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DRIPとSTIR

現在は、主にSNSをベースとした「評価経済」と呼ばれるものが広く浸透してきているのを感じる。

SNSで多くのフォロワーを有するインフルエンサーは、洋服や化粧品などを投稿内で宣伝したり、プロフィール欄に広告主の情報を載せたりすることで広告費を貰い、生計を立てることもできる時代。

また、Amazonのほしい物リストを作ってひとたび公開すれば、フォロワーから勝手にリスト内の品物が送られてきたりもする。

それほど、現代を生き抜く手段として、ブログやYouTube、SNSなどを活用することが大きな武器となり得ることは、今や明白だ。



物々交換によってMacBookが入手できたのも、それまでにSNS上での拡散力をある程度高めてこれていたことが要因として大きいかもしれない。


シェアハウスを軸とした仮想の村づくりを構想しだした辺りから、「SNSを上手に使っていこう」という気概が自分の中には芽生えていた。

「村」の存在を広く認知してもらうことを目的に、人から注目されそうなイベントを企画したり、目に留めてもらいやすい投稿を意識して繰り返すことで、村人のような人々(今でいう関係人口?)を増やしていき、生き易さを拡充させていくことが狙いだった。

人から気に入られるように振舞ったり、大きなメディアや組織、著名な人に媚を売ったりすれば、もっと早く認知を拡大できて近道だったのかもしれないけれど、それをすることには気分が乗らず、遠回りで時間がかかると分かりながらも、「自分はこう思うんだけど」「こういうのって良くない?」と、自分中心の、我儘な発信だけを淡々と繰り返していた。



何か実現したいことが出てきた時、僕は「DRIP」「STIR」というものを意識するようにしている。

DRIP(ドリップ)とは、自分の中にある本音・弱み・怒り・染み付いた癖のある考えなどを、言葉や文字として純度高く抽出する行為を指し、STIR(ステア)とは、その抽出されたものをできるだけ遠くへ、不特定多数に触れるようにかき混ぜて拡散させる行為を意味している。


例えるなら、先述したクリエイティビティはDRIPを可能にする「お湯」のような存在であり、SNSを活用して拡げてきたコミュニティはSTIRを可能にする「スプーン」のような存在と言えるのかもしれない。


DRIPがうまくできていると、そこには求心力が宿り、共感が得られやすくなり、何かをやる際に必要となる資金や協力者などを集めやすくなる。

しかし、いくら上手にDRIPができていても、それを人目に触れるところに置くことができなければ意味はなく、自己満足で終わってしまう。

勇気のいることだけど、せっかくDRIPまでできたのなら、それをSNSに挙げるだけでもいいからSTIRまでしっかりやり遂げた方が絶対にいい。人からの評価が欲しいわけじゃなくても、やった方がいい。

もしかすると、それが誰かにとっての救いになるかもしれないし、共感し合える仲間との出会いに繋がるかもしれない。
何かのきっかけで稼ぎに繋がって、嫌いな仕事をする時間を減らすことに向かうかもしれないのだから。



僕はこれまでクラウドファンディングを何回かやったことがある。
プロジェクトが生まれる時、そして掲載文を書く時は、毎回この「DRIPとSTIR」を強く意識する。

ありがたいことに毎度目標額を集めることができていて、同時に、知り合いでもない人達からも支援を貰い、自分の声がそこまで届き、考えそのものが肯定され、評価されているという実感を得て、毎回心が満たされるような気分に浸っている。

これらの実体験から、DRIPとSTIRという考えはクラウドファンディングを行う際にも有用であるように感じている。



現在日本で活躍している起業家の中でも、同じようなことを口にしている人は多いようだ。

メゾン青木の青木純氏は
「みんなのために作られたものは、実は誰のためのものでもない」と語り、

CAMPFIREの家入一真氏は
「(何かを作る際には)対象となる誰かひとりを思い浮かべて、手紙を書くように」と語る。

この2つは、普段僕自身もよく思い出す言葉だ。

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