第二章 - こぐま座アルファ星

 「おまえの体内時計はほんとうに六十進法か?」と呆れたように千尋が肩を竦めたとき、優都は何度か瞬きを繰り返したのち、心底驚いたと言いたげな表情で、「千尋、比喩とか言えたんだ」と言ってのけた。
「感性の欠片もないやつだと思ってたけど、やっぱり文系なんだな」
「うるせえ。なんならだいぶ字義通りの疑問だよ」
 期末考査一週間前で部活がオフとなった土曜日の午後、一時を回ったころから千尋と机を並べてテスト勉強に励んでいた優都は、日が傾きだした午後五時前になってもなお、始めたばかりのころとほぼ変わらない姿勢を保って黙々と教科書や参考書に向かい続けていた。少なくとも千尋が見ていた限りでは、席を立つことはおろか何度か水を飲む以外には休憩といった休憩すらとっていない。大きな違いといえば、数学が、日本史を経て古典に変わったくらいだ。「そこ、訳が違うぞ」と、優都がいま書いたところの二つ前の文章を指さして千尋がいくつか解説を加えると、優都はすぐ納得したように頷き、赤のボールペンを手に取った。
「よく三時間も四時間も集中し続けられるよな、おまえは」
「——ああ、もうこんな時間? 意外と経ってるね」
「そういうとこだよ」
 疲れねえの、との千尋の問いに、「さすがにちょっと疲れたかな」と言って、優都は訳を直し終えた古典のノートの上にペンを置いた。森田優都は、出会ったときからすでにそういう男だった。窓際の半分だけ電気を点けた教室は、光の入らない廊下側が陰っていて、浅い角度で入り込む西日がそれを余計に際立たせていた。千尋が、鞄から取り出したキャラメルを自分の口に放り込むと、「僕にも」と優都が手を伸ばす。
「千尋は数学の課題終わったの?」
「まあ、八割くらい。あ、一個だけ教えて」
 千尋がノートを捲ってさきほど飛ばした問題を探しているあいだ、優都はすこし融けてべたついたキャラメルの包み紙を剝がすのに苦戦していた。「ここなんだけど」と千尋がノートと参考書を差し出すと、優都はキャラメルを一旦机の隅に置き、千尋の書いた文字と参考書の記述を交互に眺める。煩雑な場合の数の計算を、ときおり机の上で指を動かしながら暗算だけで追って行き、最終的に「場合分けがおかしいのかな」と呟く彼は、頭の回転が速い反面、なにかひとつのことに集中するとそれ以外のことをすべて意識の外に追いやってしまう癖がある。そのあいだ、優都と自分との時間の流れ方はたしかに違うのだろうということを千尋は何年も前から感じていた。
「この場合分けだと、この二つに重複があるから——」
「あー、なるほどな、それで増えてんのか。サンキュー」
「うん。そこだけ調節すれば合うはず」
 優都の解説に従って計算をし直している千尋の向かいで、優都は再びキャラメルの包み紙と格闘を始め、千尋が答えを書き直し、ノートを閉じて顔を上げるまでにはどうやら成功したようだった。その様子を見て、千尋はとっくに空になっていた自分の口に二つ目を放り込み、開いた鞄にノートと筆箱を詰め込んで、「俺はそろそろ帰るけど」と優都に声をかけた。
「うん。僕はきりのいいところまでやっていくよ。じゃあね」
「ん。頑張れ」
 キャラメルを頬張りながら軽く手を振った優都に背を向け、これから暗くなるであろう教室のために残りの電気をすべて点けてから千尋は教室を後にした。階段に向かうとき、一度横目で教室の中を覗くと、優都はやはり寸刻前と同じ姿勢で机に向かっていた。

**

「はじめまして、森田優都です。翠ヶ崎には中学からで、先月までは、京都府に住んでいました。東京のこととか、まだあんまり慣れてないので、いろいろ教えてください。よろしくお願いします」
 中等部の入学式の朝、森田優都は矢崎千尋のひとつ前の席で、かなり大きめに仕立てられたブレザーの裾を払って立ち上がり、浅く頭を下げてから、はにかみつつ無難な自己紹介をした。まだ十三にもならない時分ですでに百七十センチに到達していた千尋とは対照的に、優都は百五十センチあるかないかとかなり小柄な少年で、手の甲を覆い隠しかねないほどの制服の袖を持て余していた。
 関西の出身と言うだけあってたしかに、彼は千尋の聞き慣れたものからはすこし揺れたイントネーションにゆっくりと言葉を乗せていた。一言ひとことを噛みしめるように時間をたっぷり使った優都は、三十回以上も繰り返されてなおざりになった拍手を受け、わずかに安堵のような表情を浮かべて席につく。つい数ヶ月前まで過酷な受験戦争に身を置いていた印象も与えない穏やかな話し方をするものの、面持ちはどことなく緊張気味だ。この中学に外部から入学するのは、たしか相当に難しかったはずだろう。
「矢崎です。初等部からここなんで、知ってるひとも知らねえひともよろしくっす」
 回って来た自分の番は適当に受け流し、さらに適当になって来た拍手もろくに聞かず早々に席に着く。最前列の優都はわざわざ体ごと振り返って真剣な表情で他人の自己紹介を聞いていた。千尋が席につき終わったときには優都の視線はすでに千尋の後ろの席に向いていて、目が合うことはなかったけれど、このまま前を向いていたら残りの時間ずっとこの視線と向き合い続けるのかと思い千尋も心もち後ろに体を回した。二人の後ろの席の女子は、自己紹介など聞くまでもなく千尋の去年のクラスメイトだった。

