見出し画像

「中高切断」

臆見シリーズ。まだまだ臆見ですが、書くことで練り上げていきたいことを書きます。 

「共有する」「つなぐ」「連携する」という言葉は、最近無条件に良いこととされている言葉です。良いことなので、反論がしにくい。
 学校教育において「つなぐ」「連携する」として、中高接続、高大連携、一貫教育、学校間連携なども、良いこととして語られています。一貫校っていうとそれだけで良いことをしてそう、って思えてきます。

 例えば中高接続については、文科省も、「6年間の計画的・継続的な教育指導」の重要性を指摘しています。

「様々な試行錯誤をしたり、体験を積み重ねること等を通じて、豊かな学習をし、個性や創造性を伸ばすことがより可能に。その中で、じっくり学ぶことを希望する子どもへの十分な指導がより可能に。」

中教審答申「「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」より

 高大接続も、「「学力の3要素」を高校教育で確実に育成し、大学教育で更なる伸長を図る」(文科省ウェブサイト)ことを期して、平成29年以降進められているます。もう7年。

 こうした認識の背景には、いくつかの前提があります。代表的な2つと考えているのが以下です。
 1つは、各学校がそれぞれの役割に閉じ、前後の段階と連続する子どもの過程を無視している、というものです。キャリア教育においてトランジション(転換・移行)の重要性が指摘されるのも、この前提によるものです。
 もう1つは、入試による断絶が学校のゆとりを奪い、本来あるべき教育を妨げているというものです。特に高大接続の観点において、大学入試改革が同時に論じられているのも、この前提によるものです。

 いずれの発想も、個々の学校の目線ではなく、それらを一貫して経験する生徒の目線に立ち、システムを再構成することを目指すという主旨といえます。

 しかし、中・高・大の中間部分において働くなかで、近年生徒にはむしろ「切断」が重要なのではないかと考えるようになりました。

 4月、高校に入学してきた1年生たちは、そのイメージに反して「まっさら」ではありません。意識的・無意識的を問わず、中学の間に培った学校文化や勉強観を、そのまま高校に当てはめようとしてきます。
 例えば歴史の授業において、彼らは教員の話を一言一句聞き逃さず、きれいにノートにまとめ、蛍光マーカーで太字の語句に線を引き、時には赤シートをかざします。テスト前には友達と1問1答クイズを出し合い、そのテストで分からない漢字にはルビを振ってきます。

 いずれも、私はそのようにせよ、と指導したわけではありません。むしろ、別の学習法を提案しているくらいです。授業の中で促進してもいない行動です。なぜ彼らはそうするのか。中学でそうしていたからです。勉強とはそうするものだと思っているからです。

 新年度になると、大学の先生たちが、学生たちが全然勉強をせず、授業で「内職」をしたり爆睡したり、そのくせ試験前に泣きついてきたりする姿に辟易するさまをSNSで紹介する場面が増えます。なぜ学生たちはそうするのか。高校でそうしていたからです。授業とはそうしても平気だと思っているからです。

 前にいた場所を離れ、新しい場所で活動を始めるとき、それまでの振る舞いがにじみ出ることは珍しいことではありません。むしろ、それが自然だとすら瘉えます。しかし、その慣れた振る舞いは、どこかで捨てるべきものとなります。活動する中で、合わない振る舞いを出来るだけ抑え、慎重に、戸惑いながらも、新しい振る舞いを模索し、獲得していくものです。
 どう振る舞っていいか分からないから、その場にいる人から知っていそうな人を探り、何とか教えを乞う。あるいは、周りを観察する。自分の振る舞いが馴染み、相応しいものとなるように努力する。こうした右往左往はその人に変化をもたらします。集団の一員としての振る舞いを身につけるころには、気づけば成長しており、最初の自分とは見違えるほどになります。

 生徒たちはそうしません。それまでの振る舞いを、臆面もなく発揮するのです。そして、教員たちも生徒が戸惑わず、なめらかに新生活に適合できるように腐心しています。
 新入生の4月は「ガイダンス」「オリエンテーション」といった営みで埋め尽くされます。入学前から「体験会」「オープンスクール」も増えました。「不適応」という言葉は、学校側の問題と思われることも多くなりました。生徒たちがストレスなく適応できるように、教員たちは努力すべきと思われるようになったといえそうです。

 学校が子どもに変化と成長を促すことをねらうのなら、学校のトランジションの際に求められるのは、「なめらかな連携」ではなく「切断」であろうと思うのです。これまでの君たちの振る舞いは、もうここでは通用しない、と切断し、その上で新しい振る舞いを身につけよ、と宣旨しないといけないはずです。当然、生徒は右往左往し、大変なストレスにさらされます。それでいいのです。教員に必要なのは、こうした摩擦をゼロまで低減することではなく、生徒が摩擦に疲れすぎない程度のケアです。

 そして、この主張は現状の「連携」を否定しますが、トランジションには「切断」が求められる、という発想に立ったうえで、再び「連携」が求められることには留意が必要です。中・高・大を一貫するキャリア形成の視点は、各学校が個別に閉じ、特定の期間が独自の価値を持ち過ぎず、あくまで「人格の完成」というべき生徒の人生という視座を想起するために重要です。もちろん、個別の支援の情報を引き継ぐ点の重要性は、指摘を待ちません。

 「連携」「共有」といった言葉は耳に心地よいものですが、「切断」がもつ教育的側面を見逃すことになってはなりません。各学校がどういったカリキュラムを備えているかとは別に、卒業・入学をはじめとするトランジションや状況の変化そのものが、人間としての生成変容と成長への重要なイベントなのであり、教育活動だとすら言えるのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?