見出し画像

2023年 親と子の間で考えたこと その3

勉強に対する子供の「やる気がない」という親の嘆きは、現在の子供の内面を責める形で表出するが、その時に親が見て見ぬ振りをしているのは、子供がいかなる時間を過ごしてきたかという歴史の問題であり、その歴史には当然親も含まれる。このことに自覚的であれば、勉強しない子供のやる気を一方的に責めるようなことはできない。それは現在の子供のせいにできるような単純な話ではないからだ。
しかしここで厄介なのは親は子供のことを熟知しているからこそ「やる気」がない原因を子供自身に見出し易い点であり、親のこうした理解は子供の精神的支えでもあるし、そういう熟知性に基づいた「やる気がない」分析を間違いと断ずることはできない。
要は、親自身を含めた外的要因を先に明らめることなしに子供のせいにすると、子供は身動きが取れなくなるということで、やる気がない理由を子供自身に帰することが常に間違っているわけではない。(9/4)

大人は、子どもに自分の意志を持ち、夢を抱くことを求めます。しかしその正体は、彼らが社会の中で無難なオプション選択をすることを望んでいる程度のものなので、結果、多くの子どもが無難さ自体を目標とするようになります。しかも、そういう子が大人からは評価されやすい。大人たちがそうでない子の無限の可能性を見ないのは、自分の無難な人生が否定されるように感じるからでしょうか。(西日本新聞連載より 9/8)


思春期の進路面談で、良かれと思って子供の意向ばかり聞こうとする指導者は的を得ないことが多い。なぜなら思春期の子は(反発的な子さえ)親の影響を多分に受けており、さらに自分の言葉で意向を伝えることがまだ不得手な場合が多く、結果的に親の言葉も含めて総合的に判断する必要があるからだ。(9/15)

受験が近づくにつれ、かえってやる気がなくなっていく受験生がよくいるが、そういう子たちは「勉強のやる気がない」という言葉で片付けられるレベルではなくて、先の見えない進路に対する不安と絶望を抱えていることが多いので丁寧な対応が必要(なのに焦る親は責め立てるばかりになりがち)。(9/15)

思春期の子供はちゃんと大人として扱わないと(公の場では特に)というのは真で、逆に、思春期の子供の未熟さをナメんなよ(ちゃんと一から言わないとわからないんだよ)というのも真である。
思春期の子供のわかっていなさについて腑落ちするのは案外時間がかかる。私も十年前くらいまではちゃんとわかってなかった。(9/16)

ほめる子育ては良いか悪いかみたいな話がよくあるけど、その前に、ほめるときに本気でほめてるかってことを考えたほうがいい。 本気でほめてるなら悪いことのわけがない。子供をコントロールする意図でほめようとするから良いか悪いかみたいな話になる。(9/16)

子供がやせ我慢をして笑っているのを見てこの子は気楽だという大人って単に鈍感なんだろうか。子供が笑うことで自分が守られていることになぜ気づかない。
ただこれ、親としては自分を守ってくれようとする子供の心を守りたいという二重構造の場合もあり、ここには親と子の関係の厄介なかけがえのなさがある。(9/18)

子供は真に受けるという事実を十分に真に受けない大人のせいで子供の傷つきが拾われないことがある。大人は子供の現実を一旦真に受けたほうがいい。
一方で子供の世界の現実を大人が全て受け止めると、子供はいつまでも自分の世界にいることを許され、自分を観察の対象として味わうことを学べない。(9/18)

教室でのテストは公正を期すべき。もちろんその通り。でもテストを前にして止まったまま何も書けない子がいたら、公正なんてかなぐり捨てて少しでも書けるようにその場でなんとかするほうが指導者としては当たり前のはず。私はまだ手が回らないことがあって子供たちに申し訳ない。ちゃんとしたい。(9/18)

「~すべき」の「べき」なんていらない、という今どきの考えがあるが、子供と向き合う人がそんなことを言っていたら、大人の自分が何の責任も取らないということになりかねない。(9/18)

自分の授業に自信が持てなかったら一人一人の子供と向き合えなくなる。そんなことは当たり前だが、いつの間にかその袋小路から抜けられなくなっている教員はたくさんいる。(9/19)

