『ブッダという男』感想文とか その6最終回
長かった?『ブッダという男』に関する私の拙い感想文も今回がラスト。
今回は本書の「あとがき」に関することについて、私の感想をこれまで通り好き勝手に書いてまいります。
これまでの経緯
本件に関心のある方なら既にご存知でしょうが、コトの経緯は以下の通り。
参考文献は本書、大蔵出版のサイト、馬場氏のWiki、佐々木閑教授『ブッダゴーサの歴史的位置づけをめぐる馬場紀寿氏と清水俊史氏の論争』。
2016年、清水氏の著書『上座部仏教における聖典論の研究』が大蔵出版より刊行されることが決定される。
その著書の中に、馬場氏のブッダゴーサ論(偉大な思想家である)を覆す内容(ブッダゴーサはあくまで註釈家)などが含まれていたため、2017年頃より出版妨害や脅迫等の清水氏への嫌がらせが始まる。
2021年、『上座部仏教における聖典論の研究』が大蔵出版より刊行され、出版社が異例の声明文を出す。
2023年12月『ブッダという男』刊行。あとがきにて実名で馬場氏のハラスメントを暴露。
2024年2月、両者の争いはresearchmapにおいていまだに続いている。
私の感想
以上が簡単な経緯で、これが嘘か真か当事者でない私には判断がつきかねるけど、出版社が耳を(目を?)疑うような声明文を出す程だから余程のことがあったとしか思えません。
それを踏まえた上で、これが事実なら本件は7年以上も続いているのか、よく清水氏は耐えているな、私がこんな嫌がらせ受けたら気が狂うかブロンソンの映画みたいに「自力救済」の行使に出るで、というのが第一印象。
次に、馬場氏は同じく論文等で反論すれば良いものを、何で「教職に就きたければ出版をやめろ」とかいって清水氏を脅したの?しかも本書あとがきにあるように虎の威を借りて。
こんなん下手なドラマの展開じゃん。
これが東大の教職に就いている人間のすることか、東大のアカハラなんて工学部とかの理系学部のみだと思っていた、というかこんなん小学生レベルやろ信じられないというのが正直なところ。
あとは佐々木閑教授の評論中にある
という記述ですが、なーにやってだ(無礼)という感想と、1人のキャパでは限界があるから仕方ないかも、という感想と半々です。
そういえば、別に人文学の教授だけでなく、高等裁判所の裁判官でも資料をよく吟味せずに判断してしまうというのは、以下のドキュメンタリーにある通り。
「真剣に取り組んだらそうなったということです」というオチの通り、人間の社会なんてもはや現場猫案件ばかりなのかもしれません。
まあ、こんなことをウダウダ書いているのも、私の中に今なお「大学教授や裁判官といった所謂インテリは間違いを犯さない、少なくとも一般人よりは間違いを犯さない」なんていう先入観があるからで、
「これはな(エゴに囚われた人間なら)誰でもそうなるんや」こそが真実なのでしょう。
話はもとに戻るけど、何で馬場氏は自説に対する反論がきたからといってあのような手段に出たのでしょうか?
本当は清水氏の説の方が正しいと自分でも分かっていて、こんな青二才に論破されて悔しい、このままでは自分の権威が失墜してしまい、おまんまの食い上げになってしまう、といった死活問題だと判断されたからでしょうか?などと勘繰ってしまいます。
でもそういう時こそ、仏教を学んでいる身ならば、そうやってジタバタ藻掻く自身を素直に認め、そして訂正するという姿勢が大事なのではないでしょうか。
それが仏教に則った行動なのかは知らんけど、結局は全て手放してあの世へ行かなきゃならんのだし。
なんて偉そうなことを抜かしておりますが、私がもし馬場氏の立場だったら同じことをするかも。いやでも7年以上もしつこく粘着なんてしたくないわ。
最後に、アカハラというゴシップに興味を持ち手にとった本書ですが、新書という形式にしては参考文献の量が豊富で大変読みごたえのある書籍でした。
著者の清水氏におかれましては、SNSで拝見する限りではお元気そうなので、その才能を活かして仏教学界隈に一石もニ石も投じてください、と僭越ながら申し上げつつ、今回の感想文はここまで。
応援、ありがとー