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沢田研二を愛した男たち

久世光彦 悪魔のようなあいつ

沢田研二を愛した男たち、萩原健一、内田裕也、阿久悠、池田道彦、渡辺晋、長谷川和彦、、あげていくとキリがない。先ずは、久世光彦~元TBSの天才演出家プロデューサー・作家。

1975年6月からTBS金ドラ枠で放送された「悪魔のようなあいつ」は、テレビドラマの金字塔の一つだと思う。当時、BL(ボーイズラブ)なんて言葉はなかったけれど、その要素は色濃く、怪し気な魅力を放っている。

悪魔のようなあいつ 可門良(沢田研二)

当時、渡辺プロダクションに所属し、稀代のスターだった沢田研二の映像への露出には極めて慎重だったが、渡辺晋社長を口説くため、久世光彦は「日蝕は起こるだろうか」というタイトルで長い企画書を書いた。作品のモチーフは、1975年末に時効を迎える昭和最大の未解決事件「三億円事件」だ。

演出とプロデュースは久世光彦。原作は作詞家の阿久悠と漫画家の上村一夫。脚本は後に「太陽を盗んだ男」を監督する長谷川和彦。一流のクリエーターたちが集結し、ドラマに先行して漫画が連載され、メディアミックスの先駆けでもあった。

沢田研二が演じる、三億円事件の犯人、可門良はバーで歌い、男娼でもあって、不治の病に冒されている。トップスターが上半身裸でベッドシーンを演じ、エンディングでは、良がギターを弾きながら歌う「時の過ぎゆくままに」(阿久悠作詞/大野克夫作曲)が流れ、沢田研二最大のヒット曲となった。

若山富三郎、篠ひろ子、大楠道代、新木一郎、悠木千帆(樹木希林)、尾崎紀世彦、藤竜也、と錚々たる出演者も揃っていた。画面にはエロスと暴力と退廃が充満し、女たちだけではなく周囲の男たちも狂わせながら破滅へと向かっていく良は壮絶なまでに美しい。良とバーのオーナー野々村(藤竜也)の危険な関係は、視聴者の胸をざわつかせた。

時の過ぎゆくままに☟

久世が沢田を語る言葉は熱い
〈どんな女優を持ってきても沢田の方が色っぽい〉
〈演出してると、実際ドキドキして最高の至福の状態になれる〉
〈俺は沢田研二とならいつでも一緒に死んでもいい〉
〈底がまるでわからないくらい深い〉
華やかさだけではなく、艶やかさもあり、危険をはらんだ毒性もあった。少女たちは花に見とれ、年長のプロの男たちは毒を感じて評価していた。

このドラマでは、尾崎紀世彦の怪演も忘れられない。素晴らしい表現力は「悪魔のような紀世彦」と呼べるほど。若山富三郎もど迫力。いま、このレベルの演技、撮影をしたらコンプライアンスがどーだ、こーだと煩いはず。見事な場面です。沢田研二が「おふくろさん」をボロボロになりながら歌う姿も必見だ。

セブンスターショー  #1沢田研二

そんな久世光彦が「悪魔のようなあいつ」の翌年、1976年にプロデュースした「セブンスターショー」の沢田研二は絶品だった。MC無しで、一人の歌手が90分間、歌い続ける企画だ。初回の沢田研二は、肌を褐色に染め、銀ラメのベスト姿で「ジーザス・クライスト・スーパースター」を流暢な英語で歌い、登場。「僕のマリー」「モナリザの微笑」「銀河のロマンス」などタイガース時代の曲、「月光値千金」「フランチェスカの鐘」「ざんげの値打ちもない」といったレア曲、ラストを締めくくる河島英五の「いくつかの場面」では涙を流しながら歌いきっていた。構成/阿久悠、音楽監督/大野克夫、演奏/井上堯之バンド、演出/浅生憲章、ドラマ制作部が中心に演出し、久世光彦の美学が濃厚に漂っていた。ただ、視聴率は3.7%と惨敗した。

「いくつかの場面」沢田研二 1976

内田裕也

久世光彦は内田裕也についてエッセイ「十階のモスキート」にこう書いている〈沢田研二は内田裕也が五十年来、誰よりも愛する男なのである〉。内田裕也は、ザ・タイガースの前身、京都出身のファニーズを見出し、東京に呼び寄せた生みの親的存在だ。

余談ですが、僕が初めて内田裕也を見たのはジョンレノンのアルバムのライナーノーツに内田裕也が寄稿した文章とジョンとヨーコと一緒に写った写真だった。横尾忠則との写真と比べたら異次元感が強烈だった。

左 with 内田裕也、右 with 横尾忠則

内田裕也は沢田研二より9歳年上で1939年、兵庫県西宮市で生まれた。戦後のポップスを聞いて育ち、高校中退後、様々なバンドを渡り歩き、沢田研二と出会ったのは、ザ・ビートルズが初来日した1966年だった。6月30日、武道館で、ザ・ドリフターズ、ブルーコメッツ、尾藤イサオたちと共にビートルズの前座を務めたのを、夜行列車で上京した沢田研二は客席から眺めていた。その数か月後、ファニーズがレギュラー出演していた大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」に、内田がボーカルで率いるブルージーンズがゲスト出演した時だ。ファニーズは、ビートルズやローリング・ストーンズ、キンクスのカバーを演っていたのが気に入り、自分のバックバンドにしようと「一緒にやんねぇか?」と声をかけたのが始まりだった。背の高い岸部一徳はリトル・リチャードの「のっぽのサリー」からサリー、沢田研二は好きだったジュリー・アンドリュースからジュリーとニックネームを付けた。

