終章 きみがきみの行きつく場所へ - こぐま座アルファ星

「優都?」
 旅館の入り口に据えられた低い階段に腰掛けてどこか遠くを眺めている後ろ姿の名前を呼ぶと、優都はいきなり明るくなった視界に目を細めたまま振り返り、「あ、千尋か」と呟いたあとに安堵の笑みを浮かべた。比較的標高の高い長野の山の中では、真夏とはいえ夜は長袖がほしいくらいには肌寒い。周りに民家もない、電灯もない、月明かりだけに支えられた暗闇が、千尋のかざしたライトで一気に開けていく。「眩しい」と文句を言う優都から懐中電灯をすこし離し、彼の隣に歩み寄る。寝巻きの薄いTシャツ一枚で座り込んでいる優都が、いつからここにいるのかはわからない。「寒くないの」と問えば、「全然」と即答する彼は、どういうわけか昔から寒さには滅法強い。
「なにしてんの?」
「昼に寝ちゃったから、うまく寝付けなくって。星でも見ようかなって思ってさ。やっぱり、こういうところは見える数が違うや」
「そういえば、おまえそういう趣味あったな」
 懐中電灯のスイッチを切って千尋が優都の横に腰を下ろすと、優都は「うん」と頷いて空を仰いだ。つられて見上げた暗い空には、たしかにいままで写真でしか見たことのない数の光が瞬いていて、それを星と呼ぶことは、あたりまえに知ってはいたけれど、存外あたりまえに受け取ることのできない感覚だった。比喩としてはありふれているその輝きが、姿形をもって自分の網膜に映る情景を、十六年生きても千尋はほとんど知ることがなかった。
「もしかして、僕のことさがしてた?」
「特に用があるわけじゃねえけど。起きたらいなかったから、なにしてんだろとは思ったよ」
「そっか。ちょっと心配かけたかな、ごめんな」
「や、別に」
 優都が喉の浅いところで発した声は、暗がりに吸い込まれて思いの外響くこともなかった。それに返事をしながら、千尋は月明かりに目を細める。電灯ひとつない夜の空の下では、月が確かに明るいということすら、いままで知る由もなかった。優都の黒い瞳が淡い光を表面で跳ね返す。それが輝くように見えるこの空間はすべてがモノクロで、千尋は優都が着ているTシャツの色を思い出そうと何度か瞬きを繰り返した。紺色だったような気もするし、もともと灰色だったかもしれない。急速に薄れていく色の記憶を追うことを諦めて、またぼんやりと優都の視線の先を追いかける。
「千尋は、星とか好きだっけ」とふいに優都が問いかけた。
「——星座とかわかんねえし、正直俺には全部ほとんど同じに見える」
「あはは、まあそうだろうな。おまえ、そういう情緒なさそう」
「うるせえ」
「悪口じゃないって。僕、おまえのそういうところが好きだよ」
「そりゃあ、どうも」
 優都は他人に対して好きという言葉を簡単に使うが、その言葉の裏にあるものはいつだって恋情でだけはありえなかった。優都のこの言葉が恋の告白になることは決してない。だれと出会っても、どれだけの時間をともに過ごすことを良しとしても、彼はこうやってひとりで星を眺めに外に出るのだ。だれかに恋をすることを知らない、きっと一生それだけはできない森田優都という男の隣に、ほんの一時こうやって腰を下ろす時間が、千尋も存外気に入っていた。
「千尋、北極星の名前を知ってる?」
「名前?」
 千尋の隣でまた夜空を見上げた優都は、千尋には知れないどこか一点を見つめてそう問うた。すこし肌寒いくらいの風が、灰色に濁る雲を吹き流していく。細い三日月がその後ろに身を隠し、照明のスイッチが押し上げられたかのような錯覚とともに、空に広がる星が数を増した。瞬きをしてもすべてにピントが合うことなどないほどに光の欠片が散りばめられた暗い世界には、風に揺らされる微かな物音と、優都の声だけが吸い込まれていく。瞼を閉じたはずなのに、どうしてか、目が眩んだ。
