心と身体 1 -行わずして為す。

「合気道において目指すところはなんであるか?」師範である、ポールに問う。合気道には試合はない、当然勝ち負け、強弱を決めるためにするのではない。僕は、自分の演奏のパフォーマンス向上のために合気道を始めた。武道は、姿勢、呼吸、エクササイズ、瞑想、エトセトラ、もろもろパッケージになっているから。しかし、そこに集まる他の人は?ポールは自分の昔話をしてくれた。

数十年前の話、ポールはロンドンの地下鉄に乗っていた。友人と立っていると、隣の席の黒人女性に対し差別発言、暴言を投げかける男がいる。興奮した男は今にも暴力までふってもおかしくない様子だ。女性の危険を感じたポールはその間に一歩踏み込んだ。男の注意はポールに向き、興奮は収まらない。間に入ったためかなりの至近距離、男は依然として今にも襲いかかってきそうな雰囲気である。ポールは優しく、静かに男の肘に触れる。「君、座りなさい。」そう言うと、男は呆気に取られつつも、「ありがとう」そういってポールと共に座席についた。しばらくすると男は事態の不自然さに気づき再び興奮した様子で立ち上がり、ポールの前に歩み出る。男は手を振り上げて、力を込める様子を見せる。今度は、ポールの方がさらに一歩踏み出て、「もう行きなさい。」と言った。今度もまた男を戦意を失い、一人電車を後にした。

という話である。それほど長い時間の出来事ではない。ポールは自分より身長が低く小柄、170センチあるかないかといったところ、優しい顔をしている。ポールはこの二回男の前に立ち肌たかった瞬間、男の動きに合わせてなんの技をかけるか完全に想定できていたという。どちらの脚から動かすのか、手をどの方向に動かすのか。つまり、男の戦意を消し去ったのは、ポールの「意志 intention」であった。もし仮に男が動きを見せたとしても、ポールの技によって返り討ちになっていただろう。その意思と結果が共通する時、その意思が実現・体現される必要はもはやないのである。武道の達人同士の試合では立ち会っただけで勝敗がわかるというような逸話はよくある。当然合気道を知らない、ただの道ゆく(しかもロンドンの)男にでさえ、その技は意思と一体化することで伝わったのである。言い換えれば、意思と技とが一体化した時、つまり心身の結合がなされた時それはそのものの存在そのものに影響を与えるのである。俗にいうところのプレゼンスだとか、オーラだとかいう類のものでもある。

ポールは合気道の一つのゴールとして、戦わずして戦いをおさめることを掲げる。そしてこの例の通り、それは意思と技との一体化、心と身体が一つになる「心身一如」によって為されるのである。

次回は、能における心身一如を見ていく。

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