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読書記録9:「お味噌知る」

年度末と年度初めはそりゃあもう慌ただしい時期でして、ちょっと別の世界に逃れたくなるものなのです。しばらく書くことも読むこともできていなかった。久しぶりに走ったら筋肉痛になるように、久しぶりに読んだら読書痛になるかのような気持ちになります。そのためまずは軽く読み軽く書く。

読んだのは土井善晴先生と娘さんとの共著。土井先生が日々主張する「料理をして食べるという行動がもうそれだけでええんですよ」という主旨の言葉に日々共感しています。

この前旅行に行き、その後春休みの歓送迎会シーズンを経験したので、特別な食事が続いていたのですが、あっさり胃腸を悪くしました。なんか毎日違うもの食べていると疲れるのは、もう若くないからだけではなさそうです。

自分の暮らしのリズムを壊さないために、何も考えなくても、さっと作れて、きちんと食べられる。手と頭を自動的に連動させるトレーニングにもなる。それに季節だって感じられます。そうした毎日おなじことの繰り返しが、何より感性をとぎすませてくれるのです。食は極めれば美の問題だから、食を大事にしていれば、美意識がよくはたらくようになるので、感じなかったことが感じられるようになって、見えないものが見えてくるはずです。正解はいつも美しいもの、数学だってそうでしょう。自分を大切にするなら、これ以上、合理的なスタイルはありません。どうぞ味噌汁を信じてください。

『お味噌知る』p198

シンプルだからわかりやすい。ごちそうはそれはそれで良いものだけれど、ごちそうだけ食べていたら暮らしが乱れるのでしょう。きっと。
最後の「どうぞ味噌汁を信じてください」というパワーフレーズは強すぎて「もうこれから味噌汁にすがって生きていこう」という気分になるからいけない。

土井先生の『一汁一菜でよいという提案』も読んだのですが、この『お味噌知る』も合わせて共通する気づきがあります。レシピで紹介され、料理の常識と言われる様々なTIPSが、実は料亭に由来する調理法だという点です。
例えば「味噌汁は味噌を入れたら沸騰させない」とか。あれはテクスチャーの粘度が低くなるとかいう話もあろうと思うのですが、「味噌の香りが飛ぶから」とか一般に言われます。ただ、味噌の香りをそのまま味わうのはそれこそ高級な味噌を使ってその繊細な香りを楽しむような料理の場合であり、その発想は料亭のものであるわけです。家庭料理なら煮込んでなじませたほうが良い、という発想もあるわけです。

「味付けは食べる人がするもの」という発想もなかなか面白い。味付けを食べる人全員に満足できるものにしてサーブするのはプロの仕事であり、それを家庭料理に求めるのはおかしい、という視点です。味噌汁も味が薄けりゃ醤油入れれば良い、と出てきます。そういや卓上調味料、最近の家庭には見当たらないですね。

「ズボラ飯」とか「手抜き料理」とかが紹介されることがありますが、それらの表現はいずれも「料理は手を掛けるもの」という前提の上での逆張りです。米を炊いて味噌汁出してくれた、それを「手抜き」と面と向かって言えるものではない。こう考えていけると、自分の生活の満足ポイントがアマチュアのレベルになり、ごちそうが真にごちそうになる、ということを感じます。

少々話を膨らませると、だいたいのことにおいて一般人の生活はアマチュアであるわけで、だからこそプロフェッショナルの仕事は圧倒的に光る、ということを意識するきっかけになる本だった、といえます。
友人に芸人のような面白さや、カウンセラーのような安心感を求め、読む文章に文豪の技術を求め、接客するアルバイトにラグジュアリーなコンシェルジュサービスを求め…。それらは自分自身に求めるものへと返ってくるでしょう。プロみたいにできないから自分はダメだ、みたいに。楽器を練習していたときによく思ってたことでもありますが。

アマチュアリズムの復権、というと話がデカすぎますが、アマチュアリズムの居場所を自分の中に持つことで、生活者としての安らかな幸せを持ちながら、時折触れるプロフェッショナルの洗練された技術に感激出来るようになり得るわけです。

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