見出し画像

BTS、救済の文学(前編)

 人間はもはや芸術家ではなく、芸術作品となったのだ

        フリードリヒ・ニーチェ『悲劇の誕生』


韓国出身のアイドルグループBTS(防弾少年団)がアイドルの脱構築を使命とし、それを活動のエンジンとしてきたことは、いまだにファンダム以外には十分に知られていないようだ。彼らは資本主義のまん中でダンスを踊りながら、自らの個性(キャラクター)を稠密に設定する。さらに、彼らを支えるファンたちが主体性とアイデンティティを確保できるように、自らの実存をファンたちに差し出す。一方で、国内外の外圧をすり抜けながら流動するエンタメ界を乗りこなし、その活動が長く持続することに注力している[1]。

防弾少年団の名は「十代・二十代に向けられる社会的偏見や抑圧を防ぎ、自分たちの音楽を守り抜く」というコンセプトに由来することは広く知られている。活動初期には学生の立場としてのカウンター、例えば学校や受験制度が強いる抑圧や、親を含む大人たちの理不尽な要求などをテーマにした楽曲を多数発表した。

また、韓国内の地域対立を下地に、大邱(慶尚道)出身のシュガ(ミン・ユンギ)と光州(全羅道)出身のJ-HOPE(チョン・ホソク)が方言でラップバトルを繰り広げる八道江山(パルドガンサン)や、隠喩を散りばめて光州事件を語ったMa Cityのように[2]、故郷の歴史的な痕跡を扱うことで、過去と積極的に関わるだけでなく、ポジティブな現在を構成することを試みてきた。

さらに、スプーン階級論やn放世代、ベプセやファンセ[3]など、時代を象徴するスラングを用いながら、既得権益を握ったまま手放そうとしない大人たちを糾弾し、そして若者たちには対しては、トレンドに乗った軽薄な消費行動を批判する(Spine Breaker(2014))一方で、「人生は一度きりだから悩むくらいなら使い果たせ」(Go Go(2017))と浪費を味わうことを促す[4]など、経済と社会情況を踏まえた一筋縄ではいかないメッセージを発信してきた。

しかし、BTSをその歌詞や音楽性だけで評価しようとするような既存の音楽評論では、彼らを低く見積もることになる。なぜなら、BTSの全貌を知るためには、楽曲やMV、ライブにとどまらず、小説やウェブトゥーン、グッズやゲーム、リアリティ番組など多岐にわたる公式コンテンツやプロダクト、インタビューやドキュメント、さらにファンダムであるARMYの反響を含めたBTSの「総体」を捉える必要があり、しかもメンバー自身がそれらの「総体」がBTSという一つの作品であるという姿勢を鮮明に打ち出しているからである[5]。つまり、彼らの実存と個性、楽曲とMV、メディアとARMYの間で乱反射するイメージがどのような布置関係を構成するかという課題、その課題自体が作品の一部として設定されており、その作品が持つ価値を世に問うてきたのが彼らの表現活動なのである。


波打ち際に立つBTS


BTSが発足当初、リーダーのRM(キム・ナムジュン)を中心としたヒップホップグループであったことはファンたちの間で広く知られている。ナムジュン青年の明晰なラップとリリックに魅了されたプロデューサーのパン・シヒョク(BIG HIT ENTERTAINMENT総括)は、彼を中心とするパフォーマンスグループを作ることを決意し、それがBTSの結成に繋がることになる。

RMはインタビューで「子どもの頃は、散文家や詩人になるのが夢でした」と話し[6]、また、ラップ(RAP)を始めた理由もそれがRhythm and Poetry(リズムと詩)の略語であると考えていたから、つまりラップが詩を伝える媒体になることに気づいたからであることを語っている[7]。こうして、RMの創作の原点に音楽よりも詩が先にあったことは、BTSの活動に決定的な影響を与えることになる。

RMが活字中毒と言われるほど読書家であることは多くのファンにとっては周知の事実である。彼が書いた膨大な歌詞の中には様々な作者の影響が散見されるが、特に影響を受けている作家として挙げられるのが、哲学者フリードリヒ・ニーチェである。彼はデビュー前に書いた曲Skit:On The Start Line[8]で次のように歌う。


