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ストリートフォトグラフィー

変わらずストリートで撮っている。

いやストリートで撮っているというよりも、いつでもカメラを持ち歩いているから、ストリートが多めに写っていると言ったほうが正しい。

今、撮影仕事からは遠のいているので、ほとんどスナップ写真しか撮っていない。もちろんスナップ写真写真を撮って稼げるはずもないから、ただただ写真が量産され、ライトルームの容量を食っていくばかりである。でもそれでいいと思っている。

移動して、撮って、山を登ったりして撮って、また街に降りてきて撮って、のどが渇いたら酒を飲む。小説を読んだり、新書を読んだりして、飽きたらまたぶらぶら歩きながら撮って、というような日々を過ごしている。それってまるで老後だな、と思いながらもこれからは老後のような日々をいかに過ごすかが問われている気がしている。

私たちは確実にポストコロナ時代に入っているのである。

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スナップ写真、あるいはストリート写真というのは誰にでも開かれている。

個人的には、新しいフレーミングや、奇抜な被写体よりも、誰が撮っても同じように見える写真が好きだ。平凡といえば簡単だが、平凡の中に時間と場所だけを内在しているような写真。あの日こんなことがあったなと、私的な日記のように見える写真。最初見た時は、そんなにいい写真に見えないものが、時間を経て見返してみると、だんだんよく見えてくるようなスルメのような写真。

そのように、できるだけ普通で平凡な写真にするために心がけていることは

・いつも同じカメラを使う。
・レンズを変えない、同じ35mmレンズを使う。
・立ってカメラを構えた高さから撮る。俯瞰したり、あおったりしない。

ということくらいだ。

そしてそれを実現するためには、やはりフルマニュアルのM型ライカが適している。どこまでも無骨で、余計な味付けや飾り気がない、道具としてのカメラ。毎日持ち歩いても飽きのこないカメラ。それがM10-Dだった。もう2年ほど、これひとつである。

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人だけでなく、とにかく気になったものは何でも撮るようにしている。

ストリートで物撮りする、と言っている。

東京は不思議な街だ。全てが海外かどこかから持ってきたもので、ハリボテのように見えてくる。僕らの人生を彩る舞台装置とも言えるが、とにかく全てが薄っぺらいのだ。歴史もなにもない。そのようなもので街は溢れている。でもそれが東京っぽいなとも思う。

ウィリアム・エグルストンなら、このような被写体をどう撮るだろうかと考えたりもする。あるいはロバート・フランクだったら、東京のカフェにある電源の入らない飾りもののジュークボックスに、何か特別な意味を見出すだろうか。それとも全く撮らないだろうか。

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冬の光というのは、ドラマティックな場面を生みやすいが、照射時間が短くコントラストも高いので扱いづらくもある。

渋谷のようなビルが入り組んだ街では(東京の街はだいたいそうだが)ほとんどの時間帯で、光が部分的にしか当たらない。

影の露出に合わせるのもよいが、太陽光の露出に合わせるのが好みだ。職業柄か、ハイライトを飛ばしたくないという気持ちが昔からある。極端にアンダーに見えてしまうのも、ライカらしくてセクシーだなと思う反面、多くの人はこのような写真を「失敗写真」と思うかもしれない。

だが別にそれもどうでもよい。

クライアント仕事でもないし、どこかの写真賞に応募するわけでもない。であれば、自分の欲求にとことん正直に、好きに撮ったほうが写真は楽しくなると思う。

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ストリート徘徊中に、知人に出くわした時は、恥ずかしさと嬉しさが同居する。

人に見られちゃまずい仕事中を見られた時のような、そんな感覚がある。

町中で撮影隊に遭遇することも良くある。商業的な撮影の時もあれば、プライベートな作品撮り的なことをしている人もいる。今では誰もがフォトグラファーであり、モデルなのだ。

そちら側にいない僕は、ただひとりのストリートフォトグラファーとして、ストリートに存在していることを思う。

レフも使う必要がないし、レンズも交換する必要もない。

モデルに指示を出して、思い通りに動いてくれないことに苛立つこともないし、ヘアメイクに出した指示が思い通りに仕上がってこなくてテンションが下がることもない。そして、スタイリストが持ってきた変な服に落胆することも無い。

そのように考えると、ストリートフォトグラファーはこの世界で最も自由な撮影者ではないかと思う。

ただ目の前にある、自分の撮りたいものと出会った時に、シャッターを押しさえすれば良いのだ。場合によっては撮影は10秒で終わる。

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街を徘徊すると、様々な花に出会う。

それで季節が移り変わっているのを知るし、良い光の状態の中にある花を見つけた時は幸せな気分になる。

ズミクロン35ミリのスクウェアレンズフードをつけないと、上記のようなハレーションが入りやすくなる。レンズの長さもコンパクトになって取り回しもしやすくなるので、おすすめだ。

コントラストの低下や有害光を指摘されても、気にしないことだ。コントラストがそもそも高いレンズなので、少しくらいハレたほうが良い結果を生むこともある。

花を持って歩く人を見ると、なんとなくパリを思い出す。数年前、パリでスナップした時には、バゲットや花を抱えて歩く人を目にした。

そんなことを考えながら、2021年の今、ここ東京でシャッターを切っている。

イメージとは裏腹に、全くおしゃれな写真にはならないのだが、なんとなくそれがおかしくて、愛おしく思えるのだ。

ああこれこれ、写真だな、って。

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