「ええと、矢崎、だよね? よろしく」
 自己紹介が終わったあと、入学式が始まるまでにはいくらかの待ち時間があり、あちらこちらでぽつぽつと雑談が生まれてくる。列の一番前に座っていた優都は、振り返って千尋に声をかけてきた。中等部からの入学組で、出身が東京ですらない優都は、クラスに気軽に話しかけられる友人など当然ひとりもいなかったのだろう。
「おう。森田——優都、か。珍しい字してんな」
 朝、プリントとして配られたクラス名簿の出席番号三十二番に、優都の名前はあった。ユート、の音を聞いて、ぱっと思いつく漢字ではなかったことに目が留まる。「よく言われる」と肩を竦めて、優都も千尋の手元の紙を覗き込んだ。ざらつく薄茶色の藁半紙の上、一年C組三十三番、あえて口にしなかった下の名前を目に入れると、優都はその名を持つ百七十センチの少年の顔に向き直った。いままでずっと言われ続けてきたコメントを予想して、千尋は聞こえないように溜息を吐く。
「千尋って顔じゃねえだろ? よく言われる」
「そう? 似合っとると思うけどなあ」
 拍子抜けしたように、繕わない調子で発された言葉は、今度はテレビの中でしか聞き覚えのない響きを持っていた。優都は千尋が一瞬面食らったような表情をしたのに気付いたのか、目を伏せて気恥ずかしそうに身を縮めた。
「まじで? それもそれでなんか微妙だな」
「え、ごめん。褒め言葉のつもり、だったんだけど……」
 言葉が違うことを気にしているのだろうか、ひとことずつ確かめるように咀嚼して送り出される音たちは、千尋の言葉に比べてペースはかなり緩慢だ。優都の言葉を聞いている時間は、複雑に絡まったコードを指でほぐすときのそれとよく似ていた。苛立ちを覚えるほどではないにせよ、その内容に比して、たしかに長い。
「だって、かっこいいだろ。千尋って名前」
「……おまえ、なんかずれてんな」
 そう言ってのけた優都が、至極真面目な顔をしていたことに千尋は思わず笑った。思い思いの、それでもいくぶん緊張混じりの雑談と、余所行きの笑顔が飛び交う教室のいちばん廊下側の列、いちばん前の席で、優都は千尋の揶揄に対してすこし不服そうに眉をひそめた。
「悪いって、褒め言葉だよ」
「褒めてへんやろ」
「面白いやつだな、って思った」
「……それは?」 
「これはまじで褒め言葉」
「ほんまに?」
「ほんまに」
 戯れに千尋が口調を真似たとき、優都は一瞬微妙な表情を見せたけれど、それが嘲笑の意図を持っていないことを察すると、どこか気が抜けたようにすこし首を傾げて笑みを浮かべた。人も、環境も、言葉も馴染みのないところにひとりで入り込んでいく気苦労は、千尋には共感することはできなくとも、なんとなく想像することくらいはできる。
 式のために講堂に移動することを伝えられ、教室を出ようと立ち上がると、小柄な優都は千尋を見上げて「やっぱり、背え高いなあ」と呟いた。感嘆混じりのその言葉に「百七十くらいはある」と返せば彼は目を丸くして、それからくしゃりと笑い、「すごいね」と言いづらそうに音を発した。
「無理して言葉直すことないだろ。伝わんないわけじゃねえし」
「……話しにくかったりしいひん?」
「いまんとこ別に」
 特に気を遣ったわけでもない素直な感想を述べると、優都はほっとしたような表情で「よかった」と笑った。このほんの数分の会話だけでも、優都があまり器用ではないものの真面目な性格であることは窺える。担任の「廊下は静かに歩けよ」の声に慌てて前を向いた優都は、おそらく千尋より二十センチ近く背が低く、優都の一つ前に並んでいた、もう名前も顔も覚えていない女子生徒のほうが、わずかに頭の位置が高かった。

 優都は千尋の予想通り相当に真面目な男で、入学式の翌日から、千尋が登校するときにはとっくに席についており、真新しい教科書や参考書を開いてその日の授業の予習に勤しんでいた。後ろの席に千尋が来たことには気付かないまま数学の教科書とにらめっこをする優都に「おはよう」と声をかけると、彼はすこし驚いたように手を止めて、千尋の顔を視界に入れ、表情を緩めて「おはよう」と言葉を返した。千尋も始業よりはかなり余裕を持って登校していたのもあり、そのとき教室にいたのは優都と千尋だけだった。「早いな」と声をかけると、「朝型やから」と優都は苦笑した。
「千尋も、十分早いやろ」
「俺は満員電車が嫌いだから。早いほうがちょっとはましだし」
「東京、ほんまに朝の電車すごいな。話には聞いとったけど、びっくりした」
「だろ。ピークで乗ったら死ぬ」
 優都が自然と自分のことを下の名前で呼ぶことに気付いたけれど、まあいいか、と意外なほど自然に思っていた。あまり気に入ってもいない中性的な名前を、千尋は自分から他人に呼ばせることをほとんどしてきていなかったが、優都の声で発されるその響きには思ったほど違和感は覚えなかった。
 登校してくる人数が徐々に増えてくる時間帯になると、優都は机の上を片付けて千尋の席のほうに向き直って座った。初等部からの千尋の友人たちが、かわるがわる千尋の周りに寄ってきたついでに優都に声をかけ、自己紹介と当り障りのない会話をしながら優都の関西弁をからかって、優都はすこし恥ずかしそうに笑っていた。
 驚くことに、優都はいちばん最初の自己紹介だけでクラスメイトの顔と名前をほとんど正確に覚えていたようで、人見知りをするタイプでもない彼は自然にクラスの輪の中には溶け込んでいた。けれど、そもそも喋るのが遅いということもあってか、会話の中心にいるというよりは他人の話を笑いながら聞いていることのほうが多い。優都は、だれのどんなくだらない話にもしっかり耳を傾けていて、それに向けた返答のひとつひとつがきちんと考えられた意味を持っていた。会話の八割はほとんどなにも考えず適当に片付けていた千尋にとって、それほどまでに他人に真摯に向き合う優都の姿はちょっとした衝撃ですらあった。

「おまえさ、部活決めてる?」
 入学式の翌日にあった部活紹介のあと、千尋がなんの気なしに声をかけると、優都は首を傾げて「全然」と答えた。
「小学校のときとか、なんかしてなかったの」
「学校のクラブではバレーしとったけど、部活になるとついてける自信ないなあ」
「あー、俺も。ミニバスしてたんだけど、バスケ部は無理だわ」
 初等部からの持ち上がりの生徒は、初等部時代のクラブと似たようなものを選ぶ割合が高いなか、新しい所属先を考えるのはなかなかに面倒なことではあった。いっそ帰宅部でもいいか、と早々に思考を放棄した千尋の横で、優都は「新しいことしてみたいな」と呟いて、悩まし気に部活一覧のプリントを眺めていた。
 「なんかよさげなのあったら誘って」という千尋の丸投げに、「わかった」と頷いた優都が弓道部という存在感の薄い部活を見つけ出してきたのは、仮入部期間の三日目だった。だれの話題にものぼっていないその部活の名前は、初等部から翠ヶ崎にいる千尋にすら耳馴染みのないもので、優都がそれに言及したとき、千尋は思わず「うちにそんな部活あったんだ」と呟いた。
「有名な部ではないん?」
「俺は聞いたことねえよ。活躍してるとこじゃないと思う」
「ふうん——朝、そこの先輩に声かけられて、弓引いたはるとこ見せてもらってんか。綺麗やなあと思って」
「結構部員いた?」
「朝は自主練って言うたはったし、今日はそのひとしかおらんかったな。詳しいことはなんもわからんけど、あのひとはたぶん上手なんやと思う」
 目を輝かせて朝の出来事を語る優都は、いつもよりもこころなしか饒舌で、その分もともとの言葉遣いが色濃く現れた話し方をしていた。ここのところ、優都がクラスメイトや先生の前では意図的にこちらの言葉を話そうとしているのを、千尋は何度も耳にしていた。ただでさえ喋るのが遅い彼は、言葉を気にしているとき、それにさらに輪をかけてゆっくりと言葉を繋げていく。周囲のスピードにありとあらゆる面でうまくついていくことができていない優都は、ときおりどことなく疲れたような表情を浮かべることもあった。だからこそ、無意識に口をついているのであろう言葉にはあえて言及する気もおきず、千尋は優都の話に相槌を打ちながら最後まで黙って耳を傾けた。
「放課後も行ってみるつもりなんやけど、千尋も一緒に来おへん?」
 わずかに身を乗り出してそう問うてくる優都にとって、その朝の出会いはなかなかに魅力的なものだったのだろう。「いいよ、どうせ暇だし」と千尋が答えると、優都はうれしそうに表情を緩めた。

