見出し画像

ニューヨークのリーガル系都市伝説

今回のテーマ:ニューヨークの都市伝説
by らうす・こんぶ


 数十年前、「日本人の本音と建前」ということばがよく聞かれた。確か、そんなタイトルの書籍も売られていたような記憶がある。日本に住んだことがあったり、日本のことをよく知っている(と思っている)外国人からもしばしば「日本人の本音と建前」ということばを聞くことがあった。最近あまり聞かないのは、世代交代が進んで日本のコミュニケーションの伝統芸である「本音と建前」をうまく使い分けられる人が減ったからだろうか。今思い返してみると、一時期「本音と建前」はちょっとした流行語のようでもあった。

 ところで「本音と建前」は日本独特のものなのだろうか?アメリカは大きすぎるので全体のことには言及できないが、私が感じたニューヨーク(ニューヨーカーではなく)の本音と建前ならある。

                🔳

 ニューヨーク市では、条例によりビルの地下を住居として使ってはいけないことになっている。暗くて湿気が多く冬は底冷えするので、人間にとって健康的な居住空間とはいえないし、洪水や火事が起きたら危険だからだろう。地下にジムを作ったり、ビリヤードを置いてたまに遊んだり、そういう一時的に使う場所としてなら問題ないと思うが、地下室を住居として貸すことは違法だ。

 だが、現実には地下室に住んでいる人は少なくない。ニューヨーク市内の住居の多くは集合住宅で、古いアパートビルは地上階がアパートで、地下には本来物置やランドリーなどとして使うためのスペースがある。地下なので窓があっても刑務所の独房のように小さな灯りとりがあるくらい。一日中そんなところにいたら気が滅入ってしまいそうだが、とにかくニューヨークはアパートが足りないし、しかもご存知のように家賃が高いので、安く借りられる地下室は住居としての需要があるのだ。

 地下室に住んでいる人がいることはニューヨークでは周知の事実で、もちろん当局だって知っているだろう。だが、居住スペースが足りない以上、また、アパートの家賃が高額で所得の低い人たちには手が出ない以上、違法だからといって住んでいる人を追い出してホームレスにするわけにもいかないので黙認しているののかもしれない。これはニューヨークの「本音と建前」の使い分けだと言ってもいいだろう。

 私が帰国した後だから今から1、2年前のことだったと思うが、ニューヨークで大雨が降り、あちこち水浸しになったことがあった。このとき、クイーンズのアパートビルの地下に住んでいた移民の家族が室内に流れ込んだ雨水で溺れて亡くなった。かつて私が住んでいたアパートからほど近い場所だったのでびっくりした。この家族は地下に住んでいなかったら死なずにすんだはずだ。地下室を貸した家主は責任を問われただろうか。

                🔳

 アメリカで働くには就労ビザが必要で、外国人はそのビザの制限(職種や働ける年数など)内で米国内で働くことができる。就労ビザがなかったら労働は許されないのだが、現実にはレストランの厨房やピザの配達などの仕事は不法移民が担っていることがある。当局は抜き打ち査察を行なって不法就労を摘発したり、就労ビザがない外国人を雇っている雇用主を罰することができる。

 でも、めったにそういうことは起きない。なぜなら、不法就労者は仕事に就けてハッピーだし雇用主は安い労働力を確保できてハッピーで、一義的には誰かが不利益を被るわけではないからだ。ただし、移民法が改正されなくても、法律や条例の適用が厳しくなることがある。人手不足のときは不法就労を大目に見ていても、景気後退で失業率が高くなれば米国市民が仕事にあぶれるので、不法移民や不法就労者に対する風当たりが強くなり、当局の取り締まりが厳しくなる可能性が出てくる。これも「本音と建前」の使い分けに見える。

 しかし、これは過去の話。バイデン政権になってから夥しい数の不法移民(最近、米国ではillegal immigrant(不法移民)とは言わず、undocumented immigrant(登録されていない移民)と呼ぶようになったそうだ)を無制限に米国内に入れているので、もはや現行の移民法では対処できないだろう。正規の手続きでビザを取得して入国し納税の義務も負っている移民と、パスポートなどのIDさえ所持せずに米国内に入ってきた不法移民を、どのように公平に扱うのだろう。本音と建前を柔軟に使えば便利に機能することも多いので、私は必ずしもそれを悪だとは思っていない。だが、それによって歪みや不利益を被る人が出てきたら話は別だと思う。

                🔳

 ニューヨークには法的に存在する人と法的には存在していない人が混在していた。本来だれも住んでいるはずがないビルの地下に人が住んでいたり、レストランの厨房や個人商店などでアメリカにいるはずのない人たちが働いていたり。これはこの巨大な街の都市伝説ではないだろうか。日本で語られるのがオカルト系都市伝説なら、ニューヨークのそれはリーガル系都市伝説と命名したい。




らうす・こんぶ/仕事は日本語を教えたり、日本語で書いたりすること。21年間のニューヨーク生活に終止符を打ち、東京在住。やっぱり日本語で話したり、書いたり、読んだり、考えたりするのがいちばん気持ちいいので、これからはもっと日本語と深く関わっていきたい。

らうす・こんぶのnote:

昼間でも聴ける深夜放送"KombuRadio"
「ことば」、「農業」、「これからの生き方」をテーマとしたカジュアルに考えを交換し合うためのプラットフォームです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?