「障がいのある方々が○○した」に思う
はっきりいってクソである。そんなものは。
わたくし煙も障害2級の手帳保有者だし、それも当然加味したうえで、
障害者が作った、演奏した、演じた論じた描いた歌った踊った飛んだ跳ねたというモノに「障害者だから」という理由で価値があるとは思えない。
余談だが「障害者」という字の書き方で差別は無くならないのでわたしは「障害者」で通す。もちろんあからさまな悪意ある表記はのぞく。
仮定の話。
マラソンでもスプリントでも、水泳でも砲丸投げでも軍隊の身体測定でも男子と女子が(もしもだけど)ごっちゃになったらさ? より優れている方を採るじゃん。
今そうでない社会になってるのは別の視点があったというだけの話。
たとえば後方支援や解析や深刻な人的資材の不足とか400mと1500mでケンカになるとかエペとフルーレでケンカになるとか竹刀の規格を年齢性別問わずすべて一元化しろ、とかさ。
餅は餅屋で喜捨は喜捨、チャリティイベントの一環で障害者が障害の壁を乗り越えて作りましたぁ〜、というのは、いい得るのは、いってしまえるのは健常者側に視点があるから。
そこまで登り詰めんとアカンのんでしょ? 「健常者サマ」なら何でもできるんでしょ?
そんなステレオタイプな優劣の鋳型で「乗り越えた」だなんて、逆差別通り越して優生学ですよ、ええ。
でも、作りたいものを作りたいし歌いたいし登りたいし走りたいし泳ぎ描きこねて焼いて「できないことを減らしたい」障害者はごまんといる。
健常者のパフォーマンスで生きていきたいとするのは必定なのです。だってラクそうに見えるから。そういう構図ではないの? あ、違う、はあ、すんません。
障害のある方が「健常者のように」「障害を乗り越えて」〇〇したものを売るとかいうのは完全悪ではない。そこまでわたしもアホやない。
見本市として。
ええ、あくまでも見本市だからバザーや展示会は発表、啓発の場だよ。でも商いの場ではないと思うなあ。そのお金はチャリティなの? 投資なの? 対外的な社会貢献活動? 障害者に商機はあるの?
篤志家でそれを恥じない立派な人物が「障害者が作ったのか、3つもらうよ」っての、障害者のモチベは上がりもするが「斟酌されたのか」と下がりもする。たしかに「おれは障害者だ。下手にかき回したいならお引き取りを」と、デンと据えればいいのだけど、あーもうどうしよこれツイッタでNHKニュース流れてきたらから発作的に書いたんだけど長くなった。
なんだっけ。
主題を虚空の彼方へと見失った。
「障害者が」「作った」「モノ」に、「障害者だから」という付加価値がつくのが嫌なんだよ、おれは。ふつうに通り過ぎるかかふつうに寄付するかふつうに平等に扱うかにしてほしい。「この障害を乗り越えて」は内輪ネタだよね、と思うから自分でもややこしいことになるんだよ煙さんは。
エペとフルーレでケンカしても仕方ないし女子の1500と男子の100でどっちが速ければ価値と地位が上かとか、もう一切合切混ぜるな!!
健常者はできることをすればいいし、障害者もできることをすればいい、それができる社会ならね!
だから障害者と健常者とを混ぜるなと、価値基準の判断をを一元化するなと、結論するわけでございます。
はぁ〜っ ぽん(〆)
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