第六章 - こぐま座アルファ星

 一月の騒動の直後、三日ほど学校に出て来なかった潮がやっと部活に顔を出したとき、まっさきに頭を下げたのは千尋だった。「ごめん、一方的に言いすぎた」と膝を折って潮の前で手をついた千尋に、潮は立ち呆けたまま目を丸くして、なんと返事をしようか迷ったように何度か言葉を飲み込んだ挙句、「千尋先輩のガチ土下座初めて見たんですけど」と言って笑った。
「一昨日集まったとき、森田と京に、さすがにあの言い方はないってぼこぼこにされてたぜ」
「え、なんすかその状況。激レアじゃねえすか、ちょっと見たかった」
 雅哉がからかい半分に潮にそう告げると、潮はいつもと同じようにそれを笑い飛ばし、数日ぶりに自分のロッカーを開いた。そこで一瞬押し黙った彼は、さきほどまでよりもこころなしか低い声で、「千尋先輩が謝ることじゃないです」と呟いた。
「先輩に言われたことは全部正しいし、俺が悪かったと思ってます。でも、なんか、まだ全然整理ついてねえこととかもあって、……すんません、ちょっと考える時間ください」
 ワイシャツのボタンを外す自分の手元を見ながら、潮は目を伏せてそう口にした。
「俺は、たしかに自分で向き合わなきゃなんねえことから逃げて、優都先輩に甘えてここにいるんですけど、でも、弓道好きなのもちゃんと真面目に最後までやりたいのも、嘘じゃないと思ってます」
 それはどこか自信なさげな口ぶりだったけれど、その言葉を黙って聞いていた優都は「うん」と目を閉じて浅く頷いた。
「知ってるよ」
 優都が潮にかけた言葉はそれだけだった。この三日間、潮がどれだけ必死に考え詰めたのかということも、それに答えを出すことが最初からできなくとも、この場所に戻ってこようとだけは思ったのだということも、優都はすべてわかっていたかのようだった。それでいて、潮がきちんと自分の行くべき場所に向き合っていくことから今度は逃げないはずだということも、優都はなにひとつ変わらず信頼していた。それが、四年のあいだ彼のかみさまだった男からの餞(はなむけ)だった。

**

 春の兆しが顔を覗かせ始めたころ、弓道部にはひどく穏やかな時間が流れるようになっていた。閉じ切っていた空間の中で淀んでいた空気はわずかずつではあるが確実に入れ替わっていて、だれもがどこか落ち着いた表情で弓を引くようになった。優都は相変わらず人一倍の練習量を自分に課してはいたが、冬までの身を削るような焦りはすこしずつ吹き流され、徐々にではあるが調子も戻ってきているようだった。
「いままで全然気付かなかったんですけど、もっと会長く持ってもいいんじゃないんですかね、森田さん」
 三月の終わりごろ、四月初旬にある団体戦の関東予選に向けた試合形式の練習をしていたときに、思い出したように拓斗が優都に向かってそう切り出した。同じチームで引いていた優都と雅哉はその言葉に顔を見合わせ、何度か瞬きをした。
「え、僕、会短いかな。むしろ長い方だと思ってるんだけど」
「いや、いちばん引けてないときでも別に短くはなかったですけど。普通で考えて、ってだけで、たぶん?(やごろ)が来るのはもっと極端に遅いんじゃないんですか」
 自覚ありますか、と拓斗に問われて、優都は考え込むように宙を眺め、「どうだろう……」と言葉を濁した。
「十分持って離してるつもりだったけど、たしかに、そう思って離してただけなのかも」
「冬とかのときは、引き分けの型も崩れてたからあんま長くも持てなかったんでしょうけど。いまは他は悪くないと思うし、早気とかじゃなくて意識してできるんだったら、会以外でも、もっと時間使って引いてみたらどうですか」
 拓斗のアドバイスに、優都はすぐに「わかった」と頷いて的前に向かった。息を吐いた優都は、いつもの倍の時間をかけて弓を引き分け、見ているほうの呼吸が詰まるほどのあいだ、引き絞った弓を保ったまま的を見据え続けていた。それでも、決して冗長には感じなかった。優都が弦から手を離したとき、その射に視線をやっていただれもが、この時間は必要だったということをわかっていた。緩く風の吹く初春の空気をまっすぐに裂いていった矢は、そのまま、吸い込まれるように的の中心を射貫いた。優都は、弓を降ろしてもしばらく、矢が突き抜けたその軌道を眺めていた。
「よく気付いたな、おまえ」と雅哉が拓斗に声をかける。
「あのひと、わりと調子いいときやけに会が長いなと思って。俺と古賀さんがそもそも引くの早いから、微妙に前のめりになっててもわかんなかったんだと思うんですよ」
「焦ってたんだろうな……俺らに釣られてたってのもあんのかな」
「大落(おち)ですしね。俺ら時間かけないですし、森田さんが大前でもいいんじゃないですかね」
 優都はそのまま、四射中三射をほとんど同じ場所に中てて帰って来た。「どうでした?」と問う拓斗に、優都は一瞬言葉を詰まらせ、それから「ありがとう」と絞り出した。
「すごく、久しぶりの感覚だった」
「なによりっすわ」
 拓斗のぶっきらぼうな返事に、優都は笑みを浮かべてもう一度彼に礼を言い、「いい射だったな」と声をかけた雅哉に、久方ぶりの弾んだ声色で返事をしていた。

