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楽になるための劇薬



私たちは固定概念の中でしか生きられない。

というより、人間の集団生活を作っているのが集合的な固定概念でなりたっていると思い込んでいるから、みんなと同じじゃないと生きられないと思い込ませる。

しかし、そもそも生きるとはなんだろう?

生活ができている、ということだろうか?社会的に認められているということだろうか?

21歳の時に刑務所に入れられ、60年間刑務所で暮らしていた人間がいる。

仮釈放を言い渡しても誰も引き取ってくれないので外に出れないのだ。

この人にとっては、外の方が生きづらい状態で、刑務所のほうが生きるのには適している。ある意味で彼が社会に適合できたのは唯一刑務所という社会だったということだ。

小さい子供は本当に大変で、親や周りの力が働かないと移動もできないことが多い。これこそがまさに生きられない状態だ。

娘から学校で他の学年でイジメがあっただの、なんだの聞くと本当に子供の頃は生きづらかったなということを思い出して胸が苦しくなる。

私には知的障害者の認定をもらっている弟がいる。弟は現在は障害者向け雇用を受けてある会社で働いている。

いまでこそ、彼はある種の社会性を認定されて暮らしている。大企業に雇用されているという意味ではある種のカテゴリでは勝ち組かもしれない。

ただ、そこに至るまでには家族という社会が彼を受け入れるのに

猛烈な葛藤とコスト

を払っている。

事実私は、毎日将来に薄い絶望感を持っていた。どこにいっても家族という社会通念は監護者としての義務を持たなければいけないのだ。

これは介護などをしている人も同じ気持ちなのではないかと思う。だから介護を苦にして一家で心中すると言う気持ちも共感できる。

ここで綺麗事を言うようだが私は弟によって強く生かされていたと思う。もし、彼がいなかったら私は優秀な高校にいこうとか、起業しようとかのある種のガッツはあっただろうか。

よく教えるのが上手ですね、とか子供や動物と仲良くなるのが得意ですね、だれとでも会話できますね!と言われるのは弟との16年間があったからの産物だ。

話せない、理性が少ない人間と同じ部屋に16年間もいれば何を伝えようとしているかや、どう話せばいいのかは英才教育レベルで習得できる。

ただ、ここでいうのはあくまで陰陽的な、

「嫌なことがあったから良いことがあったよね。」

というレベルの話に過ぎない。良いことと言う概念は悪いこととのセットであるからだ。

はっきり言って乗り越えられなかった人もたくさんいると思う。

嫌なものは嫌だ。

もう一回やれと言われたら嫌だ。

これはマッチョに「なぜムキムキなんですか?」と問うたら「家がジムで、無理やり鍛えさせられたんですよね」と言うレベルの話だ。

その彼にもう一回、ガリガリになって鍛え直すとしたら?と言われたら断る人もいるだろう。というか私なら断る。

今回の話はむしろその先にある。

乗り越えられなかった人間が社会的に問題があるのか、といわれると問題はあるかもしれないが、不幸に思う必要はないということなのだ。

無理やり我々は社会というゲームに参加させられている。鬼束ちひろの「月光」ではないが腐敗した社会に産み落とされたのだ。

そこでビーカーに培養された細菌群のように、社会的な刺激によって右往左往しているだけの存在なのだ。

だから障害を乗り越えたから幸せになれるとか、不幸になると言うことは完全に「そう思え!」という社会通念の圧迫なのだ。

しかし、この圧迫というものから最近は少しだけ息ができるようになってきた気がする。

なぜかというと、その圧迫の9割がたはあまり生活にも幸福度にも関係がないことを学習したからだ。

周りにとってあまり良くないかもしれない。

こういう人間はコントロールしたいと思っている人からしたら、劇薬を飲んでオレが良いと思ってるからいいんだ!と主張している人間に見えてしまう。

誰からそんなワガママな人に見えてしまうのか?それは圧迫する側からの視点なのだ。

25歳までは社会とは、このような圧迫でできているのか!と、両手両足を縛られていないのに動いてはいけないと言われる人間社会に絶望したりもしていた。

30歳までは、自分の向いている圧迫社会を見つけてそれを乗り越えたりすることに必死になっていた。

34歳くらいからは自分からの圧迫に気づき解放していくことを行なっている。


そしてなんだかんだ言って、人の期待に応えたいと思う自分と、それができない自分に折り合いをつけていく30代後半を迎えられたら良いなと思う。

そんな我儘な人間になるためのヒントを今度の新宿の会で伝えられたら良いなと思う。

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