 放課後、優都とともに向かったその部は予想していた以上に閑散としていて、朝、優都に声をかけた宮内という名前の三年生以外の姿はひとりもなかった。在籍している部員がまったくいないわけではないが練習には自分以外ほとんど来ていない、という趣旨のことを彼は存外素直に優都と千尋の二人に話した。明言はされなくとも、存続自体が危ぶまれている状況であることは明らかだったが、千尋の隣で、優都は落胆も動揺も見せない表情で座っていた。
 その後何度か仮入部として練習に参加したあと、優都は「やっぱりちゃんとやってみたい」という理由だけで、部員もいなければ指導環境も整っているとは言えないその部活に入部することを、特に千尋に相談するでもなくひとりですんなりと決めてしまった。彼はは一度たりとも、千尋に一緒に弓道部に入ろうと言ったことはなかったけれど、千尋が自分と同じ部活に入ることを決めたときには、うれしそうに「よかった」と微笑んだ。
 同期は千尋だけ、先輩もきちんと練習に来ているのは二学年上の宮内だけ、という状況にも関わらず、優都は弓道というものにすっかりのめり込んだようで、宮内の指導を受けながら真剣に練習を重ねていた。もともと、こつこつと努力を重ねることだけは得意だと語る優都は、その言葉の通り、教えられたことを日々しっかりこなして着実に実力をつけていった。
 当時の主将であった宮内は都内でも名の知れた選手であり、弓道への姿勢と実力はかなり優れたものを持っていたが、そのぶん他人にも相応の努力と献身を求める性格でもあった。同期や後輩が部から去っていったり、新しく加わることがなかったりしたのはそれが仇となったところもあったのだろうと千尋は推測していたが、その横で、優都は宮内の求める以上の努力を持って彼の指導に応えていて、教えていた宮内がおどろくほどのスピードで上達を見せていた。彼は決して要領のいい人間ではないものの、教えられたことを時間をかけてしっかりと咀嚼し、着実に飲み込んで自分のものにしていく能力は人一倍高い。それゆえ、宮内が優都の弓の腕に信頼を置くようになるまでにはそれほど長い時間はかからなかった。
 千尋自身は優都ほど弓道に全力を注ぐ心持ちになれていたわけではなかったとはいえ、それなりに真面目に練習に参加はしていたし、こぢんまりとした空間で、それでもあまり窮屈にはなりすぎずに放課後の時間を弓を引いて過ごすことにはたしかに心地よさを感じていた。それは優都も同じようで、クラスにいるときはどこか気張ったような表情や言葉の使い方をしているのに対して、部にいるときはあまり喋り方を繕うことをしなかった。すこし首を傾げてはにかむように笑いながら、訛りの入った穏やかな口調でゆっくりと言葉を探して喋る優都は、ひとつのことを口にするのにその何倍ものことを考える必要のある不器用な男で、放っておくとすぐに周りの話にも状況にも置いていかれてしまうようなところがある。それもあってか、中身のないお喋りを楽しむ習慣がそれほどない宮内と千尋しか自分の他にいない空間は、優都にとっては居心地がいいようで、部にいるときの彼は普段よりもいくぶん饒舌だった。
「おまえは真面目だな」と、宮内は折に触れて優都のことをそう評した。
 優都はそれに対してあからさまに謙遜をすることもなかったけれど、いつも、「でも、それだけです」と苦笑していた。
「なにか、特別できることがあるわけでもないから、頑張るくらいはできひんとだめやなって思ってるだけです」
「十分長所だろ。おまえの弓は、それを裏切らないと思うよ」
 優都は弓を引くとき、ひとつひとつの動作をひどく正確に積み上げながら、その先にあるなにかを見ているような仕草をすることが多かった。弓を引き絞ったあと、一呼吸おいて的を見据え、弦から指を離すまでの、会(かい)と呼ばれる一瞬の時間を、優都は人より長く持つ癖がある、というのは夏の大会前に宮内が優都に指摘したことだった。「別に悪いことじゃないけど」と補足したあと、宮内は「森田らしいな、と思って」と笑った。優都とともに弓道を始めてまだ数か月の身でありながら、千尋にもその言葉の意味はある程度わかるような気がしていた。優都だけが宮内のその一言を掴み切れずに、またすこし首を傾げていた姿をよく覚えている。日々周りについていくのに必死になっている彼が、唯一自分の思うままの時間を生きられるのが弓を引いているときなのだろう。うまく言葉にはできないながらその事実を千尋が悟り始めたとき、優都が弓道という武道に惹かれた理由には納得がいくような気がしていた。