 その後も優都の調子にはある程度の浮き沈みはあったものの、どん底のような長いスランプを抜けることには成功したようで、四月に入ってすぐの関東大会都予選では、翠ヶ崎高校のBチームは都三位の成績を獲得し、翌月の関東大会への出場権を手に入れた。団体としては初めての上位大会の出場権獲得に喜ぶ雅哉の両脇で、優都は名状しがたい表情を浮かべていて、拓斗はさほどいつもと態度も変えずに不愛想な表情を保っていた。
「おまえらもうちょっと喜べよ。俺がバカみたいだろ」
「いや、なんだか実感がなくて――ここ一年負け続きだったからかな」
「二年前まで部員ゼロだった高校が、団体で都三位だぜ。胸張れよ、おまえの部だろ」
 雅哉にそう肩を叩かれた優都は、すこし頬を緩めて、「そうだね」と答えた。
「勝てるつもりだったんすけど」
 その隣で、拓斗が優都の手から入賞の賞状を奪ってひとつ息をついた。決勝トーナメントの準決勝、予選四位通過で一回戦を勝ち上がった翠ヶ崎の相手は予選首位通過の櫻林高校で、翠ヶ崎は一射の差で競り負けた。「僕もそれは悔しい」と優都がそれに便乗する。
「あとは、関東と都総体だけだな」と、雅哉が優都に声をかける。
 中等部からの内部生や、高等部からの新入生がまた新しく何人か入って来た部に、優都たちが居られるのはあと数か月だ。「もうあと二か月か」と答えた優都は、中等部の一年のときからずっと、翠ヶ崎の弓道部を背負っていない生活を知らない。
「やっぱり、インターハイに行きたいな。……僕も全国に行きたい」
 高校二年のあいだ、めっきり口にしなくなっていたその言葉を、優都は久しぶりに唇に乗せた。高校総体の出場枠は、個人で二枠、団体で二枠だ。都総体の団体戦は、三人ではなく五人で立を組む形式で、選手の少ない翠ヶ崎にとってはどうしても不利だ。個人戦二枠の候補は、いまのところ一人は圧倒的な実力差で櫻林の松原で、もう一人としては松原とともに全国選抜に出場した拓斗がかなり有力視されている。そのことは十分わかっていたうえで、優都はその決意を言葉にした。
「優都先輩も風間も皆中ならワンツーフィニッシュいけんじゃねえすか」
「それができたら団体でもいい線行く気がするけどな」
「たしかに。五人立久しぶりっすね、俺も頑張ります」
 雅哉の後ろから顔を出した潮は、いまのところ部内ではBチームの三人に続く不動の四番手で、都総体での団体戦のメンバー入りがほぼ確定している。「期待してるよ」と言った優都に、潮は大げさに胸を張って「任せてください」と大口を叩いてみせた。

**

 関東予選から都総体までの二か月、ようやく長いスランプを抜けた優都は、その時期中らなかった分を取り返そうとしているかのように練習を積み、その傍らで後輩たちとともに新しく入って来た一年生の指導や部の引継ぎの準備にも奔走していた。中等部時代から後輩に人気のあった潮や京の周りには、四月以降一年生が集まるようになっていたし、由岐は自分と同じ初心者として部に入って来た何人かの後輩によく慕われるようになっており、拓斗は人好きこそしない性格であるものの、その力強い行射とそれに裏付けされた実力に、後輩たちの憧れのまなざしを一身に受けていた。人数が増えて賑やかになった翠ヶ崎の弓道部を、優都はよく慈しむように眺めていた。
「なんだか、潮たちも一年生たちにとってはちゃんと先輩なんだなあと思うと感慨深いものがある」
「子がひとり立ちした親の感情かよ」
「心配しているわけじゃないんだけどね」
 大丈夫なのはわかってる、と千尋の横で肩を竦めた優都は、中等部時代からの後輩の射型を見てやっている潮に視線をやって、表情を緩めた。
「千尋、ありがとう」
「――なんだよいきなり」
 ふいに、そう口にした優都に千尋が眉を顰めると、優都は射場のほうをぼんやりと眺めたまま、わずかの時間、言葉を探した。ひとよりもゆっくりと時間を使わないと自分自身の世界と向き合えない彼が、本来であればそのために弓を引くことを必要としていたはずのこの男が、その余裕を一切失ってしまっていた時期のことを思い出す。優都がそういう人間であることを、だれよりも表に出そうとしなかったのは優都自身だ。
「おまえが、弓を引き続けてくれていてよかった」
 千尋のほうを振り返り、まっすぐ視線を向けて伝えられたそれは、優都には珍しく自分の感情以外のあらゆるものを排斥して形づくられた言葉だった。「嫌いだったらとっくに辞めてるよ」とわずかに眼を逸らして返した千尋に、優都は目を細めて微笑み、「そうだろうね」とだけ答えてまた射場に視線を戻し、「優都先輩、一瞬だけヘルプいいすか!」と自分を呼ぶ潮の声に応えてそちらに歩いて行った。

***

 弓道の都大会は、ルール上十月の秋季大会までは三年生が出場できるが、ほとんどの学校は六月の高校総体(インターハイ)都予選を引退試合に位置付けている。「引退するつもりはないんだけど」とインターハイへの出場権獲得を目指すことを優都ははっきりと宣言しつつも、どういう結果になったとしても、都総体で代替わりはするつもりだということも伝えていた。
 都総体は、団体戦の予選と準決勝の的中数が、そのまま個人戦の予選と決勝の的中数に適用されるルールだ。団体にせよ個人にせよ、五人立の団体戦での的中数ですべてが決まる。例年、個人戦で準優勝までを狙うためには、二戦八射のうち、少なくとも七中、年によっては皆中が求められる。
「勝とうな」と、団体予選の前に優都は団体メンバーの前ではっきりと口にした。
「あんまり大きなこと言うの得意じゃないんだけど、僕は、僕らはどこにだって勝てると信じてるし、それだけの実力があると思ってる。勝って帰ろう」
 珍しく、わかりやすく熱の入ったその言葉にだれもが頷いた。現実味がある言葉かどうかということは、いまこの空間に限ってはなにひとつ意味を持たなかった。

