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山とともに ~自家製の家とパンと~(後編)

 林さんの住宅の入り口には「Kigi」と書かれた看板がかかっている。紗弥子さんが自宅で営むパン屋だ。ちなみに“キギ”と読むが、林さんの苗字を構成する二つの「木」から命名されている。
 大学生の頃、スノーボードがしたくて居候していたニセコで天然酵母のパンに出会い、パンが好きになった。それからは旅先で必ずパン屋を訪れ、いつか自分でパンを作りたいと思うようになった。2年間パン屋に勤め、上富良野在住中も富良野マルシェでパンを作っていたという。

自宅玄関に並べられたkigiのパン


 翼さんの住宅設計図には元々、コンクリート打ちっぱなしのパン工房が盛り込まれていた。紗弥子さんの中にも“当麻でパン屋をやりたい”という気持ちがあった。しかし子育てに奔走する毎日で“そのうちに…”と気持ちが萎えていたという。そんな中、「パン熱」を再び呼び起こさせてくれたのは当麻で出会った人たちだった。「“パン屋やるんでしょ?”と皆さんに言われて、後に引けなくなったんです。開業にはお金が掛かるし、資金繰りができるかも不安でしたが、当麻で知り合った人たちが商工会の方や銀行にかけあってくれたんです」。
 Kigiは当麻グリーンライフの有機小麦を使用し、ドライフルーツやチョコレートなどはオーガニックの物を使っている。紗弥子さんは小麦粉や材料にこだわれば絶対に美味しいパンができると信じているという。自己満足と笑われるかもしれないが、パン作りが好きだからこだわりがあって、長く続けるために楽しみながらパンと向き合っていると話す。
 少し(かなり?)わかりづらい場所にあるお店だが、オープン時間になるとパンを求めるお客さんがテンポよく訪れる。日によってはパンが売れ残ることもあるらしいが、SNSを使った販売など、新たな販売方法を発見する時もあり、お店を経営することが楽しいらしい。

パン作りと向き合う紗弥子さん


 住宅を自分で建てること、自営業を始めること、どちらも人生の大きな交差点だと思うが、林さん夫婦は自身の決断に後悔はなく、今を楽しんでいる。当初の予定とはかなり方向転換した11年間だったらしいが振り返ってみるとこういう生き方も良いものだと思っているという。
 二人の面白いエピソードを聞かせてもらった。ヨセミテを訪れた時に、翼さんのパスポートが盗まれてしまった。さらに帰りの飛行機も時差で1日間違えてしまった。帰国できないというピンチに陥ったが、その時の決断で何とか帰ってくることができた。「“何とかなる”という考えが今もあるのかもしれないね」と二人は顔を見合わせて笑う。
 多くの人は年齢や生活環境などを理由にやりたいことを我慢しているだろう。“子育てが落ち着いてから…”、“家計に余裕ができてから…”、もちろんその中でやりたいことを押し通せば大きなリスクを抱えることもある。しかし相応の覚悟を持った上で“やるなら今しかねぇ…”と一念発起するのも人生の楽しみの一つなのかもしれない。
 詩人 故 茨城のり子さんの詩で「自分の感受性ぐらい」という詩がある。林さんを取材していて、その一句を思い出した。
―ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて (中略) 駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄自分の感受性ぐらい 自分で守れ ばかものよ―
いつもどんな時でも心に水やりをすることを忘れずに…。
 自分だけの一度しかない人生。それを豊かにできるのはモノやお金じゃなく自身の心だけなのかもしれない。
(前編はこちら)