ダイアログインタビュー ~市井の人~ 内田雅人さん「私が動く理由」2

――内田さんって、1回も南相馬を出たことないんですか?
 
 内田 あるよ。18歳の秋に東京に行きました。住んだのは埼玉の三郷だけどね。三郷に会社の寮があって。
 
――そうだったんですか!

内田 当時特にやりたい事も無く、高校卒業を機に、相馬市に事業所があった会社に就職したんだよね。たまたま昔からの仲間もいたし。その会社は電子部品メーカーだったんだけど、当時電気のことを勉強していたわけではなかったから、会社の中で入社して半年で配属が決まるんだけど、そのタイミングで「東京で勉強してきなさい」みたいな感じになったの。

――それで埼玉の三郷ですかぁ。

内田 よく言う「おら東京さ行くだ」みたいな感じは一切無かったの。都会へのあこがれは無かった。地元で仲間とシャコタン車乗り回して遊んでれば良いと思ってた(笑)。
ユーロビート聞きながらね♪

――やっぱヤンチャじゃないですか(笑)。

内田 そしたらね、入社して間もなく、たまたま「東京で勉強してきなさい」みたいな感じになったの。全く東京にあこがれてなかったこの僕がね。当時は葛飾区の金町に東京本社があってね、会社の寮が埼玉の三郷にあったの(三郷と金町は距離的に近い)。

――俺は草加(三郷のすぐ近くの街)生まれなんですよ。だからあの辺りは何となく知ってます。とは言えあの辺りも変わりましたね。大型のショッピングモールもあるし。それで…三郷にはどのくらいいたんですか?

内田 うろ覚えなんだけど…1年くらいだったかな。そのあと大阪支社に行ったのよ。たまたま大阪に支社があったからなんだけど。地元に就職したとき、営業課に配属になったのよ。そんで「生産管理や営業管理を勉強してこい」と言われてそんな風に転勤して回ったんだよね。大阪には1年いなかったんだけど。大阪は住みよい街だったな。住んでもいいと思った。人もいいし、食べ物はうまいし。会社の仕事で必要なインフラが整ってなかったんで、仕事は不便だったけど(笑)。海外では香港や中国にも拠点のある会社だったんだけど、会社独自の通信回線を持っていたりしてたんだよ。パソコンの導入も早くから進めててね。当時まだウィンドウズが出てくる前だったけど(笑)。

――バブルの末期のころですね(笑)。ところで「大阪は住み良かった」と言ってましたが、こっちと比べて何が違ってたんですか?

内田 南相馬と比べて?まずは単純に「都会だ」って事だよね。

――便利って事?

内田 そう、便利だったね。住んでる寮の目の前にコンビニが普通にあったし。その頃の南相馬には、数えるほどしかコンビニもなかった。原町に酒屋上がりのデイリーストアがあって、あとは相馬女子高校(現在の相馬東高校)の入り口のところにセブンイレブンがあったな。高校生の夏に夜遊びなんかした時の買い物は、相馬女子高校のところのセブンイレブンだった(笑)。

――相馬まで買いに行ってたわけですか。

内田 だって開いてる店がそこしか無いんだもん(笑)。
何が良かったか… とにかく、楽しかったなぁ大阪は。

――ちらっと「人も良かった」と言ってましたが?

内田 何か温かさがあったね。当時そんなに大勢の人と触れ合ったわけじゃないけど、関西の人というより、当時そばにいて触れ合った人たちに対しては、温かさを感じたな。

――そこからしばらくして南相馬に戻ったんですか?

内田 それが、まだまだ動くんですよ(笑)。香港に新しい部署を作ることになって、香港駐在の準備のために東京に移って、その後香港に駐在もした。数か月そこに滞在して、その間に新しい工場も立ち上げることになって、香港と中国を行き来したりもしたね。その後数か月の東京勤務をしたのち、相馬勤務に戻ったんだ。4年くらい旅してたんだね。

――1か所に1年滞在せず…それだけ短い間にそんなに移動するのもまれな体験ですね。

内田 楽しかったね!若かったから出来たんだろうし。今思えば、いい経験させてもらった!仕事じゃなければ行かないような場所にも行かせてもらったし。

――大阪だって、こっちと比べたら文化もまるで違うし、ぶっちゃけ海外みたいなもんだし(笑)。

内田 大阪はうどんがうまかったね(笑)。出汁がいい!汁の色が全然違うし。

――食い物の好みも、人の習慣も全然違うから、関東人から見ても大阪の文化は戸惑うし。

内田 そうかなぁ?俺は意外とどこでも順応するからなぁ…。その頃の印象で話すと、東京は「仕事をするにはいい街」って気がしたな。実際に住んでみて。大阪と香港には永住してもいいと思った。香港もいいとこだったね。当時は日本より進んでると思ったな。キャッシュディスペンサーは24時間動いてたしね。大きな街じゃなかったけど、地下鉄なんかの交通網も含めて、パッケージとしてよかったかな。

――大きさとしては小さいところなだけに、東京より機能的なのかもですね。

内田 かも知れないね。コンパクトに集約されてる感じがしたね。大阪も東京より小さい町だった分、魅力がコンパクトに凝縮されてるのかも。
東京にも住んだ事はあるんだよ。葛飾の金町にね。

――ここまでの話で思ったんですが、街としての機能だけじゃなく、当時の大阪や香港は人の魅力も凝縮されてたのかもしれませんね。

内田 当時の香港は中国への返還直前で、活気にあふれていた。楽しかったね。豪遊もしたし(笑)。

――そのあと、相馬の事業所に戻ったんですか?

内田 そう、戻ってきた。その頃事業所の移転や私生活でいろいろあって、間もなく会社を辞めました。海外赴任当時は豪遊してたんだけど(笑)、お金は手元に残ってた。そのお金で箱スカ(昭和46年発売の3代目スカイライン)を手に入れて乗ってた(笑)。公認車検を取ってね。
――あんまりこの地域でチューニングカーのイメージってないような気がしますが。

内田 須賀川のほうに1件有名なチューニングショップがあってね。

――須賀川にあったのかぁ…そういう視点から見ても、ここの地域は関東やほかの地域とは違ってるわけじゃないですか。あちこちいろいろな地域を回ってきた内田さんから見て、ここの地域って何が違いますと思います?

内田 何って…良いも悪いもこの地域って田舎じゃない。多分だけど「ここが悪い」んじゃなくて「よそが良い」んだよ。そういう見方かな。田舎が悪いわけじゃなく、「まぁこんなもんだ」って感じでね。よそが良くてここが悪いんじゃなくて、東京には「仕事はやりやすい」みたいな東京の優れたところがあって、大阪は「人が温かい」んだろうし…田舎が劣ってるというより、それぞれの場所にいいところがあったんじゃないかな。

――なるほどね。それぞれの地域にも「得意」な部分があるってことなのかなぁ。

内田 そういう事になるのかもね。決して「この地域が悪い」わけじゃないと思う。

――そうですね。それらが得意な地域と比べちゃうと、一見足りないように見えちゃうけども…という事なのかも。とはいっても、私もこの地域が好きだから居ついてるわけだし。

内田 だから…「田舎は田舎で、田舎のまんまでも良いんじゃねえか」と思う(笑)。

~続~

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