 団体戦では、予選、準決勝では優都も拓斗も揃って八射七中の好成績ではあったものの、翠ヶ崎全体としては一射差で五位となり決勝進出は叶わなかった。雅哉と潮も絶好調とはいかなかったが、それと比べても、最後のひとりのメンバーとなった京は予選、準決勝ともに結果が振るわなかった。京が試合後に「ごめんなさい」と黙り込んでしまったのを、優都は笑って「おまえが謝ることないだろ」と励ました。
「自分があと一射中ててればよかった、って思ってるのは全員同じだよ」
 そう言った優都は、引き続き始まった団体戦決勝に入場してくる櫻林高校の後姿に視線をやった。予選、決勝を通して八射皆中を成し遂げたのは、優都たちの代のなかで不動の首位の位置を築き続けてきた松原ひとりだ。その時点で彼の個人戦でのインターハイ出場は確定していて、七中に連なった優都と拓斗を含む五人のうち、あと一人が最後の競射で選ばれる。
 個人戦の同中競射に召集された優都と拓斗のあいだには、団体の準決勝が終わってからあとほとんど会話もなく、お互い相手に声をかけることも視線を送ることもなかった。激励を送り合うような間柄ではないし、どちらが勝ったっていいと思えていたわけでもない。同中競射は、インターハイ出場権をもつ準優勝者が決まるまでは、ひとりずつ順に弓を引き、外した人間から除かれていく射詰の形式で行われる。最後まで射場に残っているのは自分だ、という決意は、あえて伝えるまでもなく自分も相手も持っていることを二人ともとうに知っていた。
「優都って、風間に射詰で勝ったことあったっけ」
 射位に並ぶ優都と拓斗の姿を見ながら千尋が雅哉に問うと、雅哉はすぐに「試合ではないと思う」と答えた。
「そもそも射詰まで行けない時期長かったし。でも、そうじゃなくても、風間はめちゃくちゃ射詰強いよ」
 翠ヶ崎の全員が、隣り合って並ぶ二人の射を固唾を呑んで見守っていた。優都は時間をかけて一射目を引き絞り、会場中のひと呼吸よりもずっと長い時間会を持ってから、その時間との継ぎ目なく矢を放った。的のほとんど中央を射貫いたその射に歓声を送ると、続いて打ち起こしに入っていた拓斗が、淀みない行射でそれに追随した。
 一射目でひとり、三射目でもうひとりが脱落した射詰の四射目、優都の前に引いていた選手の矢が的を大きく逸れて安土に落ちた。決着が近付いて徐々に緊迫感が増す会場の視線を引き集めて、優都は的を見据えていた。他校の選手たちと比べてもやはり長い会を待っているあいだ、応援や歓声が途切れた隙間の張りつめた静寂の中。聞こえるような距離でもないのに、矢が空気を裂く音が耳を揺らすような気がした。優都が右手から放った矢は、的の中心へ向かう軌道をわずかに逸れて、的枠に当たる固い音を立てて落ちていった。
 優都が控えの椅子に戻るまでのあいだに引き分けを完成させていた拓斗は、いつもの彼にしてはすこし長く思える時間呼吸を置いた。椅子に腰かけるまでのあいだ、優都は拓斗の射を振り返らず、いつものように背筋を伸ばして毅然と歩いていた。矢が、的を裂く音がする。音と呼ぶべきものなのかどうかは判然としなくとも、その力強い一射がすべての緊張と硬直を破り去った感覚だけは会場中に伝播していた。優都は瞼を閉じて、その的中と拓斗の準優勝に送られる、短い歓声を聞いていた。
 続く、優都と同時に四射目を外した選手とのあいだで三位を決める競射は、同じ的に二人が順に矢を射込み、中央からの距離で勝敗を決める遠近競射の形で行われ、行射の前に大きく息を吐いたのが見えた優都は、的の端に的中させたもう一人の選手のあとに、文句なしのど真ん中を射ち抜いて三位入賞を確定させた。彼は最後まで、姿勢や態度に感情を乗せることもなく身を振って射場を後にした。