宿題なんていらない、と言ってる大人の中には、子供は勉強したくないのに、という偏見がセッティングされてることがあるが、とんでもない。子供は勉強したいし、自分を伸ばしたいはずで、その心を大人が阻害してしまった挙句に「勉強したくない子供」をデフォルトにしてしまった貧弱な見立てこそ問題。(9/21)

子供の人生を勝手に悲劇仕立てにする親がいる。子供はそのままで可能性が無限にあるのに、自分の狭い了見で子供を低く見定めてしまう。こうして、子供のことで泣いているつもりの親は、子供の将来の明るい可能性を握りつぶしてしまう。子供が親の見立てから自由になって、もう一度自分の人生を取り戻すのにどれだけの時間がかかるだろう。(9/21)

失敗しない子育てというフレーズが流れてきた。子育てに失敗という言葉をくっつけるのは品がないが、それでも端的に1つだけ答えるならそれは、家庭を子供を管理する場にしないこと、これに尽きる。管理すると子供の息が詰まる、結果失敗する。管理は子供にとっての家庭の役割を根本的に損なう。(9/22)

かつての子供の世界では喧嘩は重要な地位を占めていたが、今では喧嘩は忌むべきものとなり、加害被害の枠組みでしか捉えられなくなった。大人の安心のために世間が漂白されたせいで、子供が社会や政治や善悪について身をもって知る機会は少なくなった。(9/27)

*写真は赤瀬川源平「一年生」より


人を傷つけてはだめ、自分の欲求を押し付けない、人の話はちゃんと聞く。小さい頃からそういう大人からの言いつけを一生懸命守ってきた子が、自分を否定されても欲求を押し通したいというわがままさを全て放棄してずっと生きるとしたら、なんて怖ろしいことだろうと思う。(9/27)

十代の自殺の原因の1位は学業や進路についての不安によるものだが、その不安は本人というより親、ひいては世間の不安が投影されたものであるという意味で大人たちに重大な責任がある。(9/27)

受験生の子供が不安に襲われた時、その不安に親が巻き込まれない(真に受けない)ことで子供が救われることは多々ある。 子供には最初不安なんかなかったのに、親の不安に巻き込まれる形で子供の不安が強まることも多々あり、この場合、親が迷走するので翻弄される子供はほんと大変だ。(9/28)

不登校などを通して「みんなと同じレールに乗れてない不安」を抱えている子の前で「将来の不安」を口にする大人はその子の不安を増長させることで足を引っ張っているだけ。いないほうがいい。「将来の不安」という見立ての根拠のなさを語り、いまその子が力を充溢させることに傾注する大人が必要。(9/29)


うちの子にもいいところがあるから…とわかったふりをしながら、子供に「残念だったね」という負の視線を向け続ける親。このデフォルトの親の思い込みこそが残念なんだよ。子供はそういう親のいたわりこそを踏みにじって前に進まなければならなくなるからほんとに大変なんだ。(9/29)

子供が社会に最適化することを最大の目標とする教育の現場で個性の伸長を呼び掛ければ、空気を読みながら悪ふざけするような小悪党が誕生するのは当然の帰結。小悪党ばかりが跋扈している。(10/2)

子供の関係性の中に大人が割って入って未然にトラブルを回避する風潮はますます強まっている。親もそれを望む人が多いし子供も初めから親や大人に解決してもらいたがる。子供どうしが「非接触」になり、関係性の中で問題を解決する力をつける機会を奪われるようでは未来はない。(10/2)

子供に手を焼いている親が「うちの子を叱ってください」という要望をしてくることがあるが、自分のもどかしさを子供だけでなくこっちにまでぶつけてくることに驚く。指導者は瞬間的には親以上に子供のことを考えてその都度の最適な指導に知恵を絞っているわけで、横から「叱ってください」と言ってくるのは失礼だし、親に「叱ってください」と言われたから子供を叱る人は指導者失格である。(10/3)

うちの子は全然やる気がない、偏差値が伸びなくて未来がないって思ってる親は、自分がいかに奇妙で差別的なことを考えてるかに気づいてほしい。その焦りは自信のない自分が作り出したもので、全然本当ではない。(10/4)

