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【書籍】おじさんのココロの本棚①~カート・ヴォネガット『スラップスティック-または、もう孤独じゃない!』

ミルトン、ありがてぇ、ありがてぇ(消毒液を交換しながら)。

愛娘の哺乳瓶用としてミ~ルトン♪(CMのメロディで)の消毒液容器を使用しておりますが、「消毒用の液体で満たされた容器が常時あり、1日1回消毒液の交換を行う」なんて、まるで病院や研究室じゃあないか、と理系的状況にワクワク興奮するド文系おじさん長谷川誠です。

しかし、今まで自分の知らなかったジャンル(ベビー用品)にも「王道の商品」や「業界1位メーカー」があるんですねぇ。嗚呼、井の中の蛙。不惑(40歳)を超えても、世の中には知らないことだらけ。

広いぜ世の中、まだまだだぜ自分。ということで、愛娘のお世話でテンテコマイな昨今、まだまだな自身を振り返る意味も込めて、自分の血肉となっている座右の書を思い出して(紹介して)みようか、と。

はい、私の座右の書第一位と言えば文句なしで、こちらです。

出会い

カート・ヴォネガットの小説と初めて出会ったのは、1995年大学1年生の頃。

初めての一人暮らしに興奮するあまり生活費の加減がわからず、仕送りやら奨学金やら、手にしたお金の大半は中古ゲームソフト、音楽CD、レンタルビデオ、書籍(漫画・小説・サブカル系雑誌)に注ぎ込み、食事は送ってもらったお米とコスパ抜群のバターロール袋でしのいでいた、あの頃。嗚呼、若さ、若さよ(笑)

一人暮らしを始める際、固定電話を設置するために電話の”権利”(今思うとアレは何だったんだろう…)を購入せねばならないような時代だった。

現在、大抵のことは浅い情報であればネット検索であっという間に(真偽のほどを吟味する技術は必要となるが)調べることができる時代である。

その当時は”パソコン通信”という言葉が”インターネット”に徐々に書き換えられつつあった過渡期。好きなことを樹状的に拡大させるため、色々と調べるのにも一苦労な時代だった。

現在は哀しいことに書店の数も減ってしまったが「書籍との出会いとは、書店(古本屋含む)での直接的かつ偶然の産物」だった時代である。

足繁く通っていた近所の古本屋でカート・ヴォネガットと出会ったのは、そんな時代だった。

無性にハヤカワSF文庫を読み漁りたくて、古本屋の棚にあの”薄い青の背表紙”があれば手に取り、シリーズの途中巻などでなければ、何かに憑りつかれたかのように問答無用で買い物カゴに放り込む。その中に偶然入りこんでいたのが…

そう。カート・ヴォネガット(Jr名義)のこの1冊だった。

「この宗教は、全部、嘘です」と述べるボコノン教なる架空の宗教、核弾頭を作った科学者、その家族の話を夢中になって読んだ。どこか人類に対して諦めきっているような、それでもどこか人類が好きで好きで仕方がないような、そのシニカルな語り口。そして、その独特の文体と文章構成。

第三者的な視点が必要となる社会学を志し、斜に構える事がカッコイイことと勘違いし、メインストリームカルチャーを鼻で笑っていた。そんな、サブカルチャー漬けの男子大学生を夢中にするのに、カート・ヴォネガットの作品は十二分だった。

この出会い以降、ヴォネガット作品を探しに新潟市内の古本屋を巡りに巡り、入手が難しければ大学生協の書籍注文を駆使することとなる。その中で、ついに座右の書『スラップスティック』と出会った。

私を支える名言たち、もしくは縛る呪詛

以降の人生、事あるごとに読み返し、呪文のように唱えることとなったのは、『スラップスティック』のプロローグである。ハイホー。

愛はどこにでも見つかる。それを探しにでかけるのは愚かなことだと思うし、また、有害になることも多いと思う。世間の常識から見て、相思相愛の仲だと思われている人たちにーーあなたがたがもし諍い(いさかい)を起こしたときは、おたがいにこういってほしい。「どうかーー愛をちょっぴり少なめに、ありふれた親切をちょっぴり多めに」

プロローグ 8Pより

自身の亡くなった姉との関係性、そして姉への想いが本編の物語を生み出したことを説明する”プロローグ”。

第二次世界大戦中、東ドイツのドレスデンにある捕虜収容所に入っていたカート・ヴォネガットは自軍による無差別空爆を経験した。そんな、グロテスクで山場の多い人生をドタバタした喜劇(スラップスティック)に例える彼が”愛”について語っているのだ。ハイホー。