 優都はその性格が示す通り嘘をつくことが苦手だが、千尋の知る限り、宮内もそれと同じくらい隠しごとのできない人間だった。三年生が出られる最後の試合の数日前に、彼は後輩二人を自分の前に座らせて、唐突に深々と頭を下げ、自分は来年からは翠ヶ崎にはいないのだということを告げた。外部の高校から引き抜きの話が来ていて、それを受けるつもりなのだと言う。彼が名を挙げた高校は中高一貫の歴史ある名門で、中等部も高等部も、弓道では都内トップレベルの選手を何人も抱えている全国大会の常連校だった。
「おまえらを置いていきたいわけじゃないんだ」と宮内は頭を上げないまま言った。
 その言葉が本心であることはわかったものの、なにもここまでバカ正直に話すこともないだろうとすこし冷めた気分でその話を聞いていた千尋の横で、優都はいつもの通り姿勢を隙なく正して座っていた。その横顔から特別な表情は窺えなかったけれど、彼はまっすぐに、まだ俯いたままの宮内を見ていた。あたりさわりのない言葉はいくらでも思いついたが、最初の一言は譲ろうと千尋が口をつぐむと、優都はしばらく時間をおいたあとに、「応援しています」と言った。
「僕は、先輩の弓が好きで弓道を始めたから、——先輩がどこに行かはっても、先輩のことは尊敬したままですし、これからも、応援させてください」
 このときからずっと、優都は嫌だとも寂しいとも宮内の前ではひとことも言わなかった。宮内は、一瞬なにかを堪えるような表情を見せたが、そのまま床に手をついて、「ごめん」ともう一度頭を下げた。
「宮内先輩引退しはったら、千尋と二人やんな」と、その日の帰り道、優都は千尋の隣で呟いた。
「来年、後輩入るまではそうだよな」
「そっか、後輩、僕らが入れやなあかんのか」
「まあ、どっちみち、来年入んねえと潰れるしな」
「そうやんなあ、頑張らんと」
 入部して半年も経たない、まだ知らないことのほうが多いくらいの時期に、主将という肩書きを押し付けられた優都が、その重圧に完璧に応えようとしてしまう人間だということを、千尋はわかっていたし、おそらく宮内も気付いていた。「無理をするな」という言葉を宮内は優都にかけられず、彼は一度、千尋を呼び止めて「森田を頼んだ」と頭を下げた。優都はそれまで以上に真剣に練習に打ち込むようになった一方で、自分で顧問や学校側に掛け合って大学の弓道部の部員にたまに指導を頼めるように調整したり、部の運営に関わることを黙々と整理したりといった事務作業もこなすようになっていた。冬に行われた大会で優都が一年生ながら入賞を果たした頃には、宮内が部に顔を見せることも少なくなっていた。
 新入生が入ってくる時期には、もう千尋の前ですらほとんど関西弁を喋らなくなっていた優都は、四月になんとか入部してきた二人の後輩の前では、常によき先輩であろうと背筋を伸ばしていた。都内での指折りの実力者だった宮内が去った部で、その頃、優都はたった一人で翠ヶ崎の名前を背負って大会で結果を残していた。その裏に、おおよそ千尋には理解できないほどの量の努力があったことを知っていた。
 「全国大会に行きたい」と優都が言葉にして主張し始めたのもその頃だった。二年の夏の予選会では、団体では予選すら通過できなかったものの、優都は個人では四位という好成績をおさめ、それ以降の大会でも、都内では五本の指に入り続ける活躍を見せていた。個人では都で二人しか出場できない夏の全国大会の出場権獲得を目指して時間を惜しんで練習を積み、その傍らで後輩の指導や部の運営を担い、けれどそのすべてを優都は特別大変だと零すこともなかった。
「おまえさあ、しんどくねえの?」
 三年に上がり、部にまた新しい部員が増えたころ、優都の仕事を手伝いながら思わずそう問うた千尋に、優都は迷うそぶりも見せずに「大丈夫だよ」と答えた。部活では主将として振舞い、外の大会に出れば翠ヶ崎の名前をほとんど一人で背負い、それでいて学校のテストでは毎回のように一桁台の順位を取る優都は傍から見れば完璧なまでに勤勉な努力家で、後輩らもクラスメイトや教師からも手放しで信頼されている存在だが、千尋にはその生活にはどうしたって無理があるように思えてならなかった。ほんの一年半ほど前までの、なかなか訛りの抜けない言葉を喋りづらそうに使い、周りの話についていくだけで精一杯だったころの優都と、こうやってあらゆるものを背中に乗せて、それでも「大丈夫」と言ってのける優都がどうしても重ならなかった。一年半で背はかなり伸びたものの、優都はそれでもまわりと比べるとやはりすこし小柄で、百八十近い長身の千尋と比べるとその差は顕著だった。
「やりたくてやってることだし、大変じゃないとは言わないけど、無理をしているつもりもないよ」
「やりたくてやってることなら、しんどくねえってのも違うだろ。おまえならどうにかするからっていろいろ押し付けんのも、どうかと思うし」
「そうかな。でも、信頼してもらえてるなら、それには応えたいと思うよ。僕、おまえみたいに要領よくないし器用でもないから、できることなんて限られてるし」
「——そういうとこだよな。知ってたけどさ」
 なにに対しても、真正面からまっすぐ向き合うことしかこの男は知らないのだということを、この頃には千尋は察していて、けれどそれを批判することはできなかった。千尋自身はなにに対しても最低限の努力でそれなりに及第点が取れればいいという取り組み方をする性格で、弓の腕にせよ学業の成績にせよ、優都にはかなわないものの優都ほどの努力をしたこともない。だからこそ、優都のその姿が眩しくないわけではなかったが、自分にはそれは絶対にできないとも確信していた。できることは限られている、と言いつつも、優都は、期待されたことはそれがなんであろうとやろうとしてしまう類の人間だ。
「だいたい、僕にいろいろ言うけど、千尋だって仕事人間だろ。生徒会、いつも忙しそうだし」
「おまえな、だれのために俺が生徒会やってると思ってんだ」
「僕が頼んだんじゃないだろ。なんやかんや、やりがい持ってやってるくせに」
「うるせえ。俺は俺のできることしかしねえわ」
 悪態をついた千尋の横で、優都はわずかに表情を緩めて、手元の書類に丁寧な字で自分の名前を書いた。一年の後期にあった生徒会選挙の時期に、なかなか立候補者の現れない生徒会の会計職に、優都と千尋のクラスの担任が優都に誘いをかけたことがあった。優都の真面目さと勤勉さと、面と向かってものを頼まれるとなかなか断ることをしない性格による人選だったのだろうけれど、すでに部活の主将に内定していた優都にその役職が重荷であることは間違いなかった。さすがに即断はできず悩んでいた優都の横で、「俺がやります」と言ったあのときが、いまのところ千尋が人生で最も他人のために動いた瞬間だった。対立候補もなしにすんなりとその役職に着任してから、思いのほか忙しかったその活動に文句は言いつつも、結局は翌年も会計職を連任し、例年の流れを鑑みれば高等部でもその生活が続くことは予想に難くない。
「——うん、これで大丈夫かな。今年も、ちゃんと一年生入ってきてくれてよかった」
 生徒会に提出する書類を揃え終えて、優都は新年度の部員名簿に視線を落としながらそう呟いた。「千尋に出していい?」と聞く優都に頷いてその書類を受け取り、一通り眼を通す。部長職も二回目となれば不備も見当たらず、相変わらず字も読みやすい。優都の書く文字はそのまま優都の性格と同じだ、と千尋は折に触れて感じていた。どれだけ速記しても軸のぶれない、小学校の教科書に書かれているように整った楷書は、それでもどこか独特なバランスをもって一文字ずつが完結している。
「潮と京の新歓能力はえげつなかったな。あいつら、コミュ力高いとは思ってたけど」
「いや、本当に助かったね。むしろ、去年、僕たちの勧誘でよくあの二人が入ったと思うよ」
「一瞬まじで廃部覚悟したしな。それこそおまえの人望だろ」
「そういうことにしておこうかな」
 優都は肩を竦めて、千尋に渡した書類の控えをクリアファイルに戻した。一年前、優都が仮入部のときに引いてみせた弓に惚れ込んだと言って入部してきた二人の後輩も着実に実力をつけて来て、この四月にその下の代が入ってきた弓道部はようやく部としての体裁を立て直し始めていた。その裏で優都が弓道部のためにささげてきた献身がどれほどのものであるのかは、千尋ですらすべてを知ることはできない。
「千尋、今日の放課後、練習付き合わない?」
「オフだろ今日……潮とか誘えよ、喜んで来るぞ」
「たまにはいいだろ」
「いいけどさ」
 七月の終わりにある全国大会の予選会のために、一年生の指導の合間を縫ってすこしでも多く自分の練習を積もうとしている優都は、相も変わらず空いた時間のほとんどを弓道に捧げていた。都内で二位以内というのは、優都にとって、難しくはあるもののコンディションによっては不可能ではないと思える程度のラインだった。それをだれよりもよくわかっている優都はこの頃、「練習していないと不安になる」と言い出すほどの練習量を自分に課していた。それにすべて付き合うことは千尋にはできなかったけれど、優都がそれに文句を言うこともなかった。彼は、自分が自分に課すものを他人に押し付けることだけは、一度たりともしたことがなかった。

