朧な花霞の下、きみと

 命短し、恋せよ乙女。

 その短い花の時期を、桜は誰に恋するのだろう。

 風に、花びらが散る。髪の毛と一緒に、顔に降りかかる。手で髪の毛をかき上げながら、見上げる桜の花は、今を盛りと咲き誇っている。

「綺麗だねぇ」

 キョウコがのんびりと言う。わたしは花の短い命を、一瞬忘れそうになる。

「うん、綺麗だ」

 わたしとキョウコは、夜の桜並木を歩いている。大学のゼミ室からの帰り道、ビールを二缶買って。川沿いの並木道、暗闇の中に夜目にも白く群雲のように浮かび上がる、桜の花房。

「今が一番いい時かな」

「そうかもしれないね」

 ぷしゅ。音をさせてわたしはビールのプルタブを上げる。キョウコは缶を温めるように両手で包んだまま。

「温くなっちゃうよ」

「うん、いいの」

 キョウコは柵にもたれて、桜の花を見上げた。わたしも倣って柵にもたれる。

「ほら、川に」

 キョウコが指さす。桜の枝が川面に長く垂れている。水を一途に求めて、その腕を伸ばすように。

「不思議だね。反対側には、全然伸びないのに」

「桜は水をこのむっていうから」

「そうなの?」

「うん。水っぽい土地に育つらしい」

「ふうん」

 わたしは一口ビールを含んだ。

 桜は水を恋するのだろうか。だからこんなに、水面ぎりぎりまで枝を伸ばし、うつくしい花を咲かせるのだろうか。

「花の色は移りにけりないたづらに」

 キョウコが謡った。

「小野小町、すき?」

「ううん、別に。ただ、嘘みたいだなあ、って思って。今、こんなに綺麗な桜を見ていると」

「でも、来週になったら、もう見れないね」

「そうだね」

 キョウコはビールの缶をゆっくり手の中で転がす。

「卒業して、来年の今頃、わたしたちは何してるんだろうね」

 わたしは呟いた。就職できなくて、何のあてもなく、でも、現実味がない。桜のような、儚さ。散って、風に流れて、その先どこへ行くのか知らない。怖くもないし、不安でもない。ただ、この短い春の季節が終わったら、この世界もおぼろげに霞んでしまいそう。

 キョウコは、四月から大学院に進む。

「わたし、サトミのこと、すきよ」

 キョウコがわたしに真っ直ぐ向き直って、すらりと言った。ざあっ。風がキョウコの髪の毛を巻き上げ、桜の花びらを散らす。

「きっと、来年もその先も、どこにいても何をしていても、サトミのことがすきだと思う」

 わたしはもう一口ビールを飲み込んだ。ほろ苦い。桜を見ながら転がすビールは、なぜこんなにほろ苦いのだろう。

「わたしも、キョウコのことすきよ」

 でも、ごめんね。キョウコのことも、おぼろげに霞む世界と一緒に、遠く消えていってしまいそう。

「多分、サトミはわたしのことすきじゃないね」

 キョウコはやっとビールの缶を開けた。すっと一口飲む。

「お互いがお互いをすきであることなんて、一種の奇跡なんだと思う。でも、わたしはサトミがすき」

「わたしはどうすればいいの」

「別にどうも。ただ、そう言いたかった」

 キョウコは泣きもせず、笑いもせず、風に流れる桜の花びらが、まるで舞台の花吹雪のように。

「……桜、来週になったら、もう見れないね」

 わたしはもう一度言った。

「うん。でも、幹が朽ちない限り、いつまでも、毎年、桜は咲くのよ」

 キョウコはまた川に向き直り、柵にもたれた。わたしは川面に伸ばされた桜の長い枝を見た。

 命短し、恋せよ乙女。水に恋する、白い桜の花。

 わたしはまだ恋を知らない。誰にも。この世界にも。

(「爛漫乙女selection -bitter-」より抜粋、加筆修正)

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