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君とラブドール

「報われない努力はある」というのは昨年末に出版した本で書いたことで、それは誰にとっても当たり前の事実だと思っていた。何に置いても無駄に悲観することなく、なるべく冷静に考える癖をなんとか保って思考している。だからもちろんあの言葉も悲観ゆえにひねり出した卑屈名言集の一節などではなかったし、なんというか本当にただの普通のことだった。

 本を読んでくれた人に「努力は、たとえ失敗しても経験として体内に蓄積されるのだから、報われないなんてことは絶対にないんだよ」と熱く話をされたとき、私は今励まされようとしているのだろうか、と感じた。その主張は一理あるのだけれど、私の言っている「努力」はたぶん、誰かのためにした努力というもののみを指して居て、逆に言うと、誰かのため以外だったら努力なんてできっこないのだった。

 そして、優しくしたいと思って接して来た相手に、最後にはすごく嫌われてしまうということがたまにある。そういうときは大抵、もう私の方にはあげられるものがなくなってしまっていたのだった。渡していたキャンディのかごはもう空なのに、どうしてくれないのかと怒られると、自分がしてきたことが全部間違いだったみたいに感じることがある。

 私が言いたかったのは、「届かない優しさはある」ということと、「そして、届かなかった優しさは優しさではなかったということなのだ」という悲しい現実のことかもしれなかった。

 人前に出る仕事を始めてから、どんなに癖のある人であってもなるべく愛する努力をしよう、どうせ生きていくことにはどうしたって苦痛が伴うのだから、私くらいは優しくしよう、そのために耐えるべき多少の不愉快や苦痛があったとしてもそれは自分の中でのみ理解して打ち消してしまえばなかったことになるし、なんというか、どんなに違ってもどんなに難しくても誰のことも排除しないでぎりぎり回っていける小さな世界を作りたいと思っていた。誰かの嫌だなと思うところを探すことに敏感になるのなら、そんな感度は折ってしまえばいいし、ありがとうを言える理由ばっかり探して居たいと思って居た。誰かに好きになってもらって、お金や時間を使ってもらうことで成り立っている職業だけれど、それでもなるべく誰かを引き留めたり、愛を強請ったり、不安にさせて思い通りに動いてもらおうとしたりするような、あらゆるずるさは、使ってはいけないカードとして触れずにやってきたつもりだった。AV女優が、なるべく誠実に、だれのこともわざとたぶらかしたりしないように、と心がけて生きているだなんて笑い話だと思う。だけれど、なんだってよかった。誰も傷つかないでいてくれたらいいと思って居たけれど、どうしたって傷ついてしまうひとが出る。嫌われてしまう瞬間がくる。嫌なことばかり言われることがある。優しさの限界を垣間見てしまう瞬間が一番怖い。それでもずっと同じで居られないのは、私が誰かの望み通りに動くだけでは生きていけないへんな生き物だからかもしれない。

 人というのは、中身を知れば知るほど、嫌いになる理由が増えていく。それぞれにはそのひとにしか感ずることのできないこの世界においての視野があって、少し重なり合うことくらいはあっても、完全に同じになることはない。それならば尊重し合うべきなのだけれど、どうしたって、そもそも他人に、自分には見えない視野があるということを想像もしていない人がいる。そういう人はしばしば、自分の価値基準で他人の限界を量ろうとする。

 誰かが撮った映画を、こんなにきれいなのは変だと嗤う人が居ても、その人にならなきゃその景色が本当かどうかなんてわからないんだって。何をしていてもそう思う。

 「ロマンスドール」という映画を見た。タナダユキ監督自ら執筆した小説を原作にしたものだ。ラブドール職人であることを隠したまま結婚した哲雄(高橋一生)と、また別の秘密を持つことになった妻・園子(蒼井優)の生活が描かれている。一貫して青白いトーンに、黄色い光が差し込んでくる。制限された清潔感のあるカメラワークで切り取られた日常と、人の肌というものの、胸が苦しくなるような美しさを映すラブシーンが、いつまでも見て居たくなるような不思議な静けさを纏っていて、とてもよかった。