 まるで僕の前に青い海があるような

 でも後ろを振り返れば、荒涼とした砂漠が僕を待っているような

 そんな気持ち

 
 僕がデビューをしても

 おそらく他の海と他の砂漠が僕を待っている

 でも少しも恐くはない

 きっといまの僕をつくったのは、いままでに僕が見た海と砂漠だから[9]


デビュー直前に綴られ、デビューアルバムの隠しトラックとして密かに収録されたこの曲に出てくる「海」(바다)と「砂漠」(사막)の語は、ニーチェの代表作『ツァラトゥストラ』に繰り返し登場する「海」(Meer)と「砂漠」(Wüste)に対応する[10]。この曲以降、RMは歌詞の中に「海」と「砂漠」と登場させることで、その時々の複雑な心情を歌詞に託すことになる。

BTSは2017年にアメリカのビルボードミュージックアワードで初受賞を果たしたことで、世界のトップグループとして広く認知されるようになった。

この頃に制作されたアルバム『LOVE YOURSELF 承 'Her'』では、やはり隠しトラックとして収録された曲Seaの中で「海」と「砂漠」を主題としたリリックが刻まれる。この歌詞では、彼らが世界的な人気を手に入れたときに生じた葛藤と虚無感が「海」と「砂漠」というアンビバレンツな二つの表象によって効果的に示されている。海(=希望)のように見えるのは、実は青い砂漠(=希望を装った絶望的現実)であり、砂漠の蜃気楼(=絶望的現実の中で見る蜃気楼としての希望)かもしれないと、世界的人気を博すようになった境遇の変化を、まるで白昼夢のように眼差す彼らの姿がそこにはある。

この曲Seaに込められた絶望に対するARMYの応答(アンサー)「私たちが一緒なら砂漠も海になる(우리 함께라면 사막도 바다가 돼)」[11]はその後、BTSとARMYの絆を象徴する言葉としてファンたちの間で長く語り継がれている。そして、それに応えるようにメンバーたちは「ARMYのおかげで砂漠が海になった」という内容を含む曲をいくつか発表している[12]。

しかし、ここで刮目すべき点は、メンバーたちは必ずしも人生の安楽を象徴するような「海」の状態を目標(ゴール)に定めているわけではなく、むしろ海と砂漠の拮抗状態に身を置くことにこそ積極的な価値を見出しているところである。だから、彼らはSeaの歌詞の中で「もともとここは砂漠」だから「走るしかない」「悩むしかない」と歌うのであり、ON(2020)では「オレを投げろ、この二つの世界へ」「Bring the Pain(痛みを持ってこい)」とダブルバインドな世界で戦い続けることを誓うのである。

彼らの活動の第一章の最後を飾る曲として知られるYet To Come(2022)のMVでは、砂漠の中にいながら海の波音に耳を澄ませるメンバーたちの姿がビデオの最初と最後に映された。つまり、彼らは「どの木も節くれだち、曲がり、強靭に育って、海ぎわに立たなければならない。不屈の生命の生ける灯台として」(『ツァラトゥストラ』[13])をまさに実践しているのであり、これからも海と砂漠の間の波打ち際で自己探求を続けることを明確に打ち出しながら第一章にピリオドを打ったのである。


メディアによる歴史性の創造


BTSの楽曲の中で、最も明確にニーチェの思想が反映された楽曲は2019年の曲Dionysus(ディオニュソス)である。ニーチェはデビュー作『悲劇の誕生』の中で、ディオニュソス的形式とアポロン的形式の拮抗と介入を描き、そのダブルバインド性にこそ生成の源があることを示唆した。ニーチェによれば、ディオニュソス的な陶酔がアポロン的な形を得ることによって「悲劇」が創造されるのである。BTSのDionysusは、ディオニュソスがローマ神話では酒を飲む神様(バッカス神)であることを踏まえた上で、非理性的なカオスの中に芸術の創作性があることを言祝ぐ歌となっており、そのMVとパフォーマンスはまさに混沌と陶酔の再現であった。

