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『むらさきのスカートの女』の感想

『むらさきのスカートの女』を読んだ。こういう「語り手がある誰かについて詳細に語っていくうちに、むしろ語り手の側のおかしさが浮き彫りになっていく」みたいな本を他にもいくつか最近読んだ気がしていて、たしか『エドウィン・マルハウス』もそんな感じだったと思うのだけれど、この『むらさきのスカートの女』はそれがじわじわ浮き彫りになるというレベルでもなく、初っ端から語り手の方の異常さが全開で示されていくのが面白い。主人公に関する情報が直接的に描写されることは終始ほぼないのだけれど、なんでお前もそこに“居る”の?と何度も何度も問いたくなるくらいに「むらさきのスカートの女と友達になりたい」と偏執的に彼女に付き纏う語り手の様子は、文章で語られるむらさきのスカートの女のおかしさを早々に追い越してしまい、読み手としてはこの明らかにおかしな女の視点を借りてむらさきのスカートの女というこれまたおかしな女の日常を観察する、というなんだかよく分からないことになる。途中語り手がヤバすぎてむらさきのスカートの女、全然普通じゃないか?むしろ良い女なんじゃないか?なんて思えてしまうのだけれど、そういう訳でもなかったりして、そうすると何がおかしくて何が普通なのかも分からなくなってきて、ずーっと分からないまま面白く読まされてしまった。ちょっとコンビニ人間を思い出した。自分もこんな風に誰かに観察されていて、行動や振る舞いを詳細に記されていたらなんてことを想像してしまい怖くなった。「“白いTシャツの大男”は珈琲館で完熟珈琲を飲みながら『むらさきのスカートの女』を黙々と一気読みしていた。二杯目が半額になることを良いことにおかわりでマンデリン珈琲まで頼んでいた。」

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