映画『ミッドサマー』の感想、現代社会の闇を描く明るいホラー映画

映画『ミッドサマー』のディレクターズカット版を見たので感想を書いていこうと思う。

事前情報はネットフリックスのあらすじを読んだくらい。あらすじからは「カルトな村に行ってしまった若者の話なのかな?」ということがなんとなく伝わってくる。この時点で結構期待値が高かった。というのも自分はこの手のカルト的な集団の話が好きだったりするからである。もちろんリアルでそんな集団とは関わりたくないけど…

実際に見てみると予想通り良い感じのカルト村。謎に残酷な処刑方法やちょっと狂気を感じるような明るさがいい感じのカルト感を漂わせている。ジワジワとだんだん狂気的になっていくのが良い。今まで見た映画の中でも結構好きかもしれない。

ホラー映画だと「とりあえず暗くしとけば怖いでしょ」というような感じの作品が多いと思う。そういった作品も演出が良ければ面白いし、実際に面白い作品も多いとは思う。だけど本当に怖いのは明るいホラー映画。光の明るさ関係なくゾワッとするのが真の怖さなんじゃないだろうか。

媒体は違うけどフリーゲームの『カイダン実ハ。』なんかも情景は明るいけど狂気的な村が主題で結構好きだった。全員がそうかわからないけど少なくとも自分はパニック映画よりもこういう日中の気味悪さを描かれた方が好き。


印象に残ったシーン

この映画で印象に残ったシーンは結構多い。例えば、陰毛が入った食べ物を食べる場面。村に来て最初の方に漫画みたいな絵柄で匂わされていたけどなかなかすごい発想だと思う。

あと性行為のシーンも衝撃的。セックス中に後ろでああいうことされると逆に萎えそうな感じがするけどあれは何なんだろう…

逃げないように見張りをしているという感じでもないだろうし本当に謎。後ろにいる人たちが若い女の子ならわからなくもないけど結構おばあちゃんみたいな人もいたりするし…

だけど映画としてはあのシーンで集団が喘ぐと絵になるというのはあると思う。より狂気度が増すしカルト感倍増してると思う。ただ実用性は絶対ない。

あれで興奮するのは特殊性癖だけだと思うのでクリスチャンは特殊性癖。
クリスチャンのAV履歴とかが村の人たちに知られててそれに合わせた演出がされているのかもしれない。

こういうシーンなどは生活に密着した狂気という感じで結構好きだったりする。社会を存続させていく以上、性的なことはつきものなのでそういったところも風習で定まっている。生活にそういう狂気が挟まっているのは結構好き。


疑問に思ったところ

疑問に思ったところとしては村人たちが自分たちの村の風習に対してまったく疑問を感じていないところである。完全に閉鎖的な環境なら自らの風習に疑問を持たないという設定もわからなくはない。実際の世界でも閉鎖的な環境に置かれた人はどんどん思考が閉鎖的になっていくと思うからだ。

ただこの映画の設定的に18~36歳の間は村の外へ出て生活をするので、ここまで村の思想が統一されているのはなんか違和感を感じる。村の外へ出た人たちが18~36歳の間に思考が変わって村のことを世界に公表してもおかしくないんじゃないかとも思うんだけどなぜかそういうことは起きてない模様。

この辺りは主人公たちを村に招き入れる友人のペレという存在を一般社会の中に登場させないといけないので脚本上仕方ない部分なのかもしれない。それとも家族を人質にとられているとかそういう設定があるのだろうか?それにしてもおかしいような気はするけど。主題とはあまり関係ないので意味のない指摘かもしれないけど気になった。


テーマに関して

上記で挙げたようにこの映画は冷静に考えると結構設定に穴があったりするけど、監督や脚本の人の主題はそこにはないのだろう。そのあたりの矛盾点をツッコむのはそれはそれで面白いと思うけど、この映画で監督たちが言いたいことも汲み取ってみようと思う(まぁ矛盾点というほど違和感のある設定でもないし物語として許容範囲だと思うけど)。

なのでここからはこの映画のテーマなどについて自分が感じたことを書いていこうと思う。ただ「テーマはこれです!」という感じでわかりやすく提示できる映画でもない気がする。

この映画は現代社会の問題点を別の社会を持ち出して暗に示しているんじゃないかと思う。「暗に示している」というほど婉曲的ではないけど現代の人同士の距離感の冷たさみたいなものを批判しているように思える。