 表彰式のあと、拓斗より一足遅れて控室に戻ってきた優都に、だれひとり「お疲れさま」の声をかけることができなかった。優都はなにひとつ言葉は発さずに自分の荷物のところまで足早に歩き、弓を壁に立てかけて、渡されたばかりの三位入賞の賞状を裏返しにして鞄の上に乗せた。彼はしばらく壁に向き合ってそのまま立ち尽くしたあと、耐えるように背を丸め、しかしそれも長くは保たずに床に崩れ落ちた。嗚咽を堪える、ひきつるような呼吸の音が静かな部屋に響く。
 優都が泣いたところを見たことがあるものなどいなかった。うずくまるあまり大きくはない背中が、不規則に震えて余計に小さく見える。その背中に隠れきれなかった涙は拭おうとした手のひらから、手首を肘まで伝って袴に落ちる。その水滴が紺色に吸い込まれていく一瞬を、ただ、見ている以外なにもなかった。いつ終わるともしれない時間を、なにも言えずにずっと。背中の後ろには他校の姿もあって、決して静寂ではないはずの広い控室の片隅だけが、嗚咽の音にきつく首を絞められるほど静謐に張り詰めていた。
 最初に耐えきれず泣き出したのは潮だった。彼も優都になにかを言うことはなかった。追いかけていた理由や意味がどうであれ、そこにあったのが必然性ではなかったと気付いてしまったとて、潮が優都の努力をひたすらに憧憬していた事実は変わらない。結果を与えられる人間の選ばれ方というものは、時として人の心を折るほどに理不尽で不平等だということを、潮はだれよりも身を以て知っている。だからこそ、彼はそれを知ってもなお、結果に挑み続けた優都の強さに縋って生きていこうとした。結局、自分は努力の美しさだけでは救われないのだという事実を突きつけられたところで、優都の積み重ねてきたものを馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばすことはできなかった。報われてほしいと心から思っていたから、だれよりも結果を手にしてほしいと真剣に願っていたから、そのことだけはなにがあっても間違いなく事実であったからこそ涙が止まらなかった。報われることのない努力の存在は、痛いほどによくわかっているはずだったのに、それでも優都の涙があまりに苦しかった。このひとが、なにひとつ言えずに泣いているということが。潮も声はあげず、俯いてただ涙だけを零し続けた。
 ムードメイカーの潮が憚らず泣き始めたのを皮切りに、優都とまだ関わりの浅い一年生までもがそこかしこで鼻を啜り出した。ともすれば優都より派手に泣いている潮の肩を抱いて、京も目の端に涙を浮かべ、二人の横では由岐が俯いて唇を噛んでいる。雅哉は黙って優都に歩み寄り、自分が泣いてはいけないと言い聞かせるかのように眉間に皺をきつく寄せながら、うずくまったままの優都の代わりに彼の弓や賞状を片付け始めた。彼は優都に新しいタオルを手渡して、なにも言わずに数回肩を叩いてから、そっと、指で自分の目尻を拭った。
 輪から数歩離れたところでは、拓斗が姿勢を崩した立ち姿でその光景を眺めていた。不機嫌そうな表情をしているわけではないにせよ、考えの読めない無表情が泣きじゃくる他の部員たちに向けられている。彼は優都から雅哉、潮、京と順番に視線を巡らせて行ったあと、自分のいちばん近くに立っていた千尋で目を止めた。千尋も、拓斗に視線をやる。優都と懇意にしていた部員の中で、千尋だけが泣いておらず、泣きそうでもなかった。そのことに違和を覚えたのか、拓斗はしばらく千尋を視界に入れ続けた。
「風間」
 千尋が、唇の動きだけで拓斗を呼ぶ。彼はそのまま、優都が入ってきた方とは反対の扉を指差し、手招きをすると自分はそこから部屋の外に出て行った。示される通り、拓斗も千尋の後をついて部屋を抜け出した。一歩踏み出したところで、部屋の中の空気がどれだけ重たく淀んでいたかということに気が付いた。

「悪いな、風間」
 控室を出て廊下をすこし歩いた先の自販機前で千尋は止まり、振り返って拓斗にそう言った。なんのことを言っているのかは聞くまでもなく、拓斗は近くにあったベンチに勝手に座り、「別に」と答えた。
「なんとも思ってねえっすよ」
「そう? ならいいけど」
 肩を竦めた千尋は、自販機の前で飲み物を眺め、小銭を入れて缶のミルクティーのボタンを押した。重たい音を立てて落ちてきたアルミ缶を拾い上げる前に、千尋は拓斗に向き直り、「奢ってやるよ、なに飲む?」と問うた。
「コーラで」
「はいよ。準優勝おめでとう。満足してないだろうけど」
「どーもっす。まあ、松原さんに勝ち逃げされそうなのは悔しいっすね」
 二度目の落下音で缶を二つ拾い上げ、見慣れた赤い缶を拓斗に手渡すと千尋は拓斗の隣に腰を下ろした。三百五十ミリの缶で乾杯の真似事をして、乾いた喉に飲み物を流し込む。金属の冷たさが唇をひりつかせ、口内でろくに温めずに喉に流した液体の温度にも背筋が痺れる。ひとつ息を吐けば、千尋の隣では拓斗が喉を鳴らしながら一息にコーラを飲み干していた。
「……矢崎さんは、」
 そこまで言って、拓斗は口ごもった。なんだよと苦笑した千尋が先を促せば、いくらかのあいだ彼は眉を潜めて逡巡し、しかしそれもすぐに諦めてもう一度口を開きなおした。
「矢崎さんは、泣かねえんすか」
 婉曲表現を見つけられず、結局ストレートに投げかけられた問いに千尋はまた笑うしかなかった。拓斗がそういう不器用な性格だということはよく知っている。空になったコーラの缶を手持ち無沙汰に弄び、拓斗はそれからなにも言わずに千尋の返答を待った。
「いちばん付き合い長えくせに、薄情だって?」
「そういうわけじゃねえっすけど」
「はは、まあ、なんとなく言いたいことはわかる」
 拓斗は千尋から目を逸らして、飲み干したコーラの缶を右手で握り潰した。控室は、もう落ち着いただろうか。残り少なくなったミルクティーを喉に流し込みながら、千尋はぼんやりと考えた。
「そりゃあ、報われてほしかったよ。死ぬんじゃねえかってくらい頑張ってたし」
 その言葉を聞きながら、拓斗は自販機横のゴミ箱に空き缶を押し込んだ。たしかに、優都ほど強い思いを持ってこの大会に臨んで、どうしても、あらゆる無理を尽くしてもインターハイに行きたい、とまで願っていたわけではないのかもしれない。それでも、勝負の場である以上他人に負けたくはなかったし、いつだって抱いているその気持ちとともに的前に立った、結果がこれであるにすぎない。優都にとって、インターハイというものがどれだけの意味と重みを持っている場所なのか、拓斗が知る由はないし、たとえ知ったとして、自分が彼を打ち負かすことに躊躇う理由がひとつもないのは事実だった。他人がそれを非難する理由だってひとつもない。けれど、彼らは優都のために泣くのだ。それを拓斗が非難する理由も、やはりひとつもなかった。
「でも、報われないかもしれない、なんてあいつはわかっててやってきたことだし。努力の量だとか気持ちだとか、まわりがあいつには報われてほしいと思ってるだとか、そんなのは結局勝ち負けには関係ねえだろ。俺は、おまえが勝ったのは素直にうれしいよ」
「……どうも」
 それは、憧憬や盲信よりも深く相手を知っているがゆえの信頼のかたちで、ここまで五年間ずっと優都の隣に、前でも後ろでもない場所に立ち続けた千尋だからこそ語れる言葉だ。その重みを拓斗がすべて知ることはできなかったものの、たしかに、いまその片鱗が彼の言葉に見えていることにだけは触れられる。
「まあ、潮とか泣いてんのもわかんねえでもねえし、あいつらはだからっておまえのこと認めらんねえようなバカでもないし、いまは許してやってよってのもあるけど」
「大丈夫です。人望で勝てねえのは知ってます」
「開き直んな」
 喉を鳴らして笑った千尋も、ミルクティーを飲み干して缶を捨てた。かしゃん、と軽い音がして、赤いゴミ箱の中にアルミ缶が落ちていく。その余韻が消え切ったタイミングで千尋は拓斗を振り返り、「まあ、」と言葉を続けた。
「不器用にしか生きらんねえやつが多かったな、と思うわ。この部は」
 そう言った千尋は、拓斗の返事や反応を待つまえに、「そろそろ戻るか」と彼に声をかけた。