「全天でいちばん明るい星の名前はシリウス、オリオン座の一等星はベテルギウスとリゲル、さそり座の心臓はアンタレス。——いまの北極星の名前は、ポラリスというんだ」
 慈しむように空を眺める優都の目線の先は、おそらくその星のもとに届いているのだろう、と千尋は親友の姿を横目に見て思う。ポラリス、というその名前を、彼はあまりに大切そうに口にした。北極星の見つけ方は中学の理科の時間に習った気がするけれど、テストの解答用紙の上以外の場所でそれを探したことはなかった。星の位置も名前も、千尋にとっては、テストで点を取るために必要な知識以外のなにものにもなり得なかったし、そもそも星がよく見える場所に住んだこともない。持っている微かな知識はすべて、教科書の写真と、意図的に選ばれた参考書の黒い点の集まりから得たもので、それがいま、現実に目の前に存在することと、見慣れたテキストの図版とは、どうしたってうまく重なることがない。だというのに、きっと優都にとっては、いまこの光景こそが、慣れ親しんできた、星であり夜空そのものなのだ。千尋には、自分と優都が見ている景色のあいだにはどうしてか、決定的な乖離があるように思えてならなかった。優都が愛するものも、慈しむものも、大切に思うものも、理解はできたとて、きっと生涯、千尋には共感ができない。
「ほんの千年くらい前まで、あの場所にあったのはこぐま座のコカブで、あと二千年もすればポラリスはケフェウス座のエライ——自分より暗い三等星に北極星の名前を奪われる」
 優都が指差すその場所がおそらく天の北極で、その指の動きにつられて上を見たけれど、いくつも瞬く明るい星のどれがポラリスであるのかはすぐにはわからなかった。北斗七星の柄杓の先を五倍、というかつての知識を反駁しながら七つ星を探し、その先にあるすこしだけまわりより目立つ星で目をとめる。千尋でも簡単に見つけられる星——シリウスやアンタレスのような一等星よりは暗い、薄く青色に光る恒星。優都の口から聞かなければ、きっと名前など知ることもなかった北極星。それが、特別美しいとは思わなかった。瞬きをしたら見失いそうなくらい、周りとさして変わりはしないその、特別小さくも大きくも見えない普通の星は、名を知られることもなく、ただ、その場所にいるということを最大の意義として輝いている。
「指標とされるのも、日周運動の中心にいて動かないことも、それを信仰されることも。全部、ポラリスだけの運命ではないんだ。何千年たっても、僕らが満天の空からシリウスを見失うことはないだろうけど、ポラリスはいずれただのこぐま座アルファ星——全天六十七個の二等星のひとつになる」
 優都は、他のどんなことよりも星のことについて語るとき、淀みなく言葉を紡ぐ。すこし浮かされたように語る優都はそこで一度押し黙って、なにかを誤魔化すように千尋に向き直り、首を傾げて目を細めた。
「あのさ。たぶん説明されても俺はわかんねえと思うんだけど、一個聞いていいか」
「なんだよ、急に」
 自分に情緒を解する感性がないことも、優都の見ている景色を同じように受け止められないこともずっと前からわかってはいて、それでも優都が語った言葉に含まれた比喩の意味くらいは気が付いていた。
「——それが、おまえ相手じゃなくても別によかったってわかってて、なんも言わねえで依存させたままにしといてるのって、どういう感情なの」
 優都の横顔は、千尋には追えないどこか遠い場所を眺めていた。その行き先を千尋が知ることはきっとできない。どれだけ近しい距離にいたとして、それだけは最初から決められていた。いま、この男のいちばん近くにいるのが自分であるという自負はある。けれど、このあまり大きくもない体の内側に彼が抱え込む思惟と感情のすべてを拾い上げることが、自分には絶対にできないということを千尋は知っていた。
「信頼してるから」と、優都はそれだけ答えて瞼を閉じた。