BTSにおける「海」と「砂漠」に象徴されるダブルバインド性の表現は、その多くがニーチェから発想を得たものである。そこにあるディオニュソス的精神が彼ら自身の創作のエネルギーとなり、さらに彼らの文学の屋台骨となってきたのは間違いない。現代社会において、二律背反を矛盾と捉え、それを二項対立として措定することが「分断」を生み出しているとすれば、それを矛盾と捉えることなしにダブルバインドを把持するものと捉えると「文学」が生まれる。この意味で、ニーチェが定式化したとも言えるその公理を存分に反映させたのがBTSの歌詞世界である。

しかし、このダブルバインド性が、歌詞やMVに留まらずに、メンバーたちの実存を侵食し、創作と実存とが結託して一つの物語に収斂されていくことがBTSの特異性である。

ライブパフォーマンスにおけるメンバーたちの研ぎ澄まされた刹那の表現。ドキュメント番組の中で見せる普段とギャップが大きい彼らの複雑な表情。これらを通して、メンバーひとりひとりの実存の中に、確かに相反するものが同時に宿っていることにファンたちは気付き始める。そしていつか、彼らの創作の世界に描かれていた複雑性を、実在として噛み締めるようになる。このような物語の生成過程を通して、ファンたちは彼ら7人のそれぞれが、代替不可能な唯一無二の存在であることを確信するようになるのである。

BTSの躍進を語る上で、YouTubeなどの動画投稿サイトの存在を抜きにして語ることはできない。彼らのイメージは、無数に存在するコンテンツによって何度でも再生産され更新され続ける。こうしてメディアによってイメージが反復され、何度でもその確信が強化されることは、ファンたちにおける強力な歴史性の創造を促した。そしてこのことがARMY内に危うい熱狂を生み出していくのである。


創作と実存の境界が融解する


以上の点から、BTSの活動において最も注目すべきプロジェクトが「花様年華」シリーズをはじめとするBU(BTS Universe)である。BUにおいては、公式から出るMVやショートフィルム、小説、ウェブトゥーンなどによる複雑なストーリーが相互にリンクしながら、「もしかしたらあり得たかもしれない別の世界線」を必死に生きるメンバーたちが映しだされる。自死、母の焼死、父親殺し、薬物中毒、交通事故死など、その世界で描かれる彼らの人生は過酷そのもので、何度タイムリープを繰り返しても止むことのない災難と悲劇をどう乗り越えていくのかということがストーリーの主題になっている。

これらのストーリーでメンバーたちは全員実名で登場しており、このことはファンたちの間でさえ批判の対象となってきた。視聴者は、実名が使われているが故にメンバーひとりひとりの個性をパラレルワールドのストーリーにそのまま投影する。そして、それを通して物語の深淵に嵌っていくという危険を冒すことになる。つまり、BTSはメンバーたちの実存を差し出すことで、確信犯的に実存と物語の境界をあやふやにする戦略を取るのである。

このように、BTSのコンテンツ内では作品のイメージと等身大の実存とが融解している。境界が融けてグチャグチャに入り混じっている。そしてファンたちは、そのグチャグチャこそを舌舐めずりしながら味わっているのである。このことに気づいて「さすがに悪趣味ではないか」と声を上げるファンがいることは、ARMYの良心と呼ぶべき事象である。

このように、彼らの実存とコンセプトイメージが綯い交ぜになることがファンたちの依存を強め、自身と推しとの自他境界を失わせる。ARMYの一部が他のファンダムから狂信的と言われることがあるのは、このことと切り離して考えることはできない。

しかし、なぜ彼らはこのようなリスクを冒してまで作品を発表し続けるのだろうか。そこには彼らなりの救済のための道があるのだ。彼らは自らが文学という装置になることで、その大いなる目的を果たそうとしている。


世界文学としてのBTS


近代において、世界各地の文学は意図せずとも「国民」というアイデンティティを創出する装置として機能した。例えば、日本において明治における(言文一致体による)近代文学という発明が、共通の言語と歴史を持つ「国民」という共同幻想をもたらしたことは論を俟たない。BTSはこれと同じような文学の力を政治的に借用することで、確信犯的にARMYという共同体(ファンダム)を創出し、それを個々の主体性確保の拠点とする。

インターネットによってもたらされた多種メディアによる反復作用は文学の強度を高める上で格好の材料だった。メディアはARMYたちに共通の起源と来歴を共有させ、歴史性を帯びた記憶の主体として生きることを強力に促すことに成功したのである。その成功は過去のあらゆる音楽グループの規模を遥かに凌駕するものであった。

