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老いらくの恋 第10話

古代史に恋しています。
国引き神話(くにびきしんわ)は、出雲国に伝わる神話の一つである。
古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれている。
おおざっぱに言うと、当初出雲の国は手狭であった。それで神は志羅紀(しらぎ)や高志(こし)などの土地を引き裂き引っ張ってきて現在の出雲の国とした。
注目すべきは志羅紀(新羅)から国を引っ張ってきた記述です。
出雲と新羅との近しい関係が読み取れます。地図を見ればよく理解できます。
新羅の都は慶州で朝鮮半島の西海岸沿いにある。海を越えれば出雲地方、高志=越のくに(北陸、新潟)に行き着きます。
出雲を南下すると岡山〔吉備の国〕。
古代朝鮮半島から日本に渡るルートは、一つ目は百済を出発して九州博多に渡り、瀬戸内海を東進するルートと、二つ目は新羅から出雲(山陰)北陸、越の国をたどるルートがあったように考えられます。
ここからは土岐の独断な説ですが(あまり信用しないように)、出雲王朝は新羅系の王朝、瀬戸内海から大和までは百済系の王朝が生まれたと考えます。
古代日本は、百済系王朝と、新羅系王朝が覇を競っていた。
こう考えると出雲の国譲り神話が理解できる。
国譲りを簡単に言うと、天照大御神(あまてらすおおみかみ)さまは、孫の瓊々杵命(ににぎのみこと)に豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)を治めさせようと考えられ、建御雷神(たけみかずちのかみ)と天鳥船神(あめのとりふねのかみ)に命じて、様子をうかがわせてみました。
二柱の神は、出雲の国稲佐(いなさ)の浜に降ると、剣を抜き、その剣を波間に逆に刺したて、その先にあぐらをくんで座りました。
そしてこの国を治めている大国主神(おおくにぬしのかみ)に、この国を天神(あまつかみ)の御子(みこ)に譲るかどうかを問いました。
大国主神はしばらく考える様子でしたが、もし自分の子どもたちがよいというのであれば、この国は天神の御子にお譲り致しますと答えました。
これは百済系の人々が新羅系の人々から出雲地方を取り上げる事件をさしています。当然のその過程には武力行使もあったはずです。
岡山地方にのこる温羅(うら)伝説もその一環でしょう。その伝承は「崇神(すじん)天皇の時代、百済(くだら)の王子・温羅が吉備国に飛来して吉備 国新山に居城を構え略奪を行いました。
そこで大和朝廷は吉備津彦命(きびつひこのみこと)に、温羅討伐を命じます。結局温羅は戦いに敗れます。この話が桃太郎の鬼退治の元になったのでしょう。
私〔土岐〕は、上の百済の 皇子温羅 の部分は間違いだと思います。
温羅は新羅系のリーダーだと思います。注目するのは「羅」の字です。
韓国語で「国」を表すのは「なら」です。新羅は新しい国と読めませんか?
韓国に全羅道(ちょるらど)なる地名があります。この羅は国、あるいは邦を意味するかもしれません。
大和朝廷は百済王朝の、いわば出先、亡命政権だったのかもしれません。
百済の亡命政権だと考えると天智天皇の白村江出兵も理解できます。
以上の考えは土岐のまったくの空想ですので、信用しないように。

余談、奈良興福寺の国宝12神将のお名前は、毘羯羅(びから)大将 招杜羅(しょうとら)大将 真達羅(しんだら)大将など全員「羅」の字がついています。何故でしょう?
こうやって、埒もないことを考え、時を過ごす。年寄りの楽しみです。

吉備津神社 備前の国一ノ宮
吉備津神社の回廊 備中の国一宮 手を振っているのは節子

備前、備中の一宮は、約kmほどしか離れていません。
おそらく全国の一宮でこんなに近距離にあるのはここだけでしょう。

これは備中国分寺


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