「ほんとうに追うべきものは僕なんかじゃないってことを、きっといつか気付くと信じてるし、だけどそれにはきっと時間が必要だから、そのあいだはここにいればいいと思ってる、ってだけだよ」
「重たくねえの、それ」
「価値のあるものだから。重たくないわけがないだろ」
 優都はそうきっぱりと言い切った。意志を含んだその言葉で、優都が何度自分のことを誤魔化し続けてきたのかしれない。重たくないわけがないのは、千尋だってわかっていた。けれど、この言葉を聞いてなお、それを手放せと言うことはできなかった。
「……やっぱわかんねえわ。無償の愛でも恋でもねえものに、よくそこまで身を削れるな」
「よく言うよ。無償の愛なんておまえがいちばん縁遠いだろ」
「うるせえ」
 軽く笑って肩を竦めた優都は、そのあとまたどこかに視線を投げ出して、「恋とか呼べたら、まだ、わかりやすかったのかな」と呟いた。優都の口から流れ出すには、恋という言葉はあまりに歪だ。優都は恋をしたことがないと言っていたし、多分、この男は恋というものが一生できない。彼はそういうふうに生まれついていて、死ぬまで、ほんとうのところはひとりでしか生きていけない、そういう人間だ。
「僕と潮の関係もそうだし、僕とおまえの関係だって」
 名前がないとうまく扱えない、その感覚は千尋にも理解できないわけではなかった。けれど、世の中にあふれるありとあらゆる思いや感情を、すべて自分の手の届く範囲に分類してしまうことは、きっと優都にはできない。
「少なくとも、俺はおまえに恋をしたつもりはないけどな」
 千尋が顔も上げずに呟いた言葉に、優都は微笑んだ。失いたくない、という思いとはたしかに違った。失われてほしくない、と思うのだ。手に入れたことはないし、手に入れたいと思ったこともない。ただ、望むまま、あるべきところにあってほしいとは願っている。
「うん——僕もだよ。それは、わかったことがないや」
 当たり前のように呼吸をするには聡すぎて、そのくせ生きていくことに関してあまりに不器用なこの男が、いつか報われる世界であってほしいとどこかで望んでしまう自分が、きっと一番甘い。
「一生理解できねえもののひとつやふたつ、だれにだってあるもんなんじゃねえの」
「そうかも、な。千尋にも、ある?」
「なんだろ。おまえのそのめんどくさそうな生き方とか」
「わかってくれないのは知ってるけど、それでもおまえは僕のことわりと好きだろ」
「なんだその意味わかんねえ自信」
 「もっと謙虚に生きろ」と溜息をついて千尋が頭をはたくと、優都は「結構痛かったんだけど」と文句を言った。一瞬だけ見上げなおした空の、どこにポラリスがあるのかはもう見失ってしまった。わずかに吹いた風は、冷たくもなく温かくもない温度で首と頬を撫でていった。隣でどこかを見つめている優都の視線の先を追うことはしない。自分にわかることはないと知っていても、いまこのいっときだけでも、それが優都だけのものであってほしいと感じていた。
「——そろそろ寝ろよ。明日も早えだろ、また体調崩すぞ」
 横で立ち上がった千尋のほうを向きもせず、優都は「うん」とだけ返した。建物に戻ろうと歩き出しても、後ろをついてくる足音は聞こえない。振り返って名前を呼ぶつもりもなかった。この時間は、優都にとってはきっと眠ることよりずっと根源的だ。そういう時間の中でしかうまく呼吸ができずに、ここまで来てしまったのだ。そのことももう長いこと知ってはいたけれど、やはり千尋にはその時間を共有して生きることはできなかった。あと三時間とすこしもしたら、部屋の布団で目を覚まさなければいけない。ライトの電源を押し上げて、宿の玄関にかけられた木の時計に目を凝らし、千尋は大きく欠伸をしながら靴を脱いだ。

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