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答えのない余地/色んな角度

「他人に興味がある」などと簡単に言う人のことに対し、身構えてしまう自分がいる。「人は元来自分以外に興味がない」といういかにも偏屈そうな考えが根強くあるからだ。そのため、

自分への興味が根底にある

自分と関わる人に興味を抱く(どんな人なのだろう)

という流れに限っては唯一信憑性があり、大いに共感できる。つまり、ものは言いよう考えようであり、「他人に興味がある」という言葉の裏に、こういう信頼できる背景のようなものが付随していることがわかれば一気に警戒は解ける、なんたる単純なものである。

まあしかし「自分に興味があるから、他人に興味があるんだ」などと馬鹿正直に打ち明ける人間には出会ったことはないし、いたらいたで態々言わんでもと言う気持ちが湧いてくるのは言うまでもない。

本心がいくら別のところにあったとしても、発言した言葉に着眼点あてると余地は少なく、言葉そのものとして捉えられがちになる。誤解と思い直しを幾度か重ねて、ようやく真実に向かっていける。

他者との関わりでは、自分のみでは考えつかない思考思想感覚に触れる事ができる。この他者にしかふかすことのできない新鮮な風は、自分一人では間違いなく捻出できない。

一人の人のことを断言することは難しい、且つ、安直。更に言えば、その人の可能性を潰す行為にもなりかねない。
こちらの受け取り方、見方次第で如何様にも感じられるし、年月がその人の姿形をまるっと変えたり、土壇場で普段底に沈んでる性質が浮かんだりもする。

それはなにも人だけでなく結構すべてのことやものにも言える気もする。結局こちらの感じ方次第な気もする。答えのない余地のようなものを考えるのが好きなのだろう。小説を読むのにも通じるところがある。

たとえばチーズナンの中心。くしゃっ、てりてり、くしゃっ。最も旨味を感じられる先端が集結し、チーズナンとしての風格を醸す。実際には見た目以上にチーズがつまっていたりするもんだから、決して侮れない。

たとえば卵黄と捲れたわかめの密着。盛り付けでヘマを起こさない限り生まれない、神秘的な瞬間。卵黄はわかめとの接触をどう感じているだろう。一方のわかめは、一部だけでなくもっと大仰に包み込みたかったりするだろうか。

茹で手に心の乱れが生じていると、卵を熱湯にいれるときに中身が漏れいでたりする。自分でやってしまったことは悔いるよりも愛でたほうが心身には良い。事実、見ているうちにだんだんと愛着なるものが湧くのである。

ぷりっと生まれたてのゆで卵の欠片。捨てられる訳が無い。写真におさめたところで少しだけ気持ちが和やかになり、塩をつけて我が食道を通っていった。

野菜が油を吸う様、嫌いじゃない。もともとは土やらにまみれていた野菜たちの体を洗って皮を剥き、食べやすいように切る。野菜を調理するときに少し背筋伸びるのは、もともとの野菜の置かれていた環境、つまり大地を感じるからだと思う。

餡がパンパンに詰まった餃子。焼かれる前の餃子は産(うば)っぽくて愛らしい。自分で詰めた餃子なんかはより顕著に愛らしく感じる。餃子で発揮される母性もあるのだ。

からしの出し方一つでも、個性が滲む。少し神経の細い夫はからしも細め。完璧主義気取りな妻は綺麗な円を描こうとする努力が見て取れる。トンカツのムラは油を極限までカットしようとした代償、大目に見てほしい。


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