「ああ、おかえり。――ごめん、気遣わせて」
「まあ仕方ねえだろ。気い済んだ?」
「うん、もう大丈夫。ありがとう」
 控室に戻った二人に最初に声をかけたのは優都で、彼はすこし赤い目を細めて笑ってみせると、そのまま千尋と拓斗の方に歩いてきた。彼は拓斗の前に立ち、背の高い後輩の目をまっすぐ見据えると、彼の前に右手を差し出して表情を緩めた。
「おめでとう」
 優都が口にしたのはそれだけだった。この先の大会への激励も、拓斗が自分に勝ったことへの感想も、主将としての労いも、なにひとつそこには含まれない。だからこそ、それが立場も強がりもすべてを払いのけた優都本人の思いであって、その言葉以上でも以下でもない本心が詰められていると、だれに言われるでもなくわかってしまう。拓斗は、優都が差し出した右手を握り返し、「ありがとうございます」と一言口にして、頭を下げた。
「森田さんも、お疲れさまでした」
「うん、ありがとう」
 拓斗の言葉に肩を竦めて柔らかく笑った優都は、普段千尋や潮たちに見せるのと同じ表情をしていた。拓斗と相対するとき、いつも厳しい表情を浮かべていた優都の内心は、拓斗には読めない。けれど、あえてそれを理解する必要もいまは感じなかった。
「風間、おめでと! やっぱおまえすげえなあ、俺も鼻が高いぜ」
「なんでおまえが調子乗んだよ」
「いいじゃん、同じ部活の同期がインハイってそりゃテンション上がるっつの、応援団結成しねえとなこりゃ」
「うるせえ」
 潮が飛びついたのを皮切りに、一、二年生が拓斗を囲む輪が作られて、中心で拓斗に絡む潮とそれに便乗する京の言葉でそこは一気に盛り上がり始めた。それを眺めながらふうと息を吐いた優都の視線が、千尋とぶつかり、二人は同時に苦笑した。
「終わっちゃったよ」
「都で三位だぜ、十分立派だろ」
「我ながら頑張ったとは思うんだけどな」
「それは違いねえわ。お疲れ」
「うん、ありがとう」
 歩いてきた雅哉からの労いにも優都は笑って礼を言い、「楽しかったよ」と言ってのけた。
「でも、こうなったからには、まだ辞められないな。古賀、インカレで会おうね」
「さすがだなおまえは」
「僕、それしか取り柄ないからね」
 屈託なく笑いながら、大学入るには受験勉強しなきゃ、と言った優都の声が、まだわずかに震えていることに、千尋は気付かないふりをして、「夏休みは勉強漬けだな」と肩を竦めてみせた。

