心と身体2

能における演技者のレベルを指す言葉や表現はいくつかあるが、「身体論」のなかで湯浅は特に「安位」と「蘭位」について以下のように触れている。

「安位」は表現の技巧と内心の充実が一応相伴った境地であるが、これはさらに「達者」と「上手」に分けられる。達者は音曲・舞・所作がよくこなせる人で、どちらかと言えば技巧面に優れた人である。これに対して上手は芸の心を会得した人である。「さるほどに面白き味はひを知りて、心に手する脳は、さのみの達者になけれども、上手の名をとるなり。」いずれにせよ、この二つの「安位」は、心のままに演技を表現できるという意味で「安きくらい」である。しかしこの場合は、達者と上手が分かれるように、体の技巧面と心の充実面のどちらかに偏りがある。

つまるところ「安位」とは思ったように芸をなすことができる状態であるが、これを能では演技の最高の状態とは呼ばない。心か体のどちらかが優勢である限りは最高のパフォーマンスである「心身一如」の状態に達したとは言えない。蘭位については・・・

これに対して蘭位は、演じているというその心さえ消え去って、心が「空」になった状態である。このような「無心」の境地は、「離見の見」とか「見所同心の見」という状態を作りだす、と世阿弥は言う。「離見の見」とは自己がみていると言う意識が消え去り、自己の舞姿をも自己の外から離れて見ている状態である。また「見所同心の見」というのは、観客席から自己の演技を見ている状態をいう。


一見すると心身一如とは離れた考えのようにも見えるが、ここで湯浅が代わりに使うのは「主体」と「客体」という言葉である。ものすごく大雑把にいうと、自己の「主体」を感じるのは心で「客体」は体である。「離見の見」のない状態、つまり自己を主体的にしか捉えられない場合には、心と体が完全に一致することはできない。「空」「無心」という状態は、自己の「心」と「体」を包括できる極めて抽象性の高い状態ーまたは場所ーである。それには、自己の「客体」的に認識、身体的訓練が、まず不可欠である。そして心が完全に「客体」化し、主体性を失った時、自己と他者を区別するもの「主体」はなくなり客席と演者は一体となり「心」をそのまま映し出した「体」のみがそこに残る。

前回触れた、合気道の「意思」と「技」との一体化の話で言えば、「意思」の残った状態では「安位」その上に「意思」つまり主体をも失った「蘭位」の境地があるのである。

次回は、アレキサンダーテクニークと「離見の見」の比較をする。

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