることは、偶然性にさらされた突発的な出会いを、そのままに許容しようとする努力のことなのに、偶然性に目をつぶって初めから安心社会を作ろうとしている。むしろ、そういう安心を担保するような「正しい設計」を多様性の意義と考える傾向さえあり、世間はそんな表面的なダイバーシティをやさしさと呼んでいるのだ。

この意味で、現代的なやさしさは疑われてしかるべきである。私は日々百人以上の十代の子供たちと関わる仕事をしているが、実際に若い彼らはやさしい。私たちの世代にはなかった独特のやわらかさがあって、友達同士でお互いに傷つくようなことをなかなか言わない。いつでも他人への配慮を感じさせる。

しかし、このようなお互いをケアし合うような彼らのやりとりの中には、どこか心が足りていない。彼らは初めから他人と軽やかな関係を求めるだけで、相手のことを深く理解しようという腹積もりが欠落しているように感じられる。社会の表面的なやさしさと、今の子供たちのやさしさは、パラレルに繋がっている。

「先回り」をする安定志向は、実学を重視する学校の教育方針において尖鋭化する。学校では、実業に役立つことをすればよい、だから英語教育と理系科目こそ重要だという社会趨勢が強くなり、その流れで大学の専門学校化も進んでいる。

しかし、「役に立つこと」を初めから志向するなんて志が低すぎるのだ。世の中を変えるような革新的な発見や発明は、そのほとんどが「役に立つため」という動機で生まれていない。ある謎を解きたいと人が思考を重ねる実験過程で、偶然的に人の思考を超える形で生まれ出たものが、結果的に役に立ったことがほとんどで、初めから実業に役立つ学問をすることばかりに精を出すなんて、未来の可能性を放棄することに他ならない。

チャレンジというのは、そういうわからない未来に身を投げることであり、決して先回りして安定的な未来を獲得することではない。誰もがチャレンジをしないだけでなく、チャレンジの意味さえわからない時代になってしまった。

でも、チャレンジをしようにも、多くの人がすでに傷つきすぎているのだろう。だから、少しでも安心していたいのだ。子供たちを見ていると、彼らはすっかりスマホにいいように使われている。24時間、LINEなどのSNSの反応に感情を左右される彼らは満身創痍である。そんな彼らが、風雨にさらされて傷がむき出しになった岩石のように見えることもあるくらいだ。

しかし、そんな試練は子供時代には必要なかったし、その傷はあなたの傷というより「無意味の傷」なんだと言う大人がいないとダメだと思うが、大人だってもはや同じことになっている。むしろ無意味の傷を自分の傷と勘違いしてムキになっているのは大人の方で、彼らはSNSで、ある日は自分と同じ傷を負っている人に共感し、ある日は自分と同じ傷を負わせた誰かを感情的に攻撃する。そうやって傷を上塗りしながら自分の輪郭を確かめるせつなさ。

無意味の傷が、表面的なやさしさを呼び込むことで、傷とやさしさが虚しく回転し続けるメリー・ゴーラウンド。それが現代である。

(THE FORWARD Vol.4 実業之日本社 2022年9月30日発行)


*この寄稿文のタイトル「それがやさしさじゃ困る」は、この寄稿の後に始まった西日本新聞の連載のタイトルになりました。


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