高校の進路指導の際に、物理の先生が「理系の方が給料高いから基本的には理系を目指した方がいい」と話したらしい。しかも文系志望の子に対して。仮にそれが事実だとして、そのことが目の前の子の人生に一体何の意味があるのかと問い直してほしい。(10/15)

思春期になってとうとう自分の人生の楽しみを見つけ出したな…!という子供に対して、親はたびたび「最近うちの子は心配…」と言う。(10/15)

過去のことを持ち出して子供のことをなじる大人は多いが、子供はもうそこにはいない。子供はもうずっと先に進んでいる。自分が子供に全然追いつけていないことを棚に上げて勝手なことを言うもんじゃない。(10/19)

大人が子供の道行を先回りして整えすぎることの問題点の本丸は、自然に生じたはずの子供の欲望が生じる機会を奪ってしまうことにある。こうして自分の欲望自体が分からない子が育ってしまうのが問題で、そのせいで苦労している大人もいまたくさんいる。(10/28)

体育教師の一部が殆ど無意識の悪意でジェンダー規範を男子生徒たちになすりつけてそれに馴染まない子たちに恐怖を与え、そのせいで学校に行けなくなる子さえいる(しかも明確な「被害」を受けていないので子供は馴染めない自分が悪いと考えがち)のを深刻に受け止めてる教育者ってどれだけいるだろうか。
そもそも学校の体育は前後の着替えも含めて、他人や同性の間で自分の体がどうふるまえばよいかという戸惑いの中にいる子供、もっと言えば集団の中で自分の体が急に貧弱(または異形)に思えて、身の置き所がないことに困惑し打ち震えている子供にとって、あまりに難易度が高すぎる時間だ。(10/29)

子育てが難しい...と感じているときって、なんとかうまくやろうとする意思がはたらいているという点でどこか調子悪いとき。親が意識的にできることは限られていて、ただ日々共にいてお互いが自らを賭けて存在を擦り合わせている事実が関係を支えている。(11/1)

家庭で性教育をすることに意義があるのはわかるが、性は易々と一般化、普遍化できないという前提なしに行われてはならないと思う。また、親と子の間に「秘密」があることがお互いの尊厳を守る砦になっていることがあるのも同時に考えなければならない。(11/2)

小学校の教室で吃音の子を周りの子たちが笑う。それを先生が注意する。こんなとき先生の働きかけはとても重要だ。それは吃音の子を守る砦だから。だが先生が注意することは、同時に子供たちの自然を奪う。この「同時に」を理解することは教育の根幹にかかわる。教育というのは子供の現実を先取りし、先回りしてしまうことと切り離せないので、同時に何が起きているかを見極めることが欠かせない。(11/2)

中井久夫は著書の中で、児童のことを「よい子」と呼ぶようになったのは確か戦時中のことで、社会がそういう可愛げのある子どもであることを求める傾向は「全体主義への傾斜」とまで言っている。(11/3)

目の前のテストではなく、子供の三年後、十年後の幸せのことを考えながら子供に接する。これが子供より長く生きてる大人の義務。(11/7)

教室のビルから出たら遅い時間なのに卒業生の子がいて、学校の成績がやばい話や友達できない話や姉が家出した話なんかを、私の過去と彼女の今のどっちのほうが詰んでるかなんて言いながら悲壮感なくお互いに爆笑し合いながらマシンガンで話して、10分も経たないうちにじゃあねと言って別れた。(11/7)

いまの子供たちは、多くの大人が他人になんて興味なくて自己本位に他人を利用するだけというあまりに現実的な側面を日々SNSで学んでしまっている。(但しこれは現実の一側面だ。)このことが昨今の子供たちのある種のドライさと関係していると感じることがある。(11/20)

教育現場で「生徒一人ひとりの声を聞かないと」と良き教師たちが奔走するとき、その声を「子供の内面」に限定してしまい、問題を内面化しすぎる傾向がむしろ副作用をもたらすことがある。声はもっと世界に開かれた一種の媒体であるはずだという見立てが同時に求められる。(11/20)

