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底のない書く行為/真剣に遊ぶ

今年に入り、明らかにnoteの更新頻度が下がった。頻度についてはまあ然程気にはしておらず、書けるときに書ける分を書いたらいいというスタンスでいる。

書く行為自体、かなり終わりのない行為であると考えていて、満たされるとか逆に満たされないとか、そういう次元の話ではなく、今の現状を形にする手段の一つとして捉えている。

書いたからと言ってスッキリしたことはないし、公開してしまったあとにあれやこれや何度も編集をしたりして、インターネットにあげている文章に対してのみ有効な優柔不断さをここぞとばかりに発揮しているのである。

これが万一出版などとなったときには、一度印字された文章を書き直すことは不可能、書き直したいなどと思ってしまったならば一生その後悔を背負って行かねばならない。冗談じゃない、背筋が凍る。

編集行為が通用しない世界はとても悍ましく、改めて文章をかく行為における責任を感じずにはいられない。

先週のスパイスカレー。
ホールスパイスをテンパリング中。

なぜ書くのか。とりあえず残しておきたいか、気持ちを整理したいか。なぜ書くのだろうか。

結論、書いてみて初めて認識できる感情と発見があるからだと思う。ぼんやり思っているだけでは不明瞭で抽象的な事柄でも、文章にすることで具体性を帯びて次の思考につながることがある。だから私はたまに書いて、明日とか明後日とかあるいは数年後、もしかしたら過去をも繋ごうとしているのかもしれない。

サバ缶を使ったスパイスカレーができた。
結構本格的だが、夫の作るスパイスカレーに叶わないのが
どうにも悔しい。夫のカレーが食べたくなった。

しかし、アウトプットだけ続けるのは限界がある。読む見る聴くなどのインプットありきで、アウトプットは成り立つ。言い換えれば、インプットできる環境が存在し続ける限り、アウトプットも永遠にすることができるとも思う。

これはある日のキーマカレー。
盛り付けのバランスは良いとは言えない

アウトプットインプットのバランスが優れていると、生きるうえでの衛生度が高まる気がする。ちょっとのことで心身を壊しがちなので、こういったバランス感は大事だと思う。

夫作、冷凍ご飯の精霊

あと、ユーモアはなんどきも救いになる。真面目にばっかりやってられない、ふざけるときはふざけたほうが良い。根が真面目なんであれば、真面目にふざけるだけで、また違うと思うのだ。普通に生きたら理屈屁理屈10割人間なので、真剣に遊ぶことでちょっと奇妙な生真面目さが緩和される。

あと、書く書く言ってるが実際にはスマホでパソコンで文字を打ってるんだよなあとか思いながら、本日もこのままずらかろうとおもいます。

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