見出し画像

35歳、畑違いのシンクタンク出向で得たもの

青天の霹靂

「君には、3月から日本経済研究センターに出向してもらうことになったから、よろしく」

1999年の仕事始め。当時所属していた編集局経済解説部のS部長に言い渡された。希望していた異動先ではない。むしろ、当時の仕事が面白くなってきた時だった。

1986年に新聞記者として入社しながら、ニュース取材記者の仕事に馴染めず(涙)。入社7年目(1993年)に希望が叶ってグループの出版社に出向し、月刊誌(日経マネーなど)の記者兼編集者の仕事を4年間経験した。企画、取材、デザイナーさんとの誌面レイアウト相談と、一から十まで自分で取り組むのが面白かった。

出版社への出向でお世話になったF先輩から「そろそろ帰って来い」と言われて1997年3月経済解説部へ異動。日本経済新聞の経済教室面の編集や、週末紙面(いまは無き月曜版、日曜版)の企画、取材、編集など、出版社での出向経験が生かせる仕事で充実していた。

研修生になるかと思ったら

日本経済研究センターが何をやっているかも十分認識してなかった。「私は何をするんですか?」と聞くと、S部長は「経済学の勉強が出来るらしいぞ」と言う。

私は社会学部卒。ゼミは政治学だった。当時、経済学の勉強はほとんどしたことがなかった。

当時、すでに35歳。「こんな年になった社員に勉強させてくれるなんていい会社だ」と喜んだものの、そんな甘い話じゃなかった(笑)

私の仕事は「総括」というスタッフで、研修生ではなかった。内閣府や日本銀行から出向してきた経済予測チームのチーフエコノミスト(主査)をサポートしつつ、企業から派遣された予測チームメンバー(研修生、日本経済新聞から派遣されている者もいた)のお世話をするというものだった。

異動した3月は研修生はほぼ1年間(人によっては2年間)学んできていて、経済学も、予測業務に必須の計量経済学も、私よりはるかに理解している。予測内容について議論する会議に出席しても、何の話をしているかわからない。会議資料に掲載されている数式(回帰式)もまるで暗号のよう。「なんでこんなところに来てしまったんだろう」と、初めは暗澹とした気分で日々を送っていた。

素晴らしい主査との出会い

そんな私を救ってくれたのは、主査の方々だった。

特に、2000年〜02年にかけてお仕えしたS主査の「EViews 千本ノック」は忘れられない。

当時、新しい計量経済分析ソフト(EViews)を研修に導入することになったが、日本語のマニュアルがなかった。そのマニュアル作成を私はS主査から命じられた。

S主査から与えられたデータ分析の課題に取り組み、ダメ出しをされ、その過程をメモにする。この繰り返しで、マニュアルが出来ていくとともに、それまでちんぷんかんぷんだった計量分析が少しずつ理解できるようになり、面白くなってきた。きちんと勉強しようと、2002〜2004年には千葉大学の社会人向け大学院に働きながら通った。

大学に転じる最初のキッカケを作ってくださったのはM主査(2002〜04年にお仕えした)。

専修大学の社会人向け大学院での「経済予測論」の講義。M主査に依頼が来ていた話だったが、「私は内閣府に戻るので、飯塚さん、やってみませんか」と声をかけてくださった。ちょうど千葉大学大学院が修了するタイミングで、2004〜08年度、務めさせていただいた。

その後、複数の大学で非常勤講師を務めたが、その第一号がM主査からのお声がけだった。また、専修大での講義は、明治大学の加藤久和教授との共著、『EViewsによる経済予測とシミュレーション入門』のキッカケにもなった(背表紙に自分の名前が入った最初の本でした)。M主査にはマクロ計量モデルについても教えていただくなど大変お世話になった。十分な恩返しもできないままに他界されてしまったのが残念でならない。

このほか、日本銀行から出向されたI主査(2004~06年)には経済統計について多く学ばせていただいた。お世話になった主査は数多く紹介しきれないのが残念(迷惑をかけられた主査も若干名いましたが(笑))。

研究者とのネットワーク

当時、日本経済研究センターは経済学の研究者の梁山泊的な役割をしていた。その一つが、当時、一橋大学で教えていた浅子和美先生が主宰する景気循環研究会。研究会の会議室をセンターが提供していた。

短期経済予測班総括として、私は研究会の冒頭で景気の現状を説明する役割で参加を始めたのだが、研究会に参加することで、第一線の研究者の方々の研究に触れ、知己を得ることができた。短期予測班総括を外れた後は研究会の運営のお手伝いもさせていただいた。

この研究会は、東京大学出版会から景気循環に関する論文集3部作(『景気循環と景気予測』、『日本経済の構造変化と景気循環』、『世界同時不況と景気循環分析』)を発刊しているが、このすべてに論文を書かせて頂けた(3冊目は編者も)。大学に転じる際の業績評価でプラスにつながったようだ。ただただ、感謝。

最初の『景気循環と景気予測』の論文は浅子先生との共著。浅子先生が昔書かれた論文のアップデート的な内容で、当初、「データ整備の手伝いをして欲しい」と言われ、喜んでお手伝い。データ整備が終わったら、次は「文章も書いてみないか」とおっしゃってくださり。色々とご指導いただきながら完成したら、「共著論文にしましょう」。私にとっては本格的な学術論文の第1号になりました。

また、この研究会で知り合った先生方から「非常勤講師、ウチでもやらない?」と声をかけられ、2011年に大学に転職するまで通算5つの大学で非常勤講師を経験できた。様々なタイプの学部生(一部大学院生)の講義を経験できたことは、いまにつながっている。

そして、大学へ

このように様々な経験をさせてくれた日本経済研究センターだったが、出向の身なので、いつまでもいられるわけではなく(実際、2010年4月にグループのデータベース部門に異動。形式的には日本経済研究センター兼務で、業務もマクロモデルで経済見通しを作成するものでしたが)。

徐々に大学教員に転じてみたいと考え、活動を始めたのが、2009年、45歳の時。この時も先述の加藤久和先生をはじめ、研究者の皆さんに多くのアドバイスをいただけた。書類を出しても出しても、面接にまでたどり着かない日々が2年ほど続いたころ。加藤先生に泣き言を言ったら、「私は3年かかりましたよ。あきらめちゃだめです」と発破をかけてくださった。その少し後に、現在の勤務先の採用面接に呼んでいただき、2011年4月から大学教員の生活が始まっている。

「あの選択をさせられた」からですが(笑)

お題の「あの選択をしたから」というよりも、社命で「あの選択をさせられたから」(笑)、私の人生は大きく変わったと思う。いまの世の中であれば、希望していない部署への異動を言われたら転職エージェントに相談するのだろうが、1999年の当時はそんな雰囲気ではなかったような~。

大学に転じたのが日本経済新聞社に入社して丸25年のとき。このうち、11年間を日本経済研究センターで勤務しました。新聞記者で入社したのにニュース取材経験はわずか4年(笑)。あとは整理記者3年、雑誌4年、経済解説部2年。

先日、60歳になり、「あれからもう25年弱経ったんだな」と思い、書かせていただいた。こんな人生もあるよ、と、今後も学生たちには伝えていきたいと思っている。

#あの選択をしたから

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?