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恋に恋する

 がっしりとした男らしい肩が私の肩に触れた。私の右隣りで、ユウ君がぴくりと身じろぎをするのがわかる。私はくすりと笑って、自分の右半身をよりユウ君に密着させる。途端に彼の動きはぎこちなくなった。
「まだ緊張するの?」
 私は緩む顔を抑えられないまま話しかける。耳を少し赤くした彼は、照れ笑いを混ぜながら答える。日曜の駅ビルは人が多く、彼の声は雑踏にかき消されそうになった。
「緊張っていうか、やっぱ慣れなくて……」
その声に拒否感や嫌悪感はない。むしろ楽しそうにさえ聞こえる、ということを確認する。にわかに自分の手のひらを、ユウ君の大きな手のひらに滑り込ませる。ごつごつとしたそれを柔らかく握る。
「モモコちゃん」
「さあて、今日はいっぱい私の買い物につきあってもらうからね」
 そういって彼の手をひき私はいきなり歩き出す。つんのめった彼が、足踏みをしてから歩き出す音が後ろから聞こえ、それから二人の足並みが段々とそろう。数歩歩いたところで、私の右手が不器用に握り返された。手のひら越しに二人の体温が混ざり合ってゆく。
ふと、ユウ君は体温が高いんだな、なんて思う。隣を歩く彼の顔を見上げると、耳だけでなく顔まで真っ赤に染まっていた。まるで、おっきいりんご飴のようで、そりゃ体温も高くなるなとか、
「ふ、ふふ」
 思わず吹き出してしまう。ユウ君がこちらを向く。
「なんだよ、人の顔みて笑うな」
「だってさ、ふふふ……」
 彼に触れている箇所から、こちらの体温まで上がってしまうようだった
 ああ、たのしい。幸せだ。ユウ君は私にとってやっぱり最高の相手だ。私が求めることを提供してくれる。
二人で手を繋いで歩くこの時間が一番好きだ。



「なあ、モモコお前ついに彼氏できた?」
 居酒屋で注文を終えるなり開口一番に、ハナちゃんはそういった。私は、ぱちくりと瞬きをする。
「え? できてないけど。なんで?」
「こないだの日曜、男と駅前を歩いてたの見たぞ」
ハナちゃんは大学に入ってからの友人で、定期的にふたりで集まってはこうして互いの近況を肴にお酒を飲みあう仲だ。
「手なんか繋いじゃって歩いてたけど、あれはどなた?」
彼女はにやつきながら眼鏡をクイとあげる。ハナちゃんのしぐさが急におっさんらしくなる。私は絶対しないような、そんなしぐさを見るとなぜかいつもほっとする。ハナちゃんは私とは全くタイプの違う人間で、それゆえに私は彼女が好きだ。
「あー、確かに日曜日はユウ君と一緒に駅にいたよ。ハナちゃんもいたんだ」
「ほほう、ユウ君さんというのか」
 お通しとともにビールジョッキが二つ運ばれてくる。それぞれのジョッキを手に取って乾杯する。
「うん、でもユウ君は彼氏じゃないよ」
そう私が言うと、ハナちゃんは目を丸くしてジョッキから口を離し、え、とも、へ、ともとれる声を出した。ビールの泡のひげがついたままの顔は少しおもしろい。
「あー……モモコってセフレとか作るタイプだったっけ?」
「いやいや、私、セフレとか作ったことないよ」
「だよなあ」
釈然としない表情でハナちゃんはまたジョッキに口をつけた。キンキンに冷えたビールは程よく喉が潤う。
「じゃあそのユウ君ってのは何者?」
そう問われて私は逡巡する。私とユウ君との関係を一言で表すのは難しい。お通しの枝豆のさやを両手でいじくりまわす。
「いうなればセックスしないセフレみたいなもの?」
「はあ?」
ぷりん、とさやから枝豆が飛び出した。真正面には怪訝な顔のハナちゃん。
「モモコなんて言った?」