 翠ヶ崎に帰ったあと、三年生の引退式を称して全員が道場に集まると、優都は部員の前で「今日はお疲れさま」と微笑み、拓斗のインターハイ出場を改めて祝福した。その後、優都と雅哉が主将の席を拓斗に、副将の席を潮に譲ることをそれぞれ告げ、「よろしく頼む」と頭を下げた。潮は「はい」と返事をして深々と頭を下げ、拓斗は短い言葉で次期主将としての所信を表明してから、「お世話になりました」と優都たちに応えた。
「別になにができたわけでもないけど」と、引退の挨拶はまず千尋から切り出した。
「気付いたら優都と一緒に五年半もここにいたのは、やっぱ楽しかったからだと思うよ。ありがとうな、これからも頑張れ」
 短い言葉で話をまとめた千尋は、それでも後輩たちに向かって深く頭を下げた。
 続いて口を開いた雅哉は、まずありきたりな感謝の言葉を同期と後輩に対して述べたあと、「知らない奴もいるかもしれないけど」と前置きしてから、自分が翠ヶ崎に入学するまでの経緯に軽く触れた。
「俺は、中学のときに一度本気で弓道も部活も嫌いになったんだけど、あのとき、全部諦めて全部辞めてなくてよかったと、いまは思ってる。この三年間頑張れたのも、たぶん大学行っても弓道やるだろうなって思えるのも、全部おまえらのおかげだよ。ありがとう」
 内部進学する奴いたらまた一緒にやろう、と笑って締めた雅哉は、話し終わったあとに目を潤ませていたのを千尋に突っ込まれ、「うるせえ」と顔を隠した。そのやりとりを見てしばらく笑った優都は、そのあと、わずかに目を伏せてから「こういうの喋るの得意じゃないんだよな」と苦笑した。
「ちょっと長くなってもいいかな」と前置きして、優都は無難な挨拶を二言三言並べた、今年新しく入って来た一年生に対して、感謝と激励の言葉を丁寧に紡いだあと、二年生が並ぶ方向に体ごと向き直った。
「由岐」と優都に名前を呼ばれ、由岐が驚いたように上ずった声で返事をする。
「この二代の中でひとりだけ初心者で入ってきて、おまえが居づらさを感じていないかこっそり心配していたんだけど、人一倍熱心に練習をして、年数の不利を縮めていったおまえの努力の前では、そんな心配は必要なかったな。いろいろと悩みながらもそうやって頑張って来たおまえ自身が、いまの後輩たちにとってはすごく大きな存在なんだと思う。手本でい続けてあげてくれ」
 由岐はいまだ目をしばたかせながらも、「ありがとうございます」と声を絞り出した。なにか、向き合ったものに対して言葉を尽くす、というのがこの男の特徴のひとつだった、とその姿を眺めながら千尋は感じた。定型句や使いまわしの表現で、優都は他人を語ることができない。
「京。おまえはほんとうに優しくて、だれの気持ちにも行動にも寄り添って慮ろうとしてしまうから、それで苦しい思いをさせてしまったこともたくさんあると思う。だけど、おまえが思っている以上にその優しさに救われているひとはいるし、僕もそのひとりだったよ。すこしはわがままを通したってかまわないんだから、おまえ自身で、その優しさを守っていってほしいなと思ってる」
 京はその言葉に礼は言いつつもどこか不思議そうな顔でそれを聞いていて、けれど隣に居た潮のほうが大きく頷いていた。潮はすでに鼻をすすっていて、順に彼に向き合った優都は、「おまえ泣くの早いんじゃないか」とそれをからかった。
「潮。おまえにとって、ここがきちんと居場所になっていて、大切に思ってくれていて、僕のことを慕ってくれていたことは、僕は全部うれしかったよ。僕は、おまえがこれからする選択がどんなものでも、ずっと応援してる。――部のことはよろしくな。自分ではあんまり気付いてないのかもしれないけど、おまえだってとっくに立派な先輩だよ」
 潮は返事もできないほど嗚咽をかみ殺すのに必死で、見かねた京が一年生に「ちょっとティッシュ取ってきてやってくんね?」と声をかけるのが聞こえた。「優都先輩大好きです」と号泣しながら絞り出した潮に、優都は苦笑しながら「ありがとう」と返した。思えば、ここ数か月、かつては口癖のように言っていたそれを潮はめっきり口にしなくなっていた。
「風間。――信頼してる。あとは頼んだ」
 拓斗への言葉はそれだけだった。代わりに、優都は地面に手をついて拓斗に向かって深く頭を下げ、しばらくその姿勢のまま動かなかった。拓斗は特別なにを言うでもなかったけれど、「はい」と答えた彼の顔を、面(おもて)を上げてまっすぐ見た優都は、頷いて笑みを浮かべた。彼はそのまま今度は同期の方に向き直り、隣に座っていた雅哉に視線を合わせる。
「古賀。おまえが翠ヶ崎に入ってくれていなかったと思うとほんとうに怖いよ。古賀がいてくれなかったらどうにもならないことがたくさんあった。副将としても同期としても、おまえのことを心から尊敬してる。いろいろ迷惑も心配もかけてごめんな。でも、古賀と一緒にこの部を作っていけてよかった」
 「俺もそう思うよ」と返した雅哉は、優都の前に手を差し出して、優都はそれを握り返した。最後に、優都が千尋に視線を向ける。雅哉が一歩下がって、優都と千尋のあいだを空けた。「俺にもあんの」と千尋が肩を竦めると、優都は「ないと不公平だろ」と笑った。
「でも、おまえになにか言うのは気恥ずかしいな。……千尋。さっき、なにができたわけでもないって言ってたけど、とんでもないよ。ほんとうに、何度もおまえに救われた。まあ、僕手かかるけど、これからも面倒見てやってよ」
 優都の言葉に、「おまえ、自覚あったのか」と溜息をついた千尋は、「お疲れ」と続けて雅哉と同じように優都の手を握った。
「おまえたちが大好きだよ。――ありがとう」
 ゆっくりと呼吸を置いてからそう言った優都は、どこか照れくさそうな表情を浮かべ、それをごまかすように首を傾げて笑ってみせた。