 結局、七月の予選会では優都は全国大会への出場権をわずかのところで逃し、その後彼は中等部での主将の職を一旦潮へと譲った。中等部と高等部の敷地が離れている翠ヶ崎では基本的に部活動も別の体制をとっていることが多く、内部進学は決まっていたがそれに則って形式上の引退をした、というかたちだ。優都は目標が叶わなかったことを悔しがっている様子ではあったけれど、立ち直るのも存外早く、「次は高校総体(インターハイ)かな」と言って、中等部の練習にときおり顔を出しつつ、高等部の方の道場を借りて自分でも練習を続けていた。
 千尋と優都が高等部に進学したとき、弓道部には予想外に新たなメンバーが加わった。形ばかりの仮入部期間を取っていた弓道部に、自前の弓を持って現れた少年は、背の高い千尋よりもさらに長身だった。高等部から翠ヶ崎に入学してきた彼は、優都のことを中学時代から知っていると告げた。優都は古賀雅哉と名乗った彼の顔をしばらくじっと見つめたあと、「櫻林(おうりん)中のCチームにいたことある?」と問うた。
「え、一瞬いたけど——よく覚えてるな、そんなの」
「やっぱり? 次の年から見なくなったし、先輩なんだと思ってた。同期だったんだな」
「ああ……俺、二年の冬で部活辞めたから。あんまり性に合わなくて」
 優都は自分で特技のひとつに挙げるほどひとの顔を覚えることが得意で、一度見ただけの相手でも即座に思い出すことができる。面食らったように雅哉が語ったその事情に、優都は「そうだったんだ」と頷き、いつものように小さく首を傾げた。
「あの学校で、二年のときから団体のレギュラーだったのはすごいな。上から二番目のチームじゃなかった?」
「いや、あのときはたまたま。森田こそ、翠大附(すいだいふ)、団体ではそんなに名前聞かねえのに、個人ではいつもいいとこまで残ってて、すげえなって思ってた」
「見ての通り、ひとの少ない部だからね。古賀は、どうして翠ヶ崎に?」
「櫻林の部辞めたとき、高校も別んとこ行こうと思ってたんだけど、櫻林の高等部の先輩にここ勧められてさ。層は厚くないけど、いい選手がいるって」
 死ぬほど受験勉強したら、なんとか引っかかった、と笑った雅哉の話に、優都と千尋は一瞬顔を見合わせた。雅哉の出身校は、かつて宮内を引き抜いた学校の中等部だった。優都がその話を雅哉にすると、雅哉も眼を丸くして、「宮内先輩、ここの出身だったのか」と呟いた。
「それで翠大附推してきたんだな。……櫻林は中等部から人数も多かったし、めちゃくちゃ実力主義だったから、レギュラー入るための蹴落とし合いとかも結構あって。それで強豪なのはわかってたつもりだったけど、どうしてもそういうのが好きになれなくて、上のチーム入ろうとする気にもなれなくって辞めちまったから、人数少ないとことかのほうが、うまくやれるかもってのは、多少思ったし、翠大附勧められたあとから森田の弓はよく見てたんだけど、すげえいいな、こいつと弓引いてみたいなってのも、勝手に思ってた」
 そう語った雅哉は、弓道の経験者特有の慣れた動きで膝を折って座り、優都と千尋の前でそのまま頭を下げた。
「俺でよければ、一緒にやらせてほしい。一応、部活辞めたあとも個人的に弓は引いてたし、受験のブランクも、練習して埋めるから」
 一息に言い切った雅哉の前で、優都は同じように姿勢を正して座り、こちらも淀みない動作で礼を返した。百八十をゆうに超える背丈の雅哉の前では優都はいつも以上に背が低く見えたが、その反面、彼の存在感はその体格の差をものともせず、優都はまったく対等な目線で雅哉を見て微笑んだ。
「こちらこそ。——ほんとうにありがとう。月並みなことしか言えないけれど、すごくうれしいし光栄だ、いまは閑散とした部だけど、その代わり、練習ならいくらでもできる。一緒に頑張ろう」
 優都が差し出した手は、それを握り返した雅哉の手よりも二回りも小さかった。雅哉もそれに気付いてか、「森田、近くで見るとわりと小さいな」と笑い、優都はその評価にすこし不服そうな表情を見せたものの、「そっちが規格外に大きいんだろ」と切り返した。そのあと、珍しくひどくうれしそうな表情を隠しもしないまま千尋を見やってきた優都に、「よかったな」と千尋が声をかけると、彼は素直に頷いた。