「セックスしないセフレ」
繰り返し聞かれると少し恥ずかしい。なるべく周りのお客さんに聞こえない程度の音量で、矛盾だらけのその言葉を繰り返した。
「ごめん、全然理解できないんだけど、つまり、何者なんだよその彼は」
 まっとうな疑問をハナちゃんはぶつけてくる。私はどこから説明するか迷った末に口を開いた。
「簡単にいうと、手を繋いだり、ハグをしたりする仲なんだけど、それ以上でもそれ以下でもなくて」
 ユウ君とは半年ほど前に知り合った。話もよく合うし、一緒に二人で出かけるようになるのにはそんなに時間はかからなかった。
しばらく恋人という存在とご無沙汰だった私は、人肌のぬくもりが恋しかった。そこで、恋人がいないユウ君にふたりきりで会う時に、スキンシップをするだけの関係にならないか、という提案を私からした。つい二週間ほど前のことだ。ユウ君は最初こそ戸惑っていたものの、最終的には快く受け入れてくれた。なにか間違いや勘違いが起こってはいけないから、それ以上は絶対にお互い手を出さないという旨の簡単な契約書もしっかりと書いた。もちろんお互いに恋心は抱いていない。そうして、私たち二人は『セックスしないセフレ』になったのだ。
「お前はあたまがおかしいとは常々思っていたが……」
 私の説明を聞き終わったハナちゃんはだし巻き卵をつつきながら言った。
「まあ、どういう関係かってのは何となくわかったけどさあ、なんでそうなったわけ」
あきれなのか疑問なのか眉を八の字にゆがめて、そう続ける。
「人肌恋しいって気持ちはわかるし、そんなら普通に恋人になればいいじゃん。百歩譲ってセフレだろ」
そっちのほうがまだ理解できる、とハナちゃんが言葉尻を二杯目のビールで濡らす。私は口の中のおつまみをカシオレで流し込む。
「いやまあ、言いたいことはめちゃくちゃにわかるし、自分でも変だなとは思うけど。これが一番ベストな形なんだよ」
「そのこころは?」
 ハナちゃんは残っていただし巻き卵を全てほおばって、話を聞く体制に入った。こちらの話を遮らないように気を使ってくれているらしい。
「私にだって人並に恋したい気持ちはちゃんとあるよ」
事実、過去には何人かお付き合いをした人たちもいる。ちゃんとその時は幸せに感じられたし、人肌恋しさにこんなことをすることもなかった。
「でも、私さ、あんまり好きじゃなくて」
「なにが?」
「セックス……」
 今日のお店が大衆居酒屋で助かったと思った。お酒が入っているとはいえ、外で何回もこの単語を発するのは恥ずかしい。私のつぶやきを居酒屋のざわめきが騒音に溶かしてくれた。
「前から時々思ってたんだけど、どうして付き合ったら体の関係を持たなきゃいけないのかな」
 過去に付き合った人たちとも、最初はうまくいってもそのうちうまくいかなくなった。その原因の大半は男女の営みについてのすれ違いだった。なぜ、人と付き合うということが、内臓の一部を使用することへの許可と同義になってしまうのだろうか。
「まあ、それがあたりまえだと思うやつが多いのは多いしな」
ハナちゃんは茶化すこともなく、淡々と相槌を打ってくれる。私は彼女の言葉にうなずき、乾いた口をお冷で潤す。
私は、お話をして、手を繋いで、ハグをしてくれればそれで充分なのに。
「そうはいっても、私だって寂しくなるし、人に触れたくなるし、恋人を作りたくもなるよ?」
ビールジョッキを静かに置いて、ハナちゃんもまた静かにうなずく。
「だけど、肉体関係を持ちたい人と付き合って、そういう関係にならないのもそれはそれで申し訳ないし」
「そんなことねえと思うけど、まあ、うん」
