イングリッシュプラムは小粒でもピピピと甘い

これから残りの人生は、お茶と陶芸と本の断捨離に半分、あとの半分は旅行と美食でうだうだし…

イングリッシュプラムは小粒でもピピピと甘い

これから残りの人生は、お茶と陶芸と本の断捨離に半分、あとの半分は旅行と美食でうだうだしたい。

最近の記事

断捨離って。(記憶と記録その1)

断捨離をしたいのに、思い出の品をなかなか捨てることができない人がいる。 たとえば写真。たとえば手紙。 写真、手紙、洋服、旅行みやげ・・・、そのほかなんでも、モノとして残り、捨てられないものは、記憶をつなぎ止めようとするかけらだと思う。 詩人、長田弘は、「記憶のつくり方」のあとがきにこう書いた。 「記憶は過去のものではない。すでに過ぎ去ったもののことでもなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。とどまるのが記憶であり、じぶんのうちに確かにとどまって、じぶんの現在の土壌にな

    • 南平台の記憶17・社宅の電話ボックスと呼出し電話のこと

      南平台の三菱化成アパートに住んでいる最中の昭和46(1971)年に、渋谷区立大和田小学校に入学した。 当時の住所録を思い出すに、クラスの半分以上の家庭には、すでに個人電話がついていたのではないかと思うが、社宅住まいの我が家の電話番号には(呼)というマークがついていた。 我が家、ではなくて、アパート全体の番号が、481−8303(呼)だった。 呼び出し電話と言うと、大家さんのうちに電話がついていて、近所の貸家に住んでいる人に電話があると、「〇〇さーん、電話ですよー」と呼ばれ、

      • 南平台の記憶・その16 道玄坂に住んでいた同級生

        これまでの人生で、断捨離をしてしまったあとに後悔をしたことはほとんどない。 が、例外的に、あれは惜しいことをしてしまったな、と思うもののひとつに、大和田小学校の住所録がある。 学校が毎年発行していたもので、わたしは三年生まで大和田に通っていたので、三冊の住所録を持っていた。A4より少し小さかったような気がするが、B5ほど小さくもなかったくらいの(そんなサイズあるかな??)薄い小冊子で、クラス別の全児童の住所、電話番号、それに父母の名前(か、保護者名一名だったか?)まで載っ

        • 南平台の記憶・その15 アパートへの移動販売いろいろ

          南平台アパートに昭和40年代にきていた移動販売のこと。 よく覚えているのは、八百屋さん、果物やさん。 八百屋さんは幌のついたトラックの愛想のいいおじさん、果物やさんは、三輪トラックの、ちょっと怖い感じのおじさんで、多分一週間に一度、別々の日の夕方の時間帯に来てくれていた。(あ、でも果物やさんの方は、ほんとうに果物専門だったのだろうか・・・果物だけを売りに来るっていうことが、今思うと意外な感じがするので・・・。でもそうだったと記憶している。) 三輪トラックが帰り際に向きを変え

        断捨離って。(記憶と記録その1)

          南平台の記憶・その14 はじめてのおつかい

          アルバムに、わたしの「はじめてのおつかい」の瞬間をとらえた二葉の写真が残っている。前後の写真から、昭和43(1968)年、わたしが三歳終盤の夏だろう。 南平台アパートには、昭和40年代、いろいろな移動販売の人たちが来てくれていた。 「はじめてのおつかい」に行ったのは、お豆腐屋さんだった。 この時のことは、よく覚えている。内弁慶のわたしは家では威張っていたが、外に出ると声も出せなくなる子供で、行くのが嫌で嫌で、ずいぶん抵抗した。 が、最後には諦めて出かけた。 金のボウルを