 引退式がすべて終わったあと、ほとんど日の暮れ切った弓道場で、優都はぼんやりと的場を眺めていた。千尋が声をかけると、彼は鷹揚に振り向いて、「なんだか、作り物みたいな感傷だな」と呟いた。
「よく、青春映画とかで観る感じのさ」
「作り物がよくできてるってことだろ」
「そういう考え方もあるのか」
「おまえのさっきの挨拶もなかなかよくある青春漫画って感じだったぜ」
「かっこつけたくなっちゃうんだよな。思い返すと恥ずかしいかも」
 でも、最後だしな、と呟いた優都は一度目を閉じてから、自分の後ろを通り過ぎようとした拓斗を呼び止めた。
「ねえ、一本だけ引いていってもいい?」
 そう問われた拓斗は、ふいをつかれたように一瞬押し黙ってから、「別に、気が済むまでどうぞ」と返した。
 弓と矢を取って射位に向かった優都に、順に視線が集まっていく。ライトに照らされた的は群青の夜空を背景にぼんやりと光を帯びていたが、西の空の端はまだすこしだけ橙に明るい。優都はその残り火のような夕焼けに視線をやってから、いっとき顔を伏せた。射場からの逆光で表情はあまりよく見えない。
 五年半、この男が弓を引くのを見続けてきた、とその後ろ姿に千尋は実感した。それと同じくらい、的前に立っていないときの彼の姿も知っていた。優都のことを、自分には決して持てないものを持っていて、自分には行けない場所に行こうとする人間だと思っていた。なにに阻まれても頑張り続けることしかできない、どこか欠落した彼の生き方が、最後に辿りつく場所がどこであるのかを、ほんとうは見届けたかった。
 彼の欠落を長所のひとつと数えたくなるのも、あるいは信仰のひとつであるのだろうか。世界と同じ速度で生きられないこと、なにに対しても正面から向き合うしかできないこと、ほんとうの意味では、他人と足並みをそろえてともに呼吸をすることができないこと。優都のそういった欠落が、彼の首を緩やかに絞めていくことを知っていた。それでも、その穴を埋めなくてはならないと言えないことは、いつの日か誤りになるのだろうか。そのことだけ答えが出せなかった。その欠落に、なにか自分では一生得ることのできない美しいものを重ねて望んでしまうのは、彼から呼吸を奪った、あの切実なまでの信仰となにか変わるところがあるのだろうか。
 優都は目を閉じて息を吐き、時間と時間の隙間を縫うように弓を引き絞った。この光景を知っている、と強く思った。喋るのが遅くて、言葉を使うのも下手で、ひとりだけ周りと時間の流れが違う、背が低くてどこか抜けているけれど思慮深い、あの。優都にとって弓を引くとはこういう営みであるはずだった。自分の時間と一対一で向かい合い、急かされることなく呼吸ができる瞬間。真摯であることと正しくあることを自らに課して、それを貫こうとひたすらにもがいていろいろなものを背負い込んできた優都の弓は、あらゆる重圧を肩から下ろしたいま、なによりも美しかった。
「ありがとう」
「まじで一本でいいんですか」
「うん、満足した」
 そう言って首を傾げて穏やかな笑みを浮かべた優都は、矢取に行こうとする後輩を制して、「自分で行くよ」と言い、そのまま矢取道を通ってほのかに光を受ける的場までひとりで歩いて行った。

