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開駅100年 当麻駅の記憶を辿る

 当麻駅前にある「まさ屋旅館」は大正13年開業。今年開駅100年を迎えた当麻駅とほぼ同じ時期に開業し、ともに歴史を刻んできました。現在の建物は2代目ですが、開業当時の看板や鬼飾りなどから100年の歩みを垣間見ることができます。現在、娘さんと2人で旅館を営む廣瀬一布さん(昭和17年6月21日生)は3代目。初代、2代目とこれまでは女性が旅館を取り仕切ってきました。

現在のまさ屋旅館
開業当初のまさ屋旅館


 祖父は職人を雇い“柾(まさ)屋(屋根葺き工。柾葺き屋根から来る名称のようです)”を経営していました。これが旅館の屋号の由来となっています。父親は旭川市の畳屋で修業し、職人として年季明けしたことから畳工を営んでいました。屋根葺き工を継がなかったのは、一人息子で“落ちて何かあっては大変”と別の職業に就くことを両親から懇願されたからとか。一布さんの母親は小樽の料亭で修業し、昭和28年に調理士免許を取得(当時は珍しかったようです)。味にも定評があったため、花嫁修業として働く女性が何人かいたそうです。

一布さんの母 マサ子さんの調理士免許。“師”ではなく“士”だった


 戦時中は袋地(現在の北星3区付近)が陸軍演習地だったことから、幹部の休憩所として、また徴兵検査の場所としても使われていました。戦後は進駐軍が滞在することもあり、宿泊している部屋に連れていかれチューインガムやチョコレートを分け与えられた記憶が今も残っていると一布さんは話します(しかし進駐軍はあまり好きではなかったそうです…)。日中はジープに乗って街中を走り、子どもたちにお菓子をばらまくという映画で見るような光景が実際にあったようです。
 流通の拠点である駅の近くということで旅館周辺には、米の検査を行う食糧事務所や運送会社など流通に関係する事業所が軒を連ねていましたが、映画館があったほか夜の繁華街としてもにぎわっており、この通りを別名「親不孝通り」と呼んでいたそうです。また線路に並行する駅前道路の片側には国鉄の官舎と保線区が並んでいたことから、別名「片住み道路」と呼ばれていたそうです。

夜の繁華街だったため「親不孝通り」と呼ばれていた
駅側(写真右側)は国鉄官舎が並び、国鉄一家の集落だった「片住み通り」


 当時の当麻駅には荷物の引き込み線を含め4本の線路が敷かれていました。駅前は池がある広い公園となっており、鬼ごっこや線路を跨いで野球をするなど、地域の子どもたちの遊び場になっていたようです。

初代当麻駅舎
今も残る3番線の一部