テストの見直しをしなさいと子供に言い続ける気持ちはわかるし、実際に見直しはその子の躓きを埋める方法として有効だが、子供がそれによって勉強が嫌いになるほどの価値はない。子供のテストの見直しを親が管理し始めると碌なことはない。かえっていろんなやり方があることがわからなくなる。(11/21)

小受・中受のメリットをいくら聞いても肯定的になれないのは、幼年期の苛烈な競争によるダメージは、高受・大受と比べて長引きやすく深刻になる傾向があるから。(もちろん小受・中受が結果的に子供にとって良かった例もたくさんある。当たり前だ。)(11/23)

私の書籍や日頃の発言の中で、小受・中受を批判しつつも完全否定しないことを訝しがったり批判したりする人がいるが、小受・中受にも子供にあまり負担を与えない形式はあり得るし、実際に現状の最善策としてそれを選ばれる方もいて、それも尊重されるべき。現場感覚として当たり前のこと。(11/23)

子どもがまわり道をしなくて済むように効率のよい正解ばかり与えようとする大人は、子どもが試行錯誤しながら解決する筋道を見つける経験を奪っているという簡単なことがわかっていない。(11/29)

小受、中受に乗るなら、受験の低年齢化に高邁な思想の根はなく、単に各学校ができるだけ早いタイミングで子供(生徒)を囲い込みたいだけという資本の欲望をガン見した後にしてくださいね、という気持ちがある。(12/4)

授業中に国語教科書の作者の写真に落書きをしてたら先生からマジ切れされた子の話を聞いて、あの写真は授業中に子供たちが落書きをするための教材なのにと思った。(12/5)

カンニングは本人だけの問題ではないし、すぐに断罪すべきことでもありません。指導者にとっては、子どもに何が起こっているのかを注意深く見るためのきっかけになることも多いです。(12/7)

大人が子供に「ちゃんとしなさい」と声を掛けるとき、そこには、みんなとうまく合わせなさい、「普通」にしていなさい、というメッセージが込められている。大人は子供の頃から今に至るまでずっと「ちゃんとする」という規範の中の生きていてそこから逃れられない。これは差別の問題とも繋がる。(12/7)

幼少期の子どもは作ることを意識しないままに作る。しかし、思春期になると、作ることが気恥ずかしくなることに加え、スマホやゲームをやる時間が増えて作ることから遠ざかる子が多い。さらに、作ることができるのは選ばれた特別な人であり、作ったところでそんなことでは食ってはいけないと大人たちから入れ知恵をされる。こうしていつの間にか、生活の前景にあった躍動が、人生の後方へと静かに消えていく。(12/7)

中韓などに対する蔑視発言を子供の前でする親(特に父親)は一定数いて、それを聞いて育った子たちがそういう差別はありえないと私が言うのを聞くと、グググと胸の内で煩悶が生じているのが見える。敢えての影響力を行使して絶対にありえない許しがたいと畳み掛ける。(12/7)

テストでケアレスミスが多い子というのは確かに存在していて、単に練習が足りない(つまりケアレスミスとは言えない) 子もいるんだけど、そうでない場合は快感原則(フロイト)に関わっていて、つまり緊張と弛緩のバランスを本人が行為の持続のために無意識に取っているわけで、だから意識的になることを呼び掛けるより、あくまでテクニカルな方針を示してあげた方がよい。(12/11)

中高生たちの会話を聞いてると、フェミ(ニズム/ニスト)という言葉は高い頻度で笑える(バカにしていい)ネットミームとして認知されていて(その延長で日常会話でも使われていて)、そのノリだと思うが大変なことだ。LGBTをミーム的に使う子もいる。大衆化とは常にそういう側面がある。(12/11)

成績中位の学生はまだまだ勉強に本気じゃない子が多いので、できない箇所をできるようにするというより「ここできるのになんとなくめんどいからやってないよね」という指摘の方が有効なことがある。できるとできないの間。(12/12)

これは子供本人の意思/意志だからと言いながら自分とその欲望を免責し、結果的に子供を守れない大人はダメだ。子供本人の意思/意志を尊重すると言いながら自分を免責する大人が増えたのは世の中の堕落。(12/12)

そんなこと微塵も思ってないのに、頑張らないなら大学(高校)行かなくていい、塾に行かなくていい、と子供を脅すのやめてほしいという話は『親子の手帖』をはじめこれまでに何度か書いてきたが、これは何度でも言い続けなければならないんだろう。(12/15)