***

「うーやん?」
 だれもいない音楽室で、ピアノの前に勝手に座って鍵盤を眺めていた潮の名前を、ごみ箱を抱えてふいにドアを開けた親友が呼んだ。「なにしてんの?」と言いながら、ごみ箱を元の場所に戻して近付いてきた京は、今日はこの場所の掃除当番だったらしい。
「リハビリ的な」
「――ピアノ? 弾けんだっけ」
「二歳から弾いてた」
「まじかよ……」
 右手できらきら星のメロディを一音ずつ叩いていると、京が笑って「それは俺でもできるやつ」と言った。今日は弓道部はオフで、いつもは音楽室を使っている吹奏楽部は遠征かなにかで学校を離れている。京は教室に並べられた椅子のうちひとつをピアノの横に引っ張ってきて、潮の隣に腰を下ろした。
「もっかい、音楽やるの?」
 京の問いに、潮はしばらく押し黙ってから、人差し指でラの音を鳴らし、「やらなきゃなって思う」と呟くように返した。
「全然、そんなかっこいい決意じゃねえし、こないだサックス引っ張り出してきたら見ただけで吐きそうになったし」
 いまだって、と続けた潮は、ピアノの上に置いた自分の右手を京に示した。白鍵に触れた指先は目で見て取れるほど震えていて、潮は自嘲気味に息を吐く。「大丈夫?」と京が問うと、潮は「平気」と頷いて鍵盤から手を降ろした。
「そんなしんどくても、やんなきゃだめなの?」
 京の問いに、潮ははっきりとは答えを返さなかった。楽譜をなにも載せない譜面台をぼんやりと眺めながら、潮の視線は京には知れないどこかに向いていた。
「引きずってるってことは、でかいものなんだろ、って、けーくん去年言ってくれたじゃん」
 潮が反芻したその言葉には京も覚えがあった。ちょうど一年ほど前、いまと同じくらいの秋の季節に、たしかに京が潮に渡した言葉だ。
「俺は、自分がずっと行けると思ってたところには行けないんだって、努力とか年季とかそういうの関係ない、もっと全然別の、生まれ持ってるか持ってないかで決まるもんがあって、俺はそれを持ってない側だ、って気づいて、どうしようもなくなって、逃げたんだけど」
「――うん」
「そのことにずっと負い目があって、ぐずぐずしてたときに優都先輩に助けてもらって、それから、俺が逃げたのを正当化するために、自分が信じてたかっただけのバカみてえなきれいごとを、全部あのひとに押し付けてて」
 潮がこういった文脈で優都の名前を口に出すのも久しぶりだった。三か月ほど前に引退して部を去った前代の主将のことを、潮はひどく慕っていた。潮はあまり自分のことを語らないが、それを言葉にするとき、彼の顔には名前のつけられる表情が浮かばない。
「結局、俺は挫折して音楽からとりあえず逃げただけで、そっからどうするべきかとか、どうしたいのかとか、自分で考えもしてなかったなって思って。……考えるためには、とりあえず、もう一度これと向き合ってみなきゃ、って、まあ、そういう状況。ご覧のあり様だけど」
 そう言って自嘲した潮に、京は安易な言葉で同情することはできなかった。自棄の雰囲気が漂うその言葉の裏で、潮がどれだけ悩んできたのかを京に推し量ることはできない。それを共有できるだけの背景がなかった。
「うーやんがさ、信じてたかったことって、なに?」
 それは、ともすれば一年越しの問いだった。彼の一番深いところに触れることを、いままで京はためらってきていた。そうしなくたって別に構わない、という思いもたしかにあった。けれどこのときばかりは、その問いは自然と口をついた。潮も、予想していたように浅く頷いて瞼を伏せた。
「頑張れば報われるし、いつか認めてもらえるってこと。才能なんかなくても、努力すればいつかはなにかになれるってこと。それだけでずっと続けていけるってこと」
 潮は歌うように淀みなくその言葉を口にした。ずっと反芻し続けてきた言葉であるようだった。「ガキだろ」と笑った彼は、そのあと目を伏せたまま「でも」と逆説を継いだ。
「いまでも、ほんとはそうならいいのになって思っちまうよ。自分のこと別にしても、優都先輩が、いつかあのひとの思うとおりに報われて、あの努力に払ったしんどさとおんなじ分だけ、幸せになってほしいな、って、すげえ思う」
 もう言わないけど、と肩を竦めて、潮はもう一度鍵盤に手を置いた。震えはすこしおさまっていて、一オクターブを親指からつなげると、思ったよりも芯のある音が出た。
「千尋先輩も、同じこと思ってたのかな」と京が呟く。
「あのひとが、いちばん思ってんだろ」と返すと、京は「そりゃそうか」と頷いた。
 ドから次のドまでを右手と左手で交互に繰り返す。潮の鳴らすその単調な音を背景にしながら、京はなにかを考え込むように目を閉じていた。
「都総体のときさ、優都先輩も風間も調子良かったし、おまえと古賀先輩も普通に中ってたのに、俺全然だめで、ほとんど中んねえで、結局団体決勝行けなかったじゃん」
 ふいに京が呟いた言葉に、潮は鍵盤で手遊びをしていた指を止めて彼の方を見た。京がいままで、そのことを蒸し返すことはあまりなかった。けれど、言わずにいただけでずっと内側に抱えてはいたのだろうということは、その表情を見ればわかる。
「俺、あんま朝練とかちゃんと行ってなかったし、優都先輩どころか、古賀先輩とか風間とかうーやんとか、なんならゆっきーとかと比べても、まじで全力で全部賭けて練習してたかって言われると、全然そうじゃないし、そんでも人数足んなくて五人立入れてもらってた身だから、俺のせいで申し訳ない、なんてほんとは思える立場じゃねえわけよ」
 京の言葉に、潮は軽い同意を返した。潮自身、あのときの団体では決して調子がいいと言えるわけではなかった。あと一中、のために、もっと詰めた努力や献身はあるような気もする。
「でも、やっぱ終わったあとは悔しかったし、申し訳なかったし、まあ、正直いまでも申し訳ないし、……それでも、そういう思いしても、俺は優都先輩とかみたいには、できないなっていうのも思って、――だから、優都先輩のことも、おまえのことも、俺は単純にすげえと思うんだよ」
 京は座った椅子を前後に揺らしながら、言い訳をするような口ぶりでそう言った。「わかる気はする」と潮が言うと、彼はこころもち表情を緩めた。
「だから、千尋先輩の考えてたこともいまならちょっとわかる気がする。あのひとも、そうだったのかな、って思って」
 やっとだけどな、と言って伸びをした京に、「そんでもけーくん次は皆中頼むぜ」と潮が言い、京は「頑張るわ」と答えた。
会話の途切れた音楽室で、潮が手慰みにひたすらにオクターブを鳴らし続けていると、それを目に留めた京が「なんか弾いてよ」と軽い口調で言った。その言葉に答えて、かつてよく指慣らしに弾いていた練習曲を鳴らしてみると、ワンフレーズも弾き切らないうちに指がつかえて不協和音が鳴った。
「うえ……幼稚園児の潮くんでも目つぶって弾けたぜこれ」
「京くんはそのころたぶん木とか登ってたし十分すげえぜ」
「俺的にはそっちのがすげえわ」
 潮は今度はテンポを落としてゆっくりとその短いフレーズを弾きなおし、何度かそれを繰り返したあとに、「きついわ」と呟いた。
「メンタルへの打撃がすごい。一週間絶食したあとに焼き肉食ってる感じ」
「えぐいやつじゃん」
 茶化すように言ったあと息を吐いた潮は、しばらく手を置いた場所を見つめたあとに、鍵盤の蓋を閉めて息をついた。
「というわけで、俺は弓引きに行くけど。けーくんは?」
「この流れで行かなかったら俺まじでクソ人間だろ」
「言うと思った。行こうぜ」
 弾みをつけてピアノ椅子を降りた潮に続いて、音楽室の重たい扉を開けて外に出る。開け放たれた廊下の窓から、いくつかの運動部の掛け声と歓声が混ざり合って吹き抜けていく。二階に向かう階段を二人で降りていると、前を歩いていた潮が「あ」と声を上げた。
「優都先輩!」
 潮の声に、二階の廊下を歩いていた緑の上靴の生徒が振り向いたのが見えた。大きく手を振る潮に彼はすこし笑って小さく手を振り返す。優都がこちらに歩み寄ってくる前に、潮は「練習してきます!」と宣言して階段を駆け下りて行った。苦笑するように「頑張れ」と口を動かした優都に軽く頭を下げて、京も駆け足で潮の背中を追いかけた。

今後の創作活動のため、すこしでもご支援を賜れましたら光栄に存じます。どうぞよろしくお願いいたします。