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読書記録10:『贈与と交換の教育学』③

前回②は、共同体の再生産としての「学び」の場としての教育を凌駕し破壊する、「純粋贈与としての教えること」という点についてまとめていました。これが「贈与と交換の教育学」の骨頂たる視点であったわけです。

前回の整理が「教える側」に着目し、それを贈与と捉えるものであったのに対し、今回はこれを学ぶ側、つまり子ども側からとらえ返してみます。
教えることによって、教わった者は安住していた共同体から連れ出され、外の世界の「真理」を味わうという体験をする。そうして、味わった後で元の共同体に戻っても、「なんか見え方が違う」というような感覚に陥る。この時、教わった者は明らかに変容しています。それが有用になったかどうか、共同体にとって望ましいかはさておき。

千葉雅也は『勉強の哲学』の中で、勉強することを「ノリが悪くなる」ことだと表現しましたが、おそらく同等のことを言っているのでしょう。みんなの共通のノリ(共同体の規範)が、外の世界によって侵犯され、教わった者が変容して、当のノリ(共同体の規範)からずれてしまったのです。

「真理」という表現をすると、学問的考究の世界に限定される懸念があります。共同体の外にある、それに触れることで圧倒され魅了されてしまうような何か、くらいの意味です。それゆえ、この「真理」とは、頭のいい人や哲学者が考えてたどり着くといった様相ではなく、それこそ子どもがありとあらゆる他者(人間に限らない)から突然に贈与されてしまうものです。

例えば、登山をしているとき。苦しい山道を登っている途中、ふと見た風景の美しさに呆然と立ち尽くすような瞬間。この時、普段の生活で触れる自然の姿や、「登山の時の風景とはこういうものだ」というありきたりな感覚から取りさらわれ、ただただ圧倒され魅了されてしまうということがあります。この時、この記事でいう「真理」がこの人に現れたわけです。自然という他者からの圧倒的贈与があったわけです。

この体験談を後日誰かに話して、聞いた人が「それなら俺も見に行こう」と思って登山をして、同じポイントに来たとしても、「聞いてたこれかぁ」くらいにしかならないことが想像されます。最初の人は、予想外のタイミングで突然自然の美しさに圧倒されたのに対し、話を聞いてから登山に向かった人は、「美しさを味わう」という目的に即した行動をとっているという違いがあります。

最初に圧倒された人が、登山に夢中になってのめりこむかもしれません。周囲があきれるほどに登山グッズに大枚をはたき、寸暇を惜しんで体力を削って登山に行くような生活が、ここから始まるかもしれません(これは以前の読書記録5『社会学講義 感情論の視点』でみた体験選択そのもの)。
貯めこんだものを惜しげもなく使い尽くす、バタイユの言う「蕩尽」のありさまです。

何か有用なものになる目的を捨てて、ただただ消費するために消費し尽くす。お金も体力も時間も、他のことに使ったほうがよっぽど合理的なのに、使い尽くす。こうした行為が、「有用性の破壊」そのものであり、さらには自己すら焼き尽くす「生きながら死ぬ行為(タナトスの発露)」でもあるわけです。

そして、矢野智司はこのようなエネルギーの爆発によって、かえって「世界との十全な交流が開かれる」と評します。自己すら破壊するような行為をしている(それゆえに、主体性とはいいがたい)とき、かえって人間は「俺、今生きてるって感じがする」と感じるわけです。日常生活でどれだけ有用になっても得られない、世界の中で生き尽くしていると感じるほどの喜びが伴うのが、この瞬間であるわけです。

これはもはや「趣味」というには生ぬるい。「趣味」という言葉に伴う、余暇の気分転換として管理され、飼いならされた「趣味」では、どれだけ行ったところで蕩尽とまではなりきらない。それはあくまで、労働者としての自己メンテナンスとしての有用性の範囲にとどまるからです。

有用性を超えて、その人がのめりこむような出来事を、矢野は「遊び」に見出します。小さい子どもがごっこ遊びをしているとき、あるいは全力で風のように疾走しているとき、彼らは「今、ここにいる私」を超えて、別なるものに触れているわけです。そして、それが何かのためでもなく、ただそれ自体へとひたっているわけです。
大人になっても、同じ仕事であっても合理性を超えたやりこみをしている人々にとって、その瞬間は「遊び」となるようなことがあるのかもしれない。こういう意味での「遊び」とは、ホイジンガのいう「文化」でもある、とあります。

ここまでを経て、矢野は教育の場において排除されてきた「遊び」が、人間として生を全うするために欠かせないと説きます。すべての行事を目的から逆算した「発達としての教育」では、目的性を捨ててエネルギーを浪費する「遊び」に場所を与えることができない。しかしそれだと、子どもは世界を十全に生きる生の価値を自ら見出すことができず、価値を有用性の序列の中で他律的に見出すしかない。学校で人間関係の問題が多発し、いじめが勃発する背景を、矢野はこのようにみているわけです。

学校教育と「遊び」を共生させること。それはカリキュラム・マネジメントの世界では「無駄」そのものです。それでも、「遊び」の世界の豊かさを知り、そこに魅了されている人にとっては、この世界を知らないなんてもったいない、と思うようなことです。贈与したくてたまらない、と思えてきます。
現在、学校の中で、特に行事に「圧倒的に無駄なエネルギーの爆散」が実現できないか、と画策しているのですが、それはひとえに蕩尽を可能にすることで、生成変容が可能になることを祈ってのものです。

この本自体が、私にとっては日ごろの言説空間の外部から突然やってきて、一撃を加えたものとなりました。考えると、ここまで読書記録を付けた本も、この本から駆動されて読み進めたといえそうです。「暇と退屈の倫理学」しかり「感情論の視点」しかり。そして、この流れはまだ続くわけです。
いったん、この本の読書記録はここまで。

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