刺さった。

ヴォネガットに比べれば、まったくもって取るに足らないごくごく平凡な人生を歩んできた、ごくごく平凡な東北出身の男子大学生である。しかし、人生がドタバタ喜劇(スラップスティック)であると考えると、平凡ではあるものの、自身の今までの人生で遭遇した幸不幸エピソードの数々がスッと腑に落ちたように思えた。

わたしは愛をいくらか経験した。すくなくとも、経験したと思っている。もっとも、わたしがいちばん好きな愛は”ありふれた親切”ということで、あっさり説明ができそうだ。短い期間でも、非常に長い期間でもいい、わたしがだれかを大切に扱い、そして相手もわたしを大切に扱ってくれた、というようなこと。愛は、必ずしもこれと関わりを持つとは限らない。

プロローグ 7Pより

幸いなことに、私長谷川誠のドタバタ喜劇。結婚・娘を授かるという物語の山場を迎えることができた。それまでにも、お恥ずかしい話であるが、ごくごく一般的な愛を感じるやり取りも喜劇の劇中にあった。

そんな喜劇の最中。何度この”ありふれた親切をちょっぴり多めに”助けられただろう。ハイホー。

愛、なのだろう。愛、とは暴走してしまうものなのだろう。壊れるほどに愛しても、1/3の純情な感情が空回りするばかり(懐メロ笑)愛と憎しみは表裏一体とは良く言ったもので、相手を傷つけてしまうことも、傷つけられることもあった。

”ありふれた親切”。つまり、偽善でも何でも良いから「他者への無条件の優しさ」をちょっぴり多くしようという気持ちが、私の喜劇を多少なりとも”笑える”ものとなるように彩ってきてくれたのだ。ハイホー。

近頃のわたしの口癖はー-「ハイホー」だ。これはなんというか、老人性のしゃっくりである。わたしは長生きしすぎた。ハイホー。

本編 32Pより

しょっちゅう「ハイホー」と書くのは、もう本当にやめようと思う。ハイホー。

本編 38Pより

わたしはここに誓う。もしこの自伝を完成するまで生きながらえて、しかももう一度目を通す時間があったら、「ハイホー」をぜんぶ抹消しよう。ハイホー。

本編 43Pより

嗚呼、プロローグのみならず本編全てが愛おしい作品である。ハイホー(笑)

ヴォネガットファンへのただならぬ親近感

ここまで骨身に染みて、というか自身を構成する要素としてカート・ヴォネガットが組み込まれていると「ヴォネガットが大好き」という発言をした方々を無条件で信用してしまうものである。

私に「ヴォネガットの大ファンです!だから、この投資話に乗って下さい!」「だから、この情報商材を買うべきです!」「だから、このオンラインサロンの仲間達と、より良い人生を手にいれましょう!」と言えば、首をタテに振ってしまうかもしれませんよ。チャンスですよ、その筋の皆様(笑)

まぁ、その手の話は、天地がひっくり返っても”真のヴォネガットファン”なら、冷笑こそすれ言わないであろう、という自信があるんですけれどもね。ええ。

ちなみに、芸能界で言えば、爆笑問題の太田光さん・劇団大人計画主宰の松尾スズキ師匠(勝手に敬愛を込めて)が、カート・ヴォネガット好きを公言されており、その言動や作品等から強いヴォネガットイズムを感じます。だから…問答無用でファンです(笑)

また、昨今楽しみに視聴していた、TVアニメ『SPY×FAMILY』第1シーズン。エンディング曲の星野源さん『喜劇』なんですが…

『喜劇』 作詞・作曲:星野源
争い合って 壊れかかった このお茶目な星
生まれ落ちた日から よそ者 
涙枯れ果てた 帰りゆく場所は 夢の中
(中略)
いつの日も 君となら喜劇よ 踊る軋むベッドで
笑い転げたままで ふざけた生活は続くさ
(以下略)

どうにも強く、カート・ヴォネガット『スラップスティック』臭を感じてしまうんです。

『スラップスティック』臭を強く感じるところを太字で強調してみましたが、そもそも人生を「喜劇」に例えていますし。もう、この名曲は『スラップスティック』の主題歌でも良いような気も…。

星野源さん、敬愛するヴォネガットファンの松尾スズキ師匠が主宰する劇団大人計画に在籍されていたこともありますし、大っぴらに公言されていませんが、ヴォネガットファンの可能性がかなり高いのではないか、と勝手に一人盛り上がりおじさんです(笑) まぁ、ファンを公言されていなくても星野源さんは好きですが。

そんなヴォネガット作品。一人でもヴォネガットファンが増えたら嬉しい限りです、と綺麗にまとめてみた気になってみたり。ハイホー(笑)

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