不要不急。無価値な芸術。

 コロナ禍は現代社会の日常を奪った。当然のその影響は芸術にも及び、結果的に我々は芸術家は、芸術の価値や意味について議論することを強いられたわけである。お金がもらえないから、コンサートができないのだから「芸術は不要不急」とみなされたという解釈自体が、音楽家自身も芸術を資本主義構造における消費の対象と見做しているというパラドックスを明るみに出したと思う。(ここでの芸術というのは主に音楽の、特に僕のやっているクラシック音楽のことですが。)

 芸術界のお金まわりは良くない。よくあるのは、芸術家の賃金の議論においても、二言目には練習時間や費やしてきた時間のことを挙げる例である。賃金の議論が始まった時点で、産業的な視点から見る必要がある。「では半分の賃金で半分の時間で作ってください」ってそういう話になるのは当然だし、演じている側も一度にどれだけ多くの仕事を抱えられるかという貪欲な姿勢を見せているのである。現に音楽教育は、果たしてどのように短期間で「高品質」な音楽家を生むか、忙しいスケジュールの中でどのようにして「対価」に応え続けるかということにフォーカスしているように思う。

 問題の根本は芸術界という広い視点で見た時に、業界自体ににお金が入らないということである。その中で音楽産業の模範に近づこうと努力する音楽家と音楽家に毛の生えたみたいな醜悪なビジネスマンもどきが搾取をし合っている。産業的な仕組みのまま芸術を「繁栄」させるには、投資家の出現を待たなければならない。産業に投資する場合、そこに経済的価値を生み出す必要が出てくる。経済的価値を生み出すとき、そこに芸術家の姿はなくて、ビジネスマンと需要や要求に応えるための操り人形とかした「音楽家」が現れる。この時になってさえも、この「音楽家」はゲームを楽しむ子供のようにただ音楽を楽しんでいると自覚し、自分は芸術をしているのだと豪語し続ける、彼自身が音楽を「消費」する。

 次に芸術を「文化」と捉えた場合、最大の保護者は国家である。とはいえ現代における国家はその経済力を、幸福や繁栄の計りにしているわけで本質的な差はない。さらに、国家における独自の価値があるとすればそれは旧時代の名残りである(そう思いたいだけかもしれないが。)ナショナリズムであろう。例えば、ドイツの芸術のあり方はしばしば模範的な例だと言われる。ドイツは国をあげて伝統の保持から常に新奇的な芸術を産み出すことに惜しみない。これを「文化」の繁栄と呼ぶか、はたまた、誰が先に月に上陸するかという競争への執着と何らかわらないものなのか。

 ここで真の芸術家が、文化でも産業でもない純粋な芸術を目指したい時、議論の前提として立つのは「芸術は本来の何の価値も持たない」ということである。そうでなくては、社会的価値を塗り替える芸術は生まれないし、「芸術家」という肩書きは産業的、国家的意味なしには成立しないのである。無価値となった芸術に意味はないのだろうか。否、言葉がその人だけでは意味を持たぬように、対話が新たな意味を作り出す。それは誰が予期するものでもない、「無」を追求した先の衝動と衝動のぶつかり合いなのである。


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