 途中で退部したとはいえ、人数も多い強豪校で団体戦のメンバーに選出されていた雅哉の実力は折り紙付きだった。宮内が卒業して以来技術的な面で優都と対等に話ができる相手がいなかったこともあり、いろいろな面で優都に対してはっきりと的確な意見を言って来る雅哉のことを優都が信頼するようになるまでにはそう長い時間はかからなかった。信頼できる同期が増えた安心感もあってか、高校一年の序盤、優都は目覚ましい勢いで成績を伸ばしていた。一年生ながら個人では数々の大会で入賞を果たし、森田優都と翠ヶ崎高校の名前は周りに知られるようになっていったが、優都はそれに満足することはなく、まだ足りないと言わんばかりに努力の手を緩めなかった。毎日七時前に登校して朝から弓を引き、放課後の練習も手を抜くことなく集中してこなし、そのうえで授業の課題や予習復習も怠らず、受験勉強をして高等部から入学してきた生徒が混ざってきてもなお成績も落とさない優都の姿に、雅哉は高校二回目の定期試験が終わったあと「化け物かよ」という言葉を零した。
「森田は、あの生活してて、いつあの成績がとれるほど勉強してるんだ?」
「まあ、あいつもともと賢いけど。中学んときから、テスト前は死ぬほど勉強してるし」
「それでどうにかなるもんか? 矢崎みたいに、地頭だけで乗り切ってる感があるわけじゃなくて、ちゃんと真面目にやってんだろうなってところが余計意味わからん」
「どさくさに紛れて俺をディスるなよ」
 まとめて返ってきたテスト結果を前に深い溜息をついた雅哉は、元来そこまで勉強が得意ではないようで、ぎりぎりの成績で入試を通ってからは、優都の練習量に合わせていては、学業のほうは赤点を取らないようにすることで必死だと頭を抱えていた。優都のいないところで雅哉の嘆きを聞きながら、千尋も自分の成績表に視線を落とす。普段はそれほど真面目ではないものの、テスト前だけは優都に付き合ってそれなりに勉強する時間を確保しているうえ、自覚している要領のいい性格もあいまって、千尋は中学時代から学年で二十位には入る程度の成績は保っていた。今回は学年で五位の順位に入った優都は、点数を見るなり、「数学、もうちょっとできたな」と反省を述べていた。
「櫻林にいたときもだけど、自分はそれなりに真剣にやってたと思ってたし、いまも思ってるけど、森田みたいなの見てるとさすがに自信なくすわ」
「あれは、やろうと思えばだれにでもできるって類のことでもないと思うぜ。……優都自身だって、いまはそこそこうまくいって、結果も出てるから大丈夫なんだろうけど」
「森田って、結果がどうとかで変わるタイプか? うまくいってもいかなくても、あの生活してるイメージある」
「本人はどうこう言わねえけどな。だけど、あいつはバカ真面目だし、なんでもちゃんとやるから周りのほうが、あいつなら大丈夫って思っちまうとこあるし、——期待されて、信頼されて、自分でもできる限り努力して、そんで結果出なかったときに平気でいられる人間なんていねえよ」
 努力さえすれば結果が出るという単純なクリシェを頭から信じられるほど、優都が愚かではないことを知っていて、千尋が呟いた言葉を、雅哉は何度か瞬きをして聞いたあと、肩を竦めて小さく笑った。「なんだよ」と眉をひそめた千尋に、「いや、」とあいまいに言葉を濁した雅哉は、手元の成績表を二つ折りにして机の上に置き、頬杖をついて千尋を見やった。
「なんで、全然性格も違うのに森田と矢崎が仲いいんだろって思ってたんだけど。おまえ、意外とちゃんとひとのこと見てるよな。そういうとこか」
「あっちがどうかは知らんが、優都のことが気に食わなかったら俺は部活なんて半年で辞めてたわ」
 弓を引いているその瞬間に、自分の弓に対して真摯であるならそれ以外にはなにも求めないけれど、それだけは譲らないという旨のことを優都は部員に対して何度か言葉にしたことがある。これまでの三年間とすこし、その言葉には反していないとそれなりに素直に思えているのも奇跡だ、というのは千尋が折に触れて感じていることでもあった。弓が、自分の生活の中心になることはないとわかっているし、学校のため、部のため、優都のために上手くなろうということを思ったこともなかった。それでも、弓を引く時間が不要だとも思えていない以上、それがなんらかの意味を持っていることを疑う理由もないとわかっている。雅哉は千尋の言葉になにかを納得したようで、「なるほどな」とひとりごちて、それ以上その話題を続けることもしなかった。

