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LanLanRu歌紀行|ラ・マルセイエーズ

舞台:1792年 /  フランス

パリ2024オリンピックが近づいてきたので、フランスの国歌を聴く機会が増えてきた。高揚感のある曲なので、気分がいい時など、つい鼻歌で歌ってしまったりする。しかしこの「ラ・マルセイエーズ」、よくよく歌詞を見てみると、「喉を切る」や、「血染めの旗」などと、ずいぶん血なまぐさい曲だった。それもそのはず。元はフランス革命の時に生まれた革命歌である。

ラ・マルセイエーズー歌の誕生

ブルボン朝の絶対王政を打倒したフランス革命だったが、これは周囲の君主国にとっても脅威であった。革命の波及を恐れて様々な妨害を行うヨーロッパの諸外国に対して、フランス革命政府は1792年、オーストリアへの宣戦布告を皮切りにフランス革命戦争へと突入する。
「ラ・マルセイエーズ」の作者、クロード=ジョゼフ・ルージェ・ド・リールは、フランス革命時に活躍をした軍人であった。1792年4月、フランスがオーストリアに宣戦布告をした時のこと、ストラスブールのライン方面軍に配属されていたリールのもとに、ストラスブール市長が訪れて、方面軍の士気向上のために行進歌を作るよう依頼した。リールはわずか一日で曲を書き上げ、「ライン軍のための軍歌」と題して、市長と聴衆の前で披露した。

当初はほとんど反響はなかったようだが、後にマルセイユの義勇軍がこの曲を隊歌として採用し、パリ入城の際に歌っていたことから評判となった。そのため、「ラ・マルセイエーズ」(La Marseillaise) の名前でパリ市民の間に広がっていくことになる。

ラ・マルセイエーズーフランス国歌になる

その後、革命歌なのでブルボン朝の王政復古期には歌うことを禁止されたりするが、「ラ・マルセイエーズ」は1830年の七月革命で再び脚光を浴びるようになり、第三共和政のもと、1879年にフランス国歌に制定された。
しかし、誕生当初から様々なバリエーションで演奏されてきた「ラ・マルセイエーズ」。この時にはまだ決まった形がなく、異なる楽団が集まって演奏すると大混乱に陥ることもあったようだ。やっと基準となる公式バージョンが選定されるのは1887年のことである。

さいごに

フランス革命の精神を高揚させた「ラ・マルセイエーズ」だったが、ジャコバン派の独裁の時代には、作者のクロード=ジョゼフ・ルージェ・ド・リール自身、反革命のかどで投獄されて、もう少しで処刑されるところだったようだ。すんでのところでジャコバン派が失脚したので刑を免れたという。釈放後にもいくつかの楽曲を作曲したが、前作を超える作品を作ることはついぞなかった。1836年に息を引き取り、今はその遺骨は廃兵院に埋葬されている。

ラ・マルセイエーズ

立ち上がれ、祖国の子供よ、
栄光の日が来た。
私たちに対して、専制政治の
血染めの旗が掲げられる、
血染めの旗が掲げられる。
聴け、野原で、
これらの獰猛な兵士たちが叫ぶのを。
彼らが私たちの腕の中にまでやってくる
あなたたちの息子たちと配偶者たちの
喉を切るために。

部隊へ、市民たちよ!
あなたたちの大部隊を形作れ!
行進しよう!行進しよう!
不潔な血が私たちの溝を潤さんことを。

祖国の神聖な愛、
あなたが私たちの復讐する腕を導き、
支えんことを。
自由、親愛なる自由、
あなたの防御者たちとともに戦え、
あなたの防御者たちとともに戦え。

私たちの旗の下で、勝利が
あなたの男らしいアクセントに続かんことを
あなたの死にかかっている敵が
あなたの勝利と私たちの栄光を見んことを!



〈参考文献〉
・ 山崎 公士著『世界の国歌』(株式会社ワニマガジン社, 2006)
・在日フランス大使館HP フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」
 https://jp.ambafrance.org/article4044


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