2016年にボブ・ディランがノーベル文学賞を獲ったことで、地を這って人々の間に息づく「歌」がそのまま世界文学として評価される道筋が開かれたが、BTSは歌だけに留まらず、自らをメディア化し、作品の一部となることを通して強力な文学を構築する。このことが世界中で熱狂を生み出していることは、BTSを世界文学として捉えることで初めて了解可能な現象となる。

無論、このような現象自体は大衆文化において歴史上初めてのことではない。しかし繰り返しになるが、BTSはその危険を知りながら確信犯的に活動を行ってきたという点に特異性がある。

21世紀に入り、世界が流動化して歴史の厚みを失っていく中で、主体の根拠が曖昧なままに育った若者世代であるメンバーたち自身が、BTSという物語を通して主体を取り戻すことをARMYたちに呼び掛けたのである[14]。

そのための必要条件は、ファンたちの間で多彩なメディアを通した集合的記憶が醸成されることであり、そのことを通してARMYという共同体のアイデンティティを創出し、共同体への強固な帰属意識を確保することであった。

*後編に続く

(群像 2023年9月号)



[1] BTSがアイドルとしては破格といえる自由な表現を続けることができたのは、彼らのデビュー当時、所属事務所BIG HIT ENTERTAINMENTの経営は零細であり、彼らと事務所とが手を取り合って共に成長してきたという幸運な環境面を抜きにして語ることはできない。

[2] Ma Cityについては、特に光州出身のJ-HOPEのヴァース部分について拙著『推しの文化論』(晶文社)にて詳解している。

[3] 「スプーン階級論」や「n放世代」は、日本における「親ガチャ」と似たニュアンスで使われ、若者世代の貧困や諦念を表す言葉として韓国内で流布している。ベプセとファンセはそれぞれダルマエナガ(達磨柄長)とコウノトリのことで、「ベプセがファンセに追いつこうと無理をすると、ベプセの股が裂ける」という意味を持つことわざから採られている。BTSは自らを「泥のスプーン」「6放世代」であり「ベプセ」であると歌った。詳しくは拙著『推しの文化論』(晶文社)5章を参照のこと。

[4] BTSが楽曲の中で描いた「消費」と「浪費」の対比については、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(2015)を援用しながら『推しの文化論』5章で解説した。

[5]RMによるネット配信(V LIVE 2022.4.9)の発言など。

[6] Rolling Stone Japan by Brian Hiatt (訳 Shoko Natori) 2021.6.23

[7] Variety by Chris Willman 2021.12.1

[8] デビューアルバム『2 COOL 4 SKOOL』(2013)の隠しトラックとして収録。

[9] 本論のBTSの歌詞の和訳は著者。一部は朴琴順が韓国語監修を行った。

[10]RMらメンバーが書く歌詞の中では、「海」は希望や穏やかさ、「砂漠」は孤独や試練の表象として対比的に用いられるのに対して、『ツァラトゥストラ』において、「海」は情熱や欲望、勇気、荒々しさ、深さ、穏やかさ、誘惑、虚栄心など、そして「砂漠」は神の不在や孤独、自己探求、虚無、自由など、非常に複雑でそれ自体アンビバレンツな表象となっている。つまり『ツァラトゥストラ』における「海」と「砂漠」には個別的な対立があるわけではなく、むしろ相互補完的な存在として描かれていることに注意が必要である。

[11] THE WING TOUR THE FINAL(2017)のライブにおいてARMYたちがメンバーにメッセージを伝えるために掲げたスローガン。

[12] 最近ではメンバーのジミン(パク・ジミン)のソロアルバム『FACE』(2023)の隠しトラックLetterの中に「僕たちがいっしょなら砂漠も海になった」、さらにFESTA(2023)期間中に発表されたBTSの第二章の始まりを告げる新曲TAKE TWOの中にも「砂漠は海になって僕らは永遠に泳ぎ続ける」という歌詞がある。

[13] 本論中の『ツァラトゥストラ』の引用は全て『ツァラトゥストラはこう言った』上下(氷上英廣訳 岩波文庫)より。

[14] このことの最たる成功例が、彼らが国連と協働して行ったLOVE MYSELFキャンペーン(2017~)である(詳しくは後述する)。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?