ハナちゃんは相槌でも気を使ってくれて、それが嬉しい。けれど、そうして気を使われることがさらに世間からずれていることをまじまじと感じてしまう。
「それなら最初から軽いスキンシップだけの約束でいた方がいいかなって」
 それがユウ君との関係を作ることになった理由だ。ユウ君との現状にはとても満足している。その先に性行為がないと確約されているスキンシップは、余計なことを考えなくてもいい。私にとって最良な関係だ。
全て聞き終えたハナちゃんが、気になるんだけど、と話を切り出す。
「モモコはユウ君のことは好きなの?」
「ううん、別に」
私は迷うことなく答えた。ユウ君と関係を始める前にちゃんとお互い確認はしている。ユウ君も私も相手に恋愛感情は抱いていない。
「なるほど……じゃあ、ほんとに恋人ごっこしてくれる人が欲しいだけなんだな」
「うーん、言い方は悪いけど、まあそうだね」
ふうん、とあごをなでつつハナちゃんは納得したらしかった。一通り話して疲れた私は、ホッケをつまんだ。ほどよい塩味に舌鼓を打つ。
「お前は恋と愛の違いってんなんだと思う?」
ホッケを堪能していると、思ってもみない言葉が正面から投げかけられた。驚いた顔を見せると、向かい側ではハナちゃんがにやりと笑っている。
「なんで急に?」
これは持論なんだが、と言いながらハナちゃんは私の前に同じ大きさの小皿を二枚置いた。片方には大根おろしが盛られていて、片方は空っぽだった。
「恋ってのは、誰かに心の穴を満たしてほしいって思うことなんじゃないかって、考えたことがある」
そういってハナちゃんは何も乗っていない方の小皿を箸で指す。そして、そのまま箸を大根おろしが盛られた皿の方に持っていく。
「そして、愛ってのは、誰かを満たしてあげたいって欲求だと私は思うわけだよ」
得意げに語るハナちゃんの手によって、小皿の大根おろしは空っぽの小皿へとみるみるうちに移されていく。
 愛と恋の定義がどんなものかはわからないが、ハナちゃんの唱える説には納得ができた。
「なるほどね。でもそれがどうしたの?」
「思うに、お前は愛されたいけど、愛したくないんじゃない?」
 眼鏡越しにハナちゃんの瞳が私の瞳をまっすぐにとらえた。その力強いまなざしにドキリとする。そんな私の様子を知ってか知らぬか、正面の彼女は意気揚々と話を続ける。
「言い方を変えると、好意を一方的に搾取したいわけだ」
「ちょっとひどくない?」
「まあまあ、最後まで聞けって」
私の抗議を軽くいなし、さあ話のクライマックスだと言わんばかりにハナちゃんはスッと息を吸った。
「つまりだな、モモコは恋が好きなんだ」
 『私は恋が好き』。その言葉が意味するところはつまり、『私は誰かに満たしてほしくてしょうがない』。
「それで、恋するためにユウ君を利用してる」
「結局、私がクズみたいじゃん~」
 最後まで聞いてみたものの結局けなされている気がする。私が不満を漏らすと、ハナちゃんは豪快にガハハと笑った。
「それは否定せん」
ハナちゃんは大口を開けて笑う。仕返しをしてやりたくなった私は、ハナちゃんが取り分けてした分のホッケを奪って自分の口に放り込んでやった。
「ああっ」
私の素早い箸さばきに、ハナちゃんは情けない声を漏らすしかできない。ざまあみろだ。勝ち誇った顔でハナちゃんの方を見ると、しょぼくれた子犬のような目とばっちり視線が合う。そして、どちらからともなく私たちは笑い始めた。
 一通り笑って、目の端にあふれた涙をぬぐいつつ、ハナちゃんが口を開く。
「これもまた私の持論のうちの一つなんだけど」
そうしてハナちゃんは、最初は空っぽだった小皿を自分の方に引き寄せる。その小皿には今は大根おろしが小さな山を成していた。