沢田研二 内田裕也 ザ・ファニーズ

久世光彦がかつてみた映画「昭和残侠伝・唐獅子牡丹」の高倉健、池部良が雪降る中、相合い傘で殴り込みに行く場面はこの上なく色っぽい名場面、名コンビだと夢中になっていた。後年、沢田研二のソロデビュー曲「君をのせて」を聞いた瞬間「君」は男だと直感したという。その後、「ぼくらの時代」で江戸川乱歩賞を受賞したばかりの栗本薫こと中島梓に脚本を依頼し「哀しきチェイサー」を仕上げ、人気ドラマ「7人の刑事」の28話として放送した。挿入歌は「君をのせて」「LOVE 抱きしめたい」「刑事~哀しきチェイサー」「As Time Goes By」などで彩られた異色作だった。その断片が切り取られ「刑事~哀しきチェイサー」のMV風にYou Tubeにあがっている。濃厚な2人の関係性は、映像だけで充分伝わってくる。

その後、ジュリーが大スターになっても、二人の交流が途切れることはなかった。内田裕也が悠木千帆(樹木希林)と結婚する際は、新婦側の立ち合いは久世光彦、新郎側は沢田研二、総括立会人がかまやつひろし、という顔ぶれだった。

1983年の「戦場のメリークリスマス」では、大島渚監督に頼まれ、内田裕也は沢田研二を引き合わせたが、坂本龍一が演じたヨノイ大尉の役を沢田は断った。理由は「スケジュールを変えてもらえないか?」という沢田の頼みを大島が蹴ったからだった。
〈沢田は偉いやつだよ「戦メリ」、断ったんだよ。当時の、デヴィッド・ボウイと沢田研二って、あれ以外ないキャスティングだよ、わかんだろ?二人ともキラキラ星だよ。あの当時、沢田は今のキムタクの十倍くらい人気あるんだからね〉内田は語った。沢田研二が断ったからこそ坂本龍一の不朽の名曲「戦場のメリークリスマス」が生まれた、ともいえる。そしてあの曲が存在しなければ「戦メリ」はこれほどの名作になってなかったかもしれない。

沢田研二とデヴィッド・ボウイ対面。黒柳徹子さん、さすがに◯◯です…💦☟

沢田研二とDavid Bowie

友情に篤い沢田にとって、自分を見つけてくれて、常に愛情をかけてくれた内田はかけがえのない友だった。2009年、渋谷で開かれた二人のライブ「きめてやる今夜」のアンコールで、沢田は内田に向かって叫んだ
「あなたがいなかったら、今の僕はいません。奇跡です!」

きめてやる今夜

タイガース解散後、ソロになったばかりのアルバム「JULIE Ⅳ」の13曲全て自作だ。その中に内田裕也に捧げた1曲がある「湯屋さん」
♬ロックンロールなゆうやちゃん
 短気は損気ゆうやちゃん
 僕は好きだよ
 怒っちゃダメだ
 ゆうやちゃん♬

その後、二人には断絶の時間があったと言われている。しかし、2018年10月沢田がさいたまスーパーアリーナ公演をドタキャンし、叩かれた時、内田裕也はTwitterで「ファンの皆さん、応援よろしく!沢田、ガンバレ!」と呟いた。これが、内田裕也最後のツイートとなった。

2019年3月17日 内田裕也、永眠
青山葬儀所のお別れの会に沢田研二の姿はなかった。誰に参列を求められても「僕は僕のやり方がありますから」と拒んだ沢田。
その年の11月、東京国際フォーラム。言葉では何も語らずに「君をのせて」と「刑事〜哀しきチェイサー」を歌った。

MV風に編集してあるが、これは沢田研二を愛した久世光彦が、沢田研二を最も愛した男内田裕也と沢田研二をゲスト主役としてドラマ化した「七人の刑事」(前出)の場面で構成されている。全編をみることは叶わないがこの映像からも充分伝わってくるものがある。
「刑事〜哀しきチェイサー」☟

2019年3月26日 萩原健一 永眠
沢田研二は、続けざまに大切な2人の心友を亡くしたのだった。

沢田研二 萩原健一

2019年5月9日、沢田研二のライブツアーがスタート。東京国際フォーラムのステージで2曲目を歌い終えた沢田は、突然語り出した。
「さすがにショーケンが死んだ時はこたえた。昔のこととはいえ、ショーケンといえばジュリーって言われちゃうんだよ。ショーケンはそんな奴じゃないぞ。もっと凄い奴だぞ。俺なんて生き方が上手じゃない。ショーケンはもっと上手じゃなかった。俺は足元にも及ばない」
共に歌い、笑い、愛し、競った魂の片割れのようであった盟友の喪失に、ジュリーは涙を飛ばして叫んだ。

俺はあいつが大好きなんだ!




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