          南平台の記憶・その14 はじめてのおつかい

          南平台の記憶・その13 渋谷でこの間取りなら今でも住みたいかも

          その12で話したとおり、その南平台アパートには二棟の建物があって、古い方を仮に「第1棟」、新しい方を「第2棟」とすると、第1棟と第2棟の間取りはかなり違っていた。(ちなみに、この二棟が正式にはなんと呼ばれていたのか、全く覚えていない。「むこう」「こっち」とか、「奥」「手前」などと呼んでいたと思う。でも、○号室に当たる呼び方は、忘れもしないイロハ順だった。第1棟の向かって左側の一階が「いー1」、二階が「いー2」、三階が「いー3」。真ん中が「ろー1」「ろー2」「ろー3」。右側が「

          南平台の記憶・その13 渋谷でこの間取りなら今でも住みたいかも

          南平台の記憶・その12 戦後初の鉄筋コンクリートのアパート?

          「その10」で名前を紹介した三菱化成南平台アパートには、二棟の建物があった。 このアパートには、私が住んでいたころ、 「戦後はじめて建てられた鉄筋コンクリートのアパート」 という言い伝えがあって、住人の自慢話(?)になっていたようなのだが、これ、ほんとだったんだろうか・・・。 その真偽はともかく、社宅敷地の入り口から見て奥の方に位置する棟は、わたしが住んでいた手前の棟よりも古いことは確かだったので、もしその伝説が正しかったとしても、奥の棟のことだけをさしているに違いな

          南平台の記憶・その12 戦後初の鉄筋コンクリートのアパート?

          南平台の記憶・その11 団地がウヨウヨあったころ

          昭和40年代の南平台には二つの会社の社宅アパートがあったほか、国家公務員宿舎のアパートもあった。南平台の隣町、鉢山町にも、電電公社のアパートが何棟かあったし、通っていた鶯谷さくら幼稚園の向かいにも、大きなアパートが4棟建っていた。この4棟は公営住宅で、「うぐいす住宅」という名前だった。2010年ごろの大規模な再開発で、団地のうしろに隠れるようにしてひっそりとシックにただずんでいた、ノースウエスト経営の外国人向け一戸建て住宅街、エヴァーグリーンパークホームズと前後して、どちらも

          南平台の記憶・その11 団地がウヨウヨあったころ

          南平台の記憶・その10 三菱化成南平台アパートの表札

          南平台社宅アパートにあったヒマラヤ杉のことから、話がだんだん昭和40年代の渋谷駅周辺にまで広がってしまっている。前回の記事で紹介したテレビ朝日の「ヘリ撮」動画は、東急本店のアドバルーンだけでなく、昭和44年に廃止される玉電が現役で動いている様子や、国道246号の上の首都高がまだ渋谷駅の谷間を越えるだけの1キロの区間だけだった様子も捉えていた。 そして、この動画と同日に撮られたと思われる二番目の動画には、宮下公園のあたりから青山学院周辺にかけての街並みが写っていて、こちらもた

          南平台の記憶・その10 三菱化成南平台アパートの表札

          南平台の記憶・その9 東横デパートのアドバルーン写真を見つけた

          渋谷駅周辺の昭和40年代ごろまでの開発の歴史を知るのに便利なウェブページがまだまだあった。 これらを参考にさせていただき、渋谷駅周辺の、昭和40年代までの主要な商業施設の建物の竣工年代をざっとさらってみたい。ただし、わたしの勘違いなどがあるかもしれず、内容はあくまでも参考までにご覧ください。 名前だけではピンとこないものもあったので、ウェブサイト・「渋谷文化プロジェクト」が作成してくれた、東急東横店のわかりやすい立体図も借用させてもらうことにする。 (取り上げた建物はすべて

          南平台の記憶・その9 東横デパートのアドバルーン写真を見つけた

          南平台の記憶・その8 渋谷西武の屋上遊園地

          前回、渋谷のデパートのことを調べたとき、渋谷西武の開業が昭和43年4月だと知った。 わたしの写真アルバムの中に、その西武の屋上遊園地で撮られた三枚の写真が残っている。 一緒に写っている母のお腹が大きいので、昭和43年の8月ごろに撮られたものだとわかる写真で、この屋上遊園地ができて間もないころのものだと断定することができる。 夫馬信一氏が東急東横店の屋上遊園地の遊具機械であった「ひばり号」と、その周辺事情についてまとめた「渋谷上空のロープウェイ」(2020年)という労作の中に