 高等部一年の八月、都内で行われた個人戦の大会で、優都は初めて東京都のトップに立った。三年がもう引退している部もあるとはいえ、他の入賞者はほとんどが二、三年生である中、一年生の優都が優勝を飾るのは快挙だ。予選から決勝までを皆中で終え、文句なしの優勝を決めた優都はその日、おどろくほどに絶好調だった。目標を口にすることはあるものの、あまり大言壮語を吐くことを好まない彼が、準決勝の前に「今日は外す気がしない」と言い出したことには二人して驚いたが、優都はそのままその言葉を現実にしてしまった。正射必中という言葉がまさにふさわしいほど、優都の射には一点の乱れもなく、優勝が決まる決勝の場でも、見ている側に緊張ひとつさせなかった。これが外れるはずがない、と、優都が会を持つ瞬間にはそれを見ているだれもが確信していた。
「優都先輩! おめでとうございます、まじですごかったです」
 表彰式が終わったあと、中等部から応援に来ていた潮たちが優都に駆け寄ると、優都はいつもと変わらない笑みを浮かべて「ありがとう」とそれに応えた。
「いや、もう、優都先輩なら絶対いつか優勝するって思ってたんですけど、まじで感動しました。俺らすげえひとと部活してたんすね……」
「いつでもこれができればいいんだけどね。全中予選や都総体では調子よくなかったし、安定させないことには、まだまだだよ」
 潮の絶賛に優都がはにかむように肩を竦めた横では、雅哉が「もっと素直に喜べよ」と優都の頭を叩いていた。東京都個人選手権の上位大会は関東大会であって、ここで優勝しただけでは優都が目標とする全国レベルの大会には届かない。けれど、いまは一年生が三人しかいない翠ヶ崎高校で、主将の優都が優勝を果たし、副将の雅哉もぎりぎりではあるが入賞に滑り込んだという結果は十分すぎるほどの成績だ。
 高等部から入学してきた雅哉をよく知らない後輩たちが、優都を介しながら雅哉に挨拶をしたり、入賞をねぎらったりしているのを千尋がすこし距離を置いて眺めていると、ふいに「矢崎」と後ろから知った声で名前を呼ばれた。
「お疲れ」と千尋に声をかけてきたのは、優都と千尋のかつての先輩だった。
「宮内先輩。お久しぶりです。——そういえば、都個人出てらっしゃらなかったんですか」
 三年生であるはずの宮内は、インターハイ予選を兼ねた六月の都総体までは試合会場で姿を見ることもあったけれど、この日は制服姿で立っていて、思い返してみれば予選から彼の姿を見た記憶は一度もなかった。
「うちは三年はインハイで引退したよ。今日は後輩の応援来てたんだけど、まさか森田に負けるとは、俺としては微妙な気分だわ」
「ああ、そういや、インハイお疲れさまでした。櫻林、団体で出てましたよね」
「おう、どうも。まあ、俺は補欠だったけどな」
 いまだ談笑する輪の中から、千尋が優都と雅哉の名前を呼ぶと、振り返った二人は千尋の隣にいる宮内に気付いてすぐに駆け寄ってきた。「いらしてたんですね」と笑みを浮かべる優都と、「お久しぶりです」と頭を下げる雅哉を前にして、宮内は優都の優勝をねぎらい、「上手くなったな」と声をかけたあと、雅哉の方を向いて、「まじで翠ヶ崎に行ったんだな」と笑った。
「俺が言うのもなんだけど、いい部だろ」
「本当に。宮内先輩には頭が上がりません」
「俺はなんもしてねえよ。向こうに櫻林の奴らいるけど、会ってきた?」
「いや、途中で辞めた手前声かけづらくって……」
「大丈夫だろ。おまえがいるの見て懐かしがってたぞ」
 雅哉が大会で同じ場に来るたびにかつてのチームメイトを多少気にしていたのは、優都や千尋の眼にも留まっていた。「ちょっと挨拶してきます」と場を離れた雅哉を見送ったあと、宮内は再び優都と千尋のほうに向き直り、もう一度優都に対して「おめでとう」と口にした。
「あの状態からここまでちゃんと部を立て直して、自分がこんだけ結果残すのは、相当のことだっただろ。おまえはほんとにすごいよ」
「そんな。いまだってしっかりできている自信があるわけではないですけど、そう言っていただけるのはうれしいです」
「——なんか違和感あると思ったら、おまえ標準語喋れるようになってるのな」
「ちゃんと喋れるようになるまで一年近くかかりました」
 恥ずかしそうに笑う優都は、背が伸びたことと言葉が変わったこと以外には三年前とそれほど大きな違いはないと千尋は思っていたし、宮内も三年前とほとんど変わらない態度で優都に接していた。宮内が卒業して以来、優都と千尋には部活動のうえで先輩と呼べる相手はずっといないし、これからもそれは変わらない。久しぶりに後輩の顔をしている優都は、いつもと比べるとこころなしか気の抜けたような表情で笑っていた。
「こんなこと言える立場じゃもう全然ないけど、俺は、おまえのことを誇りに思うし、尊敬してるよ」
 宮内がふいにそう言うと、優都は宮内を見上げ、すこし目を細めて「光栄です」とだけ返した。宮内は自分の顔をまっすぐ見てくる優都から視線を外し、そのまま目を伏せた。
「俺は、部員も集められなかったし、残ってもらうこともできなかったし、そのツケを全部おまえらに押し付けて自分だけ出ていった、翠ヶ崎のためにはなんもできなかった最低な主将だったから、こういうの言うのは違うのかもしれないけど、——それでも、俺は、試合会場で翠ヶ崎の名前が聞けることが、いまでもうれしい」
 宮内のその吐露を、無責任だと受け取ることは簡単だったけれど、優都が決してそうは思わないであろうことも千尋にはわかっていた。千尋自身、弓道部のことに対して宮内に責任を問う考えを持ったことはなかった。どこかで生じた綻びは、努力や献身とは関係のないところでいとも簡単に広がっていく。彼が入部したときにはすでに生じていたであろうそれを、繋ぎ合わせることができなかったのがこのひとだけの問題だとは思えなかった。
「なにも知らなかった僕と千尋に、弓の引き方やその価値を教えてくださったのは宮内先輩ですし、僕が後輩にしていることだって、僕が先輩にしていただいたことばかりです。宮内先輩がいなかったら、僕も千尋も古賀も、いまここにいないし、翠ヶ崎の弓道部だって僕らが入る前になくなっていたと思います。——僕が主将として目標にできるのは、宮内先輩しかいないんですから、そんな言い方をしないでください」
 優都は三年前から、こういう類のことを迷いもせず、しっかりと言葉を選んで相手に伝えることができてしまう人間だ。かつての後輩にそう頭を下げられた宮内は、困ったように笑って、「ありがとな」とだけ言った。
「……なんか、やっぱり標準語のおまえ違和感すごいわ」
「え、それを僕いちばん頑張ったんですよ」
 すこし不服そうな表情を見せた優都は、そのときにはすっかり後輩の表情に戻っていて、宮内と談笑する優都の姿に、千尋は中学一年のころの彼の姿を思い出していた。背が低くて喋るのが遅く、不器用で周りについていくことができていなかったあの頃の面影は、たしかにいまの優都にも残っているというのに、優都はこの数年間それをあまり周りに悟らせることはしてこなかった。ただひたすらに頑張ることで姿勢を正している友人の姿を、誇りに思わないわけでもない。その努力が報われてほしいとも思うし、今日のような成功が、きちんと彼の追い風になってほしいとも願っている。けれど、努力や献身とは関係のないものがたしかにあって、優都を支えている根柢の部分はそういったものに対してあまりに無力であることを、自分だけは忘れてしまってはいけないのだろうとも思っていた。