 ラブドールという、人の欲望を満たすための商品をつくる主人公と、その妻園子。幸福な結婚をしたものの、ラブドール作りに没頭する哲夫と、徐々に孤独になっていく結婚生活の中で大きな秘密を抱える園子の、すれちがっていく様に決定的な正しさはどこにもない。不倫、性欲、そして嘘。どれも決して清潔でない要因で耐えずぐらついていく関係性を、それなのにこんなにきれいに映していくことに、不自然さを感じる人もいるだろう。色々な嫌なこと、悲しいことがあったのに、美しく官能的に愛し合うふたりは、すこしだけずるいのかもしれない。それでも、この世界がきれいに見えてしまう事実と、人間というものがどうしようもなくくそである現実は、実際のところあまり関係がない。人間というものがくそであろうと、きれいなひとにとってはこの世界はきれいで、だからこそ愛したいと願うのだと思う。少なくとも私はそうだった。大それた理想などなくていい。この世界は最悪だし私たちもくそだけどなんか私たちって可愛いよね、くらいの、許しでよかったのだ。なんだかそういう、ちょっとした間抜けさみたいなものに愛があればよかった。

 自分以外の誰かの視界には決して入ることはできない。仲良くやっていく、ということは、秘密を分かち合うとかなんでも言い合える仲になるとか、そんな作為的にでも可能なことなどではなく、ほんとうに愛し合っていたならいつか当たり前に見えてしまっているような部分にも愛着を持つことができるような、自然発生でのみ可能な何かのようだった。愛は自然発生で、それからの維持はあくまで人工的に行わなければならない。なるべく騒ぎ立てずに、静かに、粛々と、誰にもばれずに努力する。そういうものだけが、永遠にほんの少し近付く権利を得る。

 映画の中、ラブドール工場の先輩造型師の相川さんには、夢があった。それは肌が関節で分かたれてしまわず、すべてがひとつなぎになっているドールを作ること。それができたら、ドールには魂が宿るだろう、とも夢見心地で語っていた。 

 本当は、もはや人間は部分・部位などに分けることもできず、ひとつなぎの人形のように、隠すべき部位も晒して良い部位も一枚の皮膚でなだらかに繋がっているのだけれど、まるでその事実はそれ自体が隠し事のように、禁忌とされる。

 夫婦生活というのは、服を着たドールのように、他人の目からはその全貌が見えることはない。どんな形で終わりを告げたとしても、その限られた視野の中は、そこにいた人にしかアクセスする権利がない。永遠に。

 周りから見えていた君と、僕しか知ることのなかった君は、たしかに一枚の皮で繋がっていたのだけれど、愛していないと終ぞ見ることのない秘密の視野というものがあった。それを、覗き合えるかどうかというのが、俗にいう、愛が連れてくる奇跡のようなものなのだろう。

 別れと生活が密接につながっている。死と生がひとつなぎになっている。それは当たり前のことだった。いつだって仕方がない。特別気にかけている生き物が死んでしまうこと、仲良くやりたかった人との別れが来てしまうことは、精神の構造上あってはならないこととしてインプットされているのだけれど、それでも、限りあるこの身体に生まれたのだから仕方がない。日常のうちのひとつとして設定されてしまっているのだ。

 映画のラストシーンに、そんな爽やかな、愛のこもった諦めを見て、あまりにきれいで、泣いてしまった。私の魂が、私を好きでいたい誰かにとって邪魔なものならば、ラブドールになりたいな。と思うときがすごくたまに、ある。顔もからだもラブドールっぽくないからあんまり売れないんだろうけど。少し考えて、やっぱりそんなのはつまらないからやめる。たぶんこれからもどんどん、顔や身体や立ち振る舞いをみて好きかもしれないなと思ってやって来たかわいい色んな誰かに、思ったよりややこしいと失望されて、最後に一発殴られ別れてゆくのだろう。いつになったら私の魂が私の身体にはいっていることが許される日が来るのだろうか。


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