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当麻の記憶#10 中央地区の記憶その2

当麻川と牛朱別川に囲まれた中州状の地形で、どこに行くにも橋を渡る必要があったため“中島”と呼ばれていた中央4区。「昔は郵便物が“当麻町中島”で届いていたんですよ」と話すのは、88年間この地区に住む中村護さん(昭和9年2月16日生)。
 小学生の時に戦中、戦後と移り替わる時代を経験した中村さんは、学校生活も大きく変貌したと振り返ります。戦時中の学校生活は勉強と作業が半々だったといいます。中村さんが記憶しているのは出兵し人手が足りない家庭やお年寄りの家庭の農作業の手伝いや、暗渠用土管を作ったこと。あまり勉強をした記憶がないそうです。
 中村さんが中学生の頃は、中学校校舎が当麻小学校の隣にあった時代で、卒業後に柏ケ丘の新校舎に移りました。新しい校舎に通うことはありませんでしたが、荒地だった柏ケ丘を生徒たちで整地したことを覚えていると話していました。

今の柏ケ丘。昔は荒地だったとか…


 学校のスキー遠足(スキー授業ではなく遠足と呼んでいたようです。学校からスキーを履いたままショートカットの道を通り、スキー場に行ったためそう呼んでいたのかもしれません)には射的山を利用していましたが、それ以外でスキー遊びをする時は射的山より近い、黒岩山の麓を使ったそうです。夏は黒岩山にザリガニを採りに行ったとのこと。また牛朱別川ではカラス貝を採り、その場で焚火をして焼いて食べましたが、硬くて食べれなかったと笑いながら幼少期を振り返っていました。

右の山が、当麻町で最も高い「黒岩山」


 中学卒業後、中村さんは家業の農業を経て、町内の運送会社に勤めます。当初は、まだ自動車が無く、大きな荷物の運送には馬を利用していました。当時は各家庭に農耕馬がいましたが、荷物運搬に使われる馬は力も体格も違い、運べる量も大きく違いました。そういう馬を持ち、生業としていたのが“馬追”と呼ばれる仕事。中村さんが勤める運送会社は町内のお米や肥料の配送を一手に引き受けていましたが、会社に馬が1頭しかいなかったことから、馬追の人にも応援をお願いしていました。立派な馬を所有することは一つのステータスだったようで、自慢の愛車をピカピカにするように、馬にも装飾を施していたそうです。
 林業が盛んだった当時、貨物列車で運ぶ木材の積み下ろしも中村さんの勤める運送会社が請け負っていました。木材は非常に重たいため、駅の線路と
木材会社の渡場を「ぎ線」と呼ばれる線路でつなぎ、木材が積まれた貨車を持ってきて木材の積み下ろしをしていたそうです。昔の当麻駅周辺には複数の木材会社が軒を連ねていました。今でも当麻駅や他の地域で駅の周辺に丸太が積まれている光景を見かけますが、鉄道を使って木材を運んでいた名残なのでしょう。

木材会社が軒を連ねていた当麻駅付近