「愛せる人ってのは、たぶん、誰かに愛してもらったことのあるやつなんだよ」
小皿の大根おろしをハナちゃんは一口でたいらげた。
「ま、それはさておき、話としてはおもろいから、またなんかあったら報告してよ」
そうして、またガハハと笑った。



 ハナちゃんとの飲み会から数日後。私はユウ君と二人で出かけていた。今日は、二人で映画を観に行く予定をたてている。例のように私たちは手を繋ぎ、並んで歩く。自分ではない誰かの体温に触れると、心臓が優しく跳ね上がる。
「モモコちゃん、時間あるしカフェにでも寄っていこう」
 隣のユウ君が、優しい声で私に言う。彼が指さしたさきには、おしゃれなカフェがあった。私はユウ君の顔をみあげ、うん、とうなずいた。
 カフェに入り、注文を済ませると、ユウ君がなぜかえらく真剣な顔をしていることに気が付いた。テーブルの上に出した両手を固く組んで、それを見つめている。
「ユウ君? どうしたの」
いつにもなく真剣なまなざしに私は心配になってしまった。なにか、悩み事でもあるのだろうか。テーブルの上、組まれた彼の両手の上にそっと自分の手を重ねる。手は少し汗ばんでいた。
「具合でも悪い?」
「ううん、大丈夫」
ユウ君は笑ってそう答えると、そっと私の手をどけた。あくまでも優しい手つきでどけられたそれは、明確な拒否を示していた。
「実は、話があって」
 私の心臓がどくりと跳ねる。そんなことは聞いていない。
「話?」
「うん。黙ってようかとも思ったんだけど、やっぱりモモコちゃんには誠実でいたくて」
 少し赤らんだ頬、うるんだ瞳。そして、決意を秘めたまなざしが、まっすぐ正面から向けられる。
 やめて、言わないで。
 そう、思わず口に出てしまうところだった。
「モモコちゃん、俺とちゃんと恋人になってほしい」
予想していた言葉が空気を震わせた。
「どうして? このままじゃだめなの?」
「モモコちゃんには悪いけど、やっぱりこの関係はよくない気がする。ちゃんと、名前のある関係になろうよ。俺は、それでも構わないし、むしろそうなりたい」
 それに、と言いかけて、ユウ君は一度言葉を切った。一秒にも満たない空白の後、意を決したように先を続ける。
「俺は、やっぱりその先にも進みたいと思ってる」
 沈黙が訪れる。カフェの店内BGMがやけに耳に響く。ユウ君は私の正面で、やはりさっきと変わらずまっすぐに私を見つめてくる。
「そっか」
 私は一言だけつぶやいた。
「少しだけ返事待ってもらってもいい?」
そう付け加えると、ユウ君の顔からみるみるうちに緊張が消え去り、笑顔が戻ってくる。それを確認して私は席を立った。
「ごめんちょっと、お手洗いに行ってくるね」
自分の手荷物をひっつかんで、トイレへと急ぐ。幸いなことに、女子トイレの個室は開いていた。素早く個室に入り込むと後ろ手で鍵をかける。そしてそのまま、便器の中に嘔吐した。
胃がぐるりとひっくり返る。喉の奥から酸味がこみ上げ、えずく。びちゃびちゃと汚い音を立てて、ついさきほどまで私の体内にあったそれは、便器の中に落ちていく。喉がひりひりと痛い。涙が目じりにたまっていくのがわかる。
『俺はやっぱりその先にも進みたい』
頭の中では、繰り返し繰り返し、ユウ君の台詞がめぐっていた。
胃の内容物を出し終えた私は、力なく座り込んだ。トイレットペーパーで口元をぬぐう。自分のカバンの中をまさぐり、携帯を取り出した。ハナちゃんの連絡先を探し、トークルームを開く。「話したいことできたから近々飲もー!」と、絵文字付きでハナちゃんにメッセージを送った。
 それから私はもう一度吐き始めた。