近年の若い世代の進学や価値観に思う部分

そもそも進学って必要?

正直、自分は「人によりけり」という風に考えている。
自分は母親から「あなたは発達障害だし勉強も苦手ではないのだから、
私立の中学校に行った方がいいと思う」と小学3年生頃から
頻繁に言われていた。
お決まりの「友達と離れたくないから」という理由で中学受験はしなかったが。
結果として今の自分が存在しているから、選択肢としては正解だったのかもしれないけれど、物凄く屈辱的な扱いを他人から受けることになった。


そもそも小学校時代の友達が中学生になっても友達とは限らない

自分の住んでいた地域は自動車産業が盛んなこともあり、
他地方からの移民が多く、実際我が家も母方は三重県からの移民だったし、
父親は北海道からの移民だった。
地元でいわゆる「昔からの家」というのは明治期にやはり県内の他地域
からの大量移民でどさくさに紛れて土地を買ったような家だった。
なので、おのずと「昔からの家の子と移民の子」という構図が出来上がる。

自分は昔からの家の子と仲良くしていたけれど、その子はわがままな子で、
自分は遊ぶ約束をドタキャンしたりするのに、私が数日前に「ごめんだけど
その日家族で出かける用事ができた」と前もって伝えても、親を連れて
「うちの子が遊びたいって言ってるのにでかけるんですか?!」という
程度の低い母親だった。
自動車関連の企業に勤めることが正義、それ以外は日和った人間、
そんなことを平然と言ってのける親だった。
小学校高学年にもなるとその子とは付き合わなくなった

それでも、だ。
自分は「小学校の友達と離れたくない」と言ってのけたのだ。
他にも友達はいたけれども、ちょっと古い言葉で言うならマブダチ
なんてものは自分には存在していなかった。
強いていうなら、「家のことを特段気にしないで遊べる友達」
というのは居たけれど。

案の定、小学生時代からの友達は「教諭に媚を売って、
心象の良い運動部に所属し、知能が足らなくても推薦で進学できる
高校へ入るため」自分のような変わり者とは関わらなくなった。
そういった人種の昔の友人達から私はいじめを受けることになった。
「親のいう『この地域における普通の家庭の子』ではないから」
たったそれだけで小学6年間の友達関係は破綻した。
(住んでいる地域では「父親は自動車産業の従業員、母親はパート」
みたいなのがスタンダードで、我が家は父親がバス運転手、
母親は大学卒業してから入社した大手メーカーの総合職だった、)

これは高校生になってから気付いた事だけれども、結局のところ、
小学中学は「住んでいる地域が同じなだけの人間の寄せ集め」であるから、
当然合う・合わないは発生する。もちろん、どの世界に行っても
そういったものは発生するが、発現する確率は低い。


社会人になった視点から見る現代の学生の大変さ

今も昔もそうだけど、人間はあやふやな「普遍性」を求める。
人間の感覚なんて人間の数だけあるにも関わらず、だ。
そうして、その普遍性から外れた人間を集団から外そうとする。
最近ではSNSが発達して、気軽に他人と接触出来るようになった反面、
「あの人はうちらの感覚に合わないから出てってもらおう」という
意識が芽生えやすくなっているのではないかと思う。
特定のSNSを登録して、同じようなコンテンツを発信して、
同じようなメイクをして、好きでもないものを好きだという。
そういった考え方がより深刻さを増して可視化されている、と
三十路は思うのだ。
もうはや大学は専門分野を学ぶ場所ではなく「就職専門大学校」のような
場所になっているし、国公立・私立でまた謎の格差がある。
そうした格差は学閥だけでなく性別間にも発生する。
「こういう見た目の異性が良い」「同性のことを好きだという人は
誰でもいけるんだろう」「自分のことそんな風に思わないで」
「社会人になったら過度の身だしなみをするのは当たり前」等々……

いつだったか、どこかの国で発表された研究データで、
外見が素敵なモデルらと一般人とで「同じ学歴・職歴」の
履歴書で求人応募をした場合、モデルの方が圧倒的に採用率が高かったと。
能力には差異はなくとも見目で差別化される時代。

言うて自分が学生の頃はネット黎明期とはいえ、
同世代の人間が動画を投稿して有名人になったりとか、
そういうのは本当に稀なケースだった。
自分たちよりも少し年上の社会人が仕事とは別の趣味で
動画や漫画を投稿したり、イベントに参加したりして
有名になるというのはよくあったことだし、それは今も変わらない。
ただ、昔と違うのは同世代の人間も圧倒的才能の差で
有名になっていくというところか。

所詮他人なのだし、才能の差異があるのは致し方ないのは
きっと理解しているのであろうが、理屈でわかっていても
感情でわからないのが人間という生物なのだ(自分からしたら、
感情で理解できないということが理解できないけれども)

能力/才能がある人間とない人間がいるのは当たり前

同じタイミングで、同じ習い事を始めたのに、
進捗や収得度合いに違いがあるのはもちろん当たり前だ。
いくら同じ成分で出来ている生物とはいえ、幾重にもある遺伝子情報が
あるのだから違って当たり前。本当にそれは実感する。
同じ遺伝子情報を持っている兄弟姉妹ででも違うのだから。
他人と比較されて辛酸舐めた経験なんて人間なら誰でもあろうことなのに、
自分が部下や子供を育成する立場になった時、
「あの人はできてるのにあなたは出来ないのだね」という言葉をかけてしまう。
そんな言葉をかけられても「こいつぁ何言ってんだ」と思える人間が
才能を伸ばすことが出来るのかなと思う。
そこにプラス周囲の理解。これさえあれば強くなれる。
それが芸能であれ文学であれジャンル問わず。


終わりに

長々とわかったような口をたたいていたが、結局のところ
その人の気持ち次第というのは大きい。
自分なんかは「始めてしまった以上、腹を括って最後までやり切ろう。
でも、あかん時はあかんからすぐに撤退しよう」という考え方なので、
他人と比べられたところで「ほーん、それでお前は万蔵か?」
くらいにしかならない。
いろんな批判・賞賛を経験してそれらを「己」という土壌に
栄養として耕していく。それが一番大事なのではないだろうか。
ここまで偉そうなことを言っているが自分自身はjapan 適当ピープルを自負している。

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