Leica Q Typ116
Leica Q というカメラを導入した。
ライカはフィルムのMPをしばらく使ってきたが、フィルム環境が回らなくなり、撮影システムを全てデジタルに切り変えると同時に泣く泣く手放した。今まで使ってきたカメラの中で、最もしっくりくる、そして愛着と写欲の湧いたカメラだった。ライカという誇張されたブランドイメージの裏側にある精神に触れた瞬間でもあり、少しだけその本質を理解できたように思う。カメラは、実際に使ってみなければ分からない。
その後は当ブログでもまとめた、フジのx100fをスナップカメラとしてよく使用してきた。
写真を始めた当初から35ミリのスタイルが好きだ。コンパクトな35ミリというスタイルは、初心者が入りやすいところでもあるが、入ってみると奥深い迷宮であり、写真の真髄が宿る場所だとも思う。ハッセルやマミヤの中判も、トヨフィールドのシノゴも使用してきたけれど、結局いつも35ミリに戻ってしまう。これから先、プロジェクト単位で異なるフォーマットを使うことはあるかもしれないけれど、結局死ぬ間際に持っているカメラは35ミリなのかもしれない。こればかりは、食と同じように、個人の好みの問題なので、もうどうしようもできない。
世界が終わった後、瓦礫と煙の中からひとりの男が立ち上がり、声にならない声で奏でるものがロックンロールだとするならば、その男が片手に持っているボロボロのカメラ、それが35ミリのライカなのだと思う。
Mシリーズの安定感を既知の上で、なぜあえて一見半端に見えるQを選ぶのか。
それは僕が新しいもの好きということもあるけれど、Mという伝統的なスタイルを自ら乗り越えようとしているライカ社の壮大な実験に、ひとりの撮影者として加わってみたい。そう言うと横柄かもしれないが、単純にそんな好奇心からだ。
光学ファインダーを廃している時点で、もうそれはライカではない。それは撮る前からわかっていた。でもその先に一体何があるのだろう。エンジニアは撮影者にどのような撮影体験を提供しようとしているのだろう。
フィルムと同じサイズ感のデジタルM10が発売されたので迷ったが、Qは既に薄く、フィルムライカと同じ幅である。
正面、トップ、背面とも、Mを継承しながらミニマルなデザインは変わらない。無駄を極力排し、撮影だけに集中できる、堅固な道具としての佇まい。そこはいくらデジテルで新しくなっても変わらない魂だ。
トップはシャッタースピードダイアルと、露出ダイアル、右の小さな赤はムービー用録画ボタン。
背面やメニューはM同様なので、Mを使用している人は迷わず馴染む。右側のセレクターボタンの小ささと位置は、グリップした時に当たらないサイズ感になっている。そのような考えられた細部のデザインに、ライカの精神はしっかりと宿っている。
2400万画素のフルサイズセンサーに、ズミルックスF1.7の28ミリレンズが固定式で付いている。
レンズ交換の出来ない、フルサイズコンデジ、しかも28ミリ。
いや、癖がありすぎる。
競合するところはシグマDP1あたりだろうか。
M型ライカとは全くの別物と捉えた方がよい。
フィーリングはレンジファインダーなのに、中身はコンデジという、なんともハイブリッドな機種は、他メーカーのミラーレス使用者や、入門者にとっては入りやすいところかもしれない。
まだ使用し始めて2週間程だが、既にしっくりきはじめている。
カルティエブレッソンは、記者に「なぜライカを使うのですか」という質問をぶつけられた時、このように答えたという。
「いつでも、ライカを手元に置いておきたいんだよ」
ポータブルで機動力のあることが35ミリカメラの魅力であることは、70年前のブレッソンの時代と変わらない。更に現在は、デジタルテクノロジーによって画質も両立できる時代となったのだ。
これからどのような絵を生み出してくれるのか、模索していきたい。
いつも応援してくださる皆様に田中常丸は支えられています.本当にありがとうございます.