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信仰もそんなに悪いもんじゃないvol.6「宗教者の務め」

信仰3世で、元宗教家という立場から、かなり赤裸々に信仰についてのコラムを綴っています。
これまで5篇まで書いて、なかなか言葉にできてこなかったものを書き起こせたことには個人的には満足しているのですが、書けば書くほど足りないというか、どうも正しいニュアンスで伝えることが難しい事柄が多くて悩ましくもあります。

ちょっと今回は切り口を変えて、エピソードを一つご紹介させてもらいます。

宗教家としての人生を全うした祖父と、とある女性とのやり取りの記録です。


宗教家といっても宗派も違えば本当に様々で、一概にくくれるものではないですが、人の心に寄り添って悩みに耳を傾けて、何かしらの助けとなれるような言葉をかけることが、一つの大切なお勤めであったりします。

私の祖父もそういった人と人との関わりに生涯をかけて携わってきた人でした。

生前の祖父がとある女性とのやり取りを記録していたので、差し障りのないように注意しつつ、私なりの文章に変えて綴らせてもらいます。

信仰に携わる現場の実際の一例として。



女性は早くにご主人を亡くし、20代の娘さんとの二人暮らし。母一人、子一人で暮らしていました。

母親は数年前から腎臓を患い透析を受けていましたが、病状はますます悪くなるばかり。ある日、医者から移植手術をするほか健康になる道はないだろうと言われました。

それを知った娘さんは、自分の腎臓をお母さんにあげようと決心しました。

女性は娘のことが心配でなりませんでした。まだ嫁入り前、本来なら青春を謳歌する20代の若さで、その身を犠牲にしようとしている。自分のために娘に何かあったら、耐えられない。とはいえ、移植以外に道はない、と医者は言う。一体どうしたら良いのか…
そんな深い悩みを携えて、その女性は何度も何度も
祖父の所に相談に来ました。

その度に祖父が伝えたのは、「娘さんの誠意を受け止めてあげることがお母さんの愛情なのだ」ということ。つまり、自分のために手術するのではなく、娘のためにこそ手術を受けるのだということ。何度も何度も、女性の言葉に耳を傾けて、悩みに寄り添い応え続けました。

女性は迷いましたが、娘さんの気持ちに応えて腎臓移植手術に臨みました。
手術は無事に成功し、母子ともども元気に幸せに暮らしている、とのこと。(めでたしめでたし。)


この母子の深い愛情に触れて、祖父は以下のようにコラムを綴っています。

「愛とは、自分を犠牲にし、相手のために捧げることだと思う。だから、その犠牲に多少でも自分の下心があるようでは、真実の愛と言えないだろう。本当の愛は、相手の喜びを自分の喜びにすることだと思う。
また、愛は、自分が相手に魅せられ惹きつけられる感情だから、相手に求めたり相手から求められたりする類のものではないと思う。
近頃の世の中は、自分を優先して相手のことなど後回しにする人が多くなっている。そんな時代に、この娘さんの母を思う心は、愛の鑑と言えるだろう。」


生きていれば人は誰しも悩みを抱えます。誰にも打ち明けられないような、誰に応えてもらったものか検討もつかないような、深い悩みです。
「私はそんな悩みなんかない」「私なら何でも自分で解決する」そんなこと言い切れる人はいないと思います。
どうにかしてそんな深い深い懊悩煩悶に応えようというのが宗教家としての務めです。

懸命に、祈りながら、
「どうぞこの方の心に届く言葉が授かりますように━」
そうして得られた一つの体験を、また多くの人の教訓として共有していきます。一人でも多くの人の心に響くように。


「信仰もそんなに悪いもんじゃない」と題してコラムを綴っていますが、やっぱりつくづく、信仰って悪いもんじゃないと思います。
信仰の場において紡がれる人と人とのつながりは、宗派や信条に関わらず素晴らしいものだと思いますし、そういう人との関係性こそ現代社会で必要とされているもののはずです。本当は。

そんな訳で、これからも色々と試行錯誤しながら、コラムを綴ってみようと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

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