思春期の男の子はめちゃくちゃ苦しくてどうしようもない状態でもお母さんには何も明かさない子が多いが、これは彼らなりのやり方でお母さんを守ろうとしてる面がある。(12/16)

高校入試は入試まで気持ちよく勉強できている子のほうがうまくいくことが多く、勉強やれやれ言われ続けた子は気持ちよく勉強できてないので伸びない子が多い。語弊を恐れずに言えば、高校入試程度で子供を追い詰める大人たちはその先の大学入試が見えてなさすぎる。高校入試でさえこれなので、小受、中受で子供を追い詰める大人たちはほんとにどうかしている。そこで勉強嫌いにしてどうする。(12/17)

「いい学区」を選んで子供を学校に通わせるなんてことはやめたほうがいい。「いい学区」を選んでそこに住むことにした親の子どもがたくさん来てる学校に通うことになると言えば、その理由はわかるのではないか。(12/18)

親がふたごやきょうだいの目の前でふたりを比較し始めると、やめてあげてと叫びたくなる。片方の子の目は嬉々として輝き、もう片方の子の目はどんよりと曇って体まるごと土の中に埋もれてしまいそうだ。(12/21)

大人はしばしば遡行的に子供の素朴な純粋状態を仮想しがちであるがはたしてそんなものはあるのか。さらに純粋状態を想定するときには暗黙に空っぽの器のイメージを抱きやすいが、子どもは器そのものが十全ではなく、器を前提できない。(12/22)

大人である親は変われないと悲観的に言われることがあるが、そんなことはない。子どもが思春期になってからも親は変われるし、それによって子どもの心理的環境が劇的に改善することもある。(12/23)

小3?の頃、クリスマスの朝に枕元に置かれていたプレゼントが岩田屋の包装紙に包まれていたのを見て、サンタのプレゼントが岩田屋なんておかしい!と泣きじゃくった。サンタの不在の可能性に泣いただけではなく、ちゃんと100%の完成度で騙してくれという親への抗議の気持ちも混じっていたと思う。(12/25)

相手のやる気を削ぎたいなら方法は簡単で、相手のネガティブな過去を蒸し返してそれを叩けばいいのだが、そのことをやる気を出してほしいはずの子供にする親の多さ。(12/28)

思春期は身を裂くような内的葛藤が起こりやすいが、受験勉強に極度に傾注することで葛藤せずにすんでる子も多い。(12/28)

親が子供にあなたを助けてあげたいという感じを出し続けると、子どもはもう必要がないのに助けられてあげようとする。(12/28)

中受が子供たちの当たり前の自由を奪う面がある一方で、小学生で毎日のように塾に行きながら、それでも太陽のように明るくて楽しそうで毎日きらきらしてる子がいるというのも、別のリアルとしてある。どちらのリアルも見ること。ちなみに、受験で子供が苦しくなるというのは、周りの大人が上手く立ち回れていないからというのが9割。(12/29)

親の「あなたはまだまだ足りない」という見立ては、子供にとってはゆるぎない現実になる。これによって子供が苦しむことになる罪過を大人は見逃しすぎている。第三者からみたらどちらもほとんど変わらない状態なのに、ある子は「まだまだ足りない」と言われ続け、ある子は「いつもがんばっているね」と言われる。どちらの方が子供が健やかに育つかは言うまでもない。親の見立てが子供に与える影響の残酷さについて、これでもかというくらい目撃してきた。(12/30)

「弱くても大丈夫」「頑張っているから大丈夫」「成長しなくてもいい」という子どもにかけられる言葉が、言葉をかける大人自身への慰撫として機能していることがある。悪いことではないが、それは子供にとって本当に必要な言葉だろうか。(12/30)

両親が同じような熱意で同じようなメッセージを出し続けると子供は独自で考える余地を失う。子供は複数の大人が相容れない生き方をしていることを肌身で感じることで、その相容れなさの間で自分なりの生き方を見つけることができると知る。(12/31)


その1(2023年1月~4月)はこちら

その2(2023年5月~8月)はこちら


2024年も宜しくお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?