          南平台の記憶・その8 渋谷西武の屋上遊園地

          南平台の記憶・その7 東急東横店南館と山手線の南改札

          前回の記事で、昭和40年代に、渋谷駅周辺にはデパートが三つあり、南平台にあった社宅アパートからアドバルーンが見えていた、ということを書いた。 でも本当にデパートは、もう三つともあったのだろうか。 そこで三店の開業日を調べてみた。 東急東横店 開業日: 昭和9(1934)年11月1日 東急本店  開業日: 昭和42(1967)年11月1日 西武渋谷店 開業日:昭和43(1968)年4月19日 ということで、わたしが渋谷で物心ついた時には、三店とも出揃っていた。 渋谷駅周辺

          南平台の記憶・その7 東急東横店南館と山手線の南改札

          南平台の記憶・その6 渋谷のデパートのアドバルーン

          南平台の社宅に住んでいたころ、家族で記念撮影をするときにはアパートの屋上にいくことが多かったようで、写真がまだ出てくる。 屋上シリーズにもそろそろ飽きてきたので、最後に二枚載せて終わりにしよう。 一枚目は昭和44(1969)年1月、二枚目は昭和48年春か秋ごろ。 少し場所は違うが、撮影している方向がまったく同じなので、比較のために載せておく。 空の面積に注目してほしい。 この4年半くらいの間に、社宅アパートの周囲に高い建物がふえてきたらしいことがわかる。 二枚目の左手に

          南平台の記憶・その6 渋谷のデパートのアドバルーン

          南平台の記憶・その5 南国酒家マンション

          昭和40年代、渋谷区桜丘のさくらマンションが渋い存在感を放っていたという話をしたが、当時すでに、高さから言えばもっと大きなマンションができていたということは、上の写真からもわかる。 この写真は、南平台にあった社宅アパートの4階部分にあたる屋上から撮影したものの一部を拡大したものだが、奥に見えている二つのマンションは、地図から想像するに、現在もある「渋谷コープ」、「桜ヶ丘ハイホーム」あたりではないかしらんと思うのだが、どうだろう。だいたいの方向からの当てずっぽうなので、違って

          南平台の記憶・その5 南国酒家マンション

          南平台の記憶・その4 ヴィンテージマンションさくらマンション

          南平台の社宅アパートの屋上からの写真の続き。 下にあげる三枚はいずれも、昭和44年(1969)年ごろに、アパート屋上から桜ヶ丘郵便局方向を撮影したもの。 一枚目の人物の後ろに大きく写っているのは、桜丘町のさくらマンションだ。二枚目、三枚目にも一部写っている。 当時のさくらマンションは、この界隈、というか、わたしたちこどもの小さな世界では、大きさもさることながら、異様な存在感を放つ建物だった。じっさい高さもあり非常に目立っていたと思う。 ある日社宅のみんなと遊んでいるときに

          南平台の記憶・その4 ヴィンテージマンションさくらマンション

          南平台アパートから東京タワーが見えていた  南平台の記憶・その3

          アパートの屋上で撮影された写真を見ているうちに、そういえば、と思い出したことがある。 社宅は渋谷区南平台の坂の下にあったにもかかわらず、四階部分の屋上から東京タワーが見えていたのだ。 地図で確認してみると、東京タワーの位置は、わたしの記憶の中にある方角と一致している。 途中は、國學院大学や日赤病院のある渋谷区南東部、さらには六本木ヒルズなどがある港区のど真ん中であるから、今では視界は完全に塞がれているに違いない。 しかしながら、もっとすごいかもしれないと思えるのは、屋上で

          南平台アパートから東京タワーが見えていた  南平台の記憶・その3