この映画の監督は「ファンタジーあふれる恋愛ドラマ人間関係のドラマであり失恋映画です」とか言ってて、「何世迷い事言ってんだ…?」と思ったけどあながちわからなくはない気がする(余談だけど『さよならを教えて』のライターの人もkanonを参考に作ったとか言ってるらしいので狂気的な作品を作る人は感覚がちょっと変なのかもしれない)。

この作品では主人公のダニーと彼氏のクリスチャンとのすれ違いが結構な頻度で描かれる。ダニーは精神が不安定でクリスチャンはそんなダニーを持て余している。クリスチャン側から別れを切り出すほど嫌いではない様子だけど、それでもどちらかというと別れたいという感じが最初から伝わってくる。

ここで面白いのがクリスチャンがそれなりに善人として描かれていること。善人じゃなかったらダニーのことが面倒だと思った時点でダニーの気持ちを考えずすぐさま関係を切っていると思う。しかしクリスチャンは家族が死んだ不安定なダニーを気遣うくらいには善人である。

ただクリスチャンは「完全な善人」というわけでもない。多少の気遣いは見せるけど、完全にダニーの気持ちを汲み取って受け入れるというわけでもなく面倒に感じている。それは決して現代社会では悪いことではなくダニーのことが受け入れられないのも仕方ない面はあると思う。いくら恋人だとしても許容する限界はある。

現代社会ではクリスチャンみたいな「微妙な善人」という立場の人は結構いるんじゃないかと思う。自分の面倒にならない程度に他者にやさしく接する感じの人は多いんじゃないだろうか。別にそれは悪いことじゃないけどダニーみたいに精神が不安定な人にとっては自分を受け入れてくれる人がいないので地獄なのかもしれない。

対してカルト村ではダニーの悲しみが受け入れられる。村全員で喜びや悲しみを分かち合う。そういう社会は狂気的に見えるけどこの村では精神疾患は存在しないのだろう。この映画の監督としてはそういう「村社会的な人のつながりも現代社会には大事なんじゃないですか?」というようなことが言いたいんじゃないかと思う。

ただこの映画の場合、村社会的なつながりが大事だということを単に描いているというわけではなくそこに対しての批判も描かれている。というのも村は狂気的で現代的な視点から見ると明らかに異常だからである。

正しい用語かわからないけど村は全体主義的に見える。個人よりも集団の存続・幸福が追及され時に個人は無慈悲に殺される。閉鎖的な村社会のつながりはそういった負の面もある。この映画はそういった面もごまかさず描いている。

では「どちらの社会がいいのか?」というところまではこの映画では描いていないと思う。というかそれは人によると思う。作中の人物でいうとダニーにとっては幸せだけど他の人にとっては不幸なのだろう。

まぁ現実的に今の社会がすべて村社会的にはならないと思うので、結局は人間関係の希薄な現代社会で生きるしかないわけである。そういった人間関係の希薄さに対して目を向けて改善したほうがいいんじゃないの?というのがこの映画の言いたいことなんじゃないかと思う。


まとめ

矛盾点的なこととかも書いたけど正直大した矛盾じゃないので普通に面白い映画だったと思う。ホラー映画としては上質なんじゃないだろうか。ただアマプラの感想とか見てると冗長でいらないカットが多いという感想があったりするので人によっては退屈なのかもしれない。

ただ個人的にはあのだらっとした長さのカットがあってこそじわじわ引き込まれるように作られていると思うので、冗長さはそこまで気にならなかった。

人によっては退屈かもしれないので退屈になりやすい人はディレクターズカット版じゃない方を見たほうがいいかもしれない。まぁ感想読んでるのは見てる人しかいないと思うので意味のないアドバイスかもしれないけど。

まったく関係ないけどシャニマスアイドルがこの村に行ったらどうなるかちょっと想像してしまった。283プロの子たちの場合は現代社会でしっかり居場所を作って生きていくという感じなのでこういう村社会は必要ないかもしれないけどこの村に行ったらどういう反応するか気になる(特に雛菜の反応が気になる、村に行かなくてもいいので雛菜がこの映画観たらどういう反応するか見たい…)。

今思ったけど現代社会の問題点を描いていると言う点ではシャニマスもミッドサマーも近いかもしれない。まぁここまで考えると飛躍しすぎな気もするけど(最近シャニマスに思考が侵されがち…)

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