*

 優都を中心に回っていた翠ヶ崎の弓道部に、風間拓斗(たくと)という男が入ってきたのは、優都たちが二年になり、潮や京が高等部に上がってきた年だった。潮たちの同期として高等部から入学してきた彼が仮入部の初日に、潮や京よりも先に道場の入り口に姿を見せたとき、その場にいた優都と雅哉は同時に顔を見合わせて、千尋だけが「新入生?」と気の抜けた対応を返した。
「そうです。中学んとき、弓道やってました」
 彼は多少ぶっきらぼうな印象を与える口調でそう言って軽く頭を下げた。背は千尋と同じくらいだが、細身で手足が長く、よく見ればかなり整ってはいるが取り立てて派手ではない顔をした男だ。見たことがあるような気にもないような気にもさせるその顔を千尋がぼんやり見ている横で、優都が、「三鷹西中の風間だよね?」と彼に声をかけた。
「驚いたな、翠ヶ崎を受けてたのか」
「そうです。ええと——」
「ああ、僕は主将の森田と言います。一方的に知っていて申し訳ないな」
「いえ。すみません、ひとの顔と名前覚えんの苦手で」
「無理もないよ。学年だって違うし」
 「だれ?」とこっそり雅哉に問うた千尋に、雅哉は眼を丸くして「知らないのか?」と聞き返した。
「風間拓斗。有名人だよ。大して強くもない公立の中学から、個人で二年連続全中行った」
 そう言われてみれば大会会場で顔を見たり名前を聞いたりした覚えがあるような気もしてはきたものの、千尋自身あまり他人の顔や名前に興味がないのもあり、気のせいの域を超える自信はなかった。「なんでそんなのうちに来たの」と千尋が問えば、雅哉は肩を竦めて「俺も知りたい」と答えた。
「どうして翠ヶ崎に? 引く手数多だっただろ」
「もともと、弓道のためだけに進学する気はあんまりなくて、普通に受けて通ったとこに弓道部あったら入ろうかな、くらいの気分だったんで」
「……三年で全中まで行っておいて、高等部の一般入試に受かるのはすごいな」
 中高一貫の進学校において、中等部で入るよりも高等部で入るほうが難しいというのは定説であり、翠ヶ崎もその例には漏れない。優都の賞賛の言葉には、拓斗と同じく高等部から入学してきた雅哉が深く頷いた。拓斗はそれを肯定も否定もしないままに生返事をして、道場をぐるりと見まわした。
「もうすこししたら、内部進学で上がってきた同期も来るだろうし、よかったら一緒に練習しないか」
「いいですか、お願いします」
「こちらこそ、来てくれてうれしいよ」
 拓斗が優都に軽く頭を下げ、優都がいつものように首を傾げて微笑んだタイミングと、道場のドアが開いて潮と京が入ってきたのはほぼ同時だった。同期の二人のほうが拓斗のことはよく知っているようで、潮と京も優都や雅哉と同じような驚きを見せたあと、矢継ぎ早に質問を繰り返して優都に窘められていた。
 その後、数日の仮入部期間から練習に加わった拓斗は、受験のブランクをものともしないほどの強烈な腕前をもってして、いとも簡単そうに次々と的を矢で射貫いていた。弓を持つのすら数か月ぶりとは思えない的中率にはだれもが文句のつけようもなく、中学時代に二年連続で全国大会に選抜されていた実力は予想していたものよりもずっと圧倒的だった。
 高等部の弓道部には、最終的に、潮と京の他に、拓斗と、未経験者として入ってきた由岐という高等部からの新入生が加わった。「五人立も、三人立を二つも作れるようになったな」と喜んだ優都は、新体制が始動してからは昨年ほどの調子の良さは鳴りを潜めてしまっていた。再びしっかり後輩を指導しなければならない立場になった重圧や、自分より実績のいい後輩が入ってきたことへの焦りや、学年が上がることで負担を増してきた学業のことを理由に挙げることは簡単だったけれど、優都はそういうものを言い訳にすることをだれよりも自分に許さない性格だ。後輩たち、特に潮は相も変わらず優都のことを手放しで慕っていたし、優都はそれに値する先輩であろうと、自分の調子が良くても悪くても常に背筋を伸ばして毅然と後輩たちの前に立っていた。

 拓斗はかなり寡黙な男で、雑談や世間話、それから弓道の話にはある程度口を開くものの、あまり自分の考えていることを積極的に表に出すことはなかった。優都や雅哉の言うことにもそれなりに耳を傾けはするが、納得がいかなければ表立って反論はしないまま言うことを聞かないことが常で、だというのに、弓の腕は圧倒的であるがゆえに、それを真っ当に批判することも許さない。優都が努力の量で自分の足場を保っているタイプの秀才なら、拓斗の実力を支えているのは才能と呼ばれる類のものだ。朝が苦手だと公言した彼は、大会前以外に朝練に顔を出すことも少なかったし、練習自体は真面目にしていても、そこに優都ほどの執着を見せることもなかった。拓斗が優都の、部と弓道へ向ける莫大な量の努力と献身を、言葉にはしなくとも、どこか冷ややかな目線で見ていることは、優都も気付いていたし千尋たちも同じように感じ取っていた。
 入部して数か月、七月の都総体で、拓斗は優都どころか都内の大半の有力選手を押しのけて個人戦で三位に入り、夏の終わりにあった都個人ではあっさりと優勝を決めてしまった。もともと有名だった風間拓斗の名前は、翠ヶ崎高校の名前を引き連れてまたたく間に都内に広がった。それに対して、年度の初めから思うように弓が引けない状況に苦しめられていた優都は、夏合宿が終わる頃には本格的なスランプに陥ってしまっていた。翠ヶ崎高校とセットで語られる名前が、自分ではなく拓斗のものになっていくたびに、拓斗の輝かしい成績とはうらはらに優都の弓は精彩を欠いていった。
「二年連続で、翠ヶ崎の一年が優勝ってのもすごい話だろ」
 都個人が終わったあとそう口にした雅哉に、優都は返事をしなかった。予選からあまり調子がよくはなく、ぎりぎりの成績で決勝へ進んだ優都は、そこでも思うような行射をすることができず、これもまたぎりぎりで上位大会への出場権を得ることが精いっぱいだった。本来であればそれだけで十分立派な成績ではあっても、この大会の前年度の優勝者としては決して納得のいく順位ではないであろうことも事実だ。なにもかもが思い通りにいかない現状に珍しく苛立っている様子の優都に、その日優勝を勝ち取った拓斗が視線を送ることはなかった。彼にとってはこの順位は予想しうる当然の結果で、快挙でも奇跡でもない。それだけのものをこの男は最初から手の内に持っていた。
「調子悪いときくらいだれだってありますって。優都先輩なら絶対大丈夫っすよ」
「……うん、ありがとう。情けないところ見せてばかりいられないな」
 潮のかけた言葉にそのときは微笑んで返した優都は、潮が彼から眼を逸らしたときにはまた表情を消して、どこかをぼんやりと眺めていた。
「優都先輩ほど、ずっと努力し続けられるひと俺見たことないし、結果だけじゃなくってほんとに尊敬してるんで。優都先輩のやってることは絶対間違ってないって思ってるし、情けないとか言わないでください」
「うーやん相変わらず優都先輩のことになると熱入るよな。優都先輩、身の危険感じたらまじで言ってくださいね」
「おい、ひとのこと変質者みたいに言うのやめて」
 優都の横で力説した潮に京が茶々を入れるのは中等部時代からの恒例で、その姿を見て優都はようやく気が抜けたようにすこし笑って、もう一度「ありがとう」と言った。
「僕は大丈夫だよ。新人戦までに調子戻せるように頑張るから」
「俺も、次こそ入賞するんで見ててください」
「そうだな、期待してる」
 その掛け合いを一歩後ろから拓斗がなにも言わず見ていることに、優都は気付いているようでいて決してそちらには視線を送らなかった。拓斗はしばらく優都たちを眺めていたけれど、そのうち、雅哉と由岐の会話のほうに呼ばれそちらに入っていった。
「やっぱり、風間ってすごいんだな」と由岐が拓斗に声をかけたのが聞こえる。
 高校から弓道を始めたばかりの由岐の純粋な賞賛に、拓斗は「年季の差だろ」とだけ返して、その結果を謙遜も誇示もしなかった。
 後輩たちには見えないところで小さく息をついた優都の頭を千尋が軽く小突くと、優都は「なんだよ」と不服そうな顔をしつつも、千尋とも眼を合わせようとはせず、すこし俯くようにして歩道と車道の間に引かれた白線の上に視線を落としていた。

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