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#21 物語が嫌いなわけじゃない|とべちゃんの副音声

「なぜ君は物語をもっと楽しまないのか…」
ここでの”もっと”は量的な観点である。

目の前でそう言われるものだから、なんとなく積極的に物語を楽しもうとしない(物語を読まない)自分を擁護したくなった。だから、物語を読まない理由ばかりを述べていた。

しかし、読書が好きだという知人が本を読むようになった理由を「読んで楽しかった思い出があるとか、読み終えることの達成感があるとか、なんらかのポジティブな原体験があったから」と話すのを聞いて、私にもそんな瞬間があったことを思い出した。

私は物語を読むことが嫌いで読まないわけではないことに気がついた。

冒頭の問いを投げかけた相手が、本を2冊くれた。1冊は10年も前に私が貸した本。もう1冊は「それが好きなら、きっとこれも好き」と言われて渡された本。

本を返してもらった時、自ら本を貸したことを思い出した。だから、私は物語を読まない人ではなかったことも明らかになった。思い返せば、むしろ物語を読むのがとても好きで、図書館からいろいろな本を次々と借りていた時期もあった。好きな作家もいた。

では、なぜ物語を読まなくなったのか。

この問いの答えを考えたことなどほとんどなかったけど、なんとなく、思い当たるのは「気が重かった」ということ。

かつては、どんな物語も「自分にも起こるかもしれない」という希望があった。だけど、現実には起こり得ないことばかりだった。「こうだったらいいな」という希望は、「こうはならない」という絶望でもあった。だから架空の物語に向き合うことが辛くて気が重かった。

一方で、飛躍した奇跡は起きなくても、ときに物語より不思議なことが起きる現実がどんどん面白くなっていた。だから、わざわざ違う世界に思いを馳せるより、目の前で起きている現実を全力で楽しむ方が好きになった。

そんな気がする。

でも、せっかく受け取った本。読んでみることにした。余白が多めの短編集。読み始めるとするすると進んで、あっという間に終わった。確かに、よかった。

そうして、私にはまだ物語を楽しめる部分があることがわかった。そして思った。私は物語が嫌いになったのではなくて、物語に向き合うだけの余裕がなかったのだと。

ここ数年の読書といえば、通勤時間にヒントや答えを求めて流し読みするビジネス書ばかり。隙間時間に物語を読んで、現実に戻ってくるだけの切り替えができない。時間があるときは他の予定で大忙しだった。心を落ち着けてじっくり物語に没頭するゆとり、読み終えて現実に戻ってくるだけのゆとりがなかった。

長い長い年末年始休暇のおかげで、時間の心配もなく、落ち着いて物語の世界を堪能することができた。

かつて好きだった作品を引っ張り出してもう一度読み返した。久しぶりに物語を探すために書店に立ち寄った。好みの物語にもっと出会いたいと思った。物語が好きだった気持ちを思い出すことができて嬉しかった。

そして、1冊ずつ読み終えるたびに、私が物語を読むことをためらもう一つの理由を思い出した。
大好きな世界が終わってしまう悲しみが深く、耐えがたい…!