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芥川龍之介『葱』の感想

久々に芥川の全集(筑摩書房)を開いて短編を1つ読んだのでその感想を書いていこうと思う。

今回読んだのは『葱』という短編だ。タイトルを聞いたことがなかったのでそこまで有名ではないのかもしれない。

内容はあるカフェで給仕をしているお君さんという女の子がちょっとチャラい感じの田中という男とデートする話である。お君さんの年齢は15~16歳。ちょっとだけ夢見がちな女の子で、文学や音楽などの芸術鑑賞により日々の辛い生活を癒している。ベートーベンだと思って部屋に飾っている絵が実はウィルソン大統領だったりしていてちょっとドジな面もある女の子である。

デート相手の田中はチャラいと言いつつも、芥川の文章での表現としてはお洒落な感じの風貌が描写されている。チャラいというのはあくまでもこのブログの筆者の印象だ。風貌だけでなく職業も芸術家志望というところがお洒落だが怪しいと自分は感じた。が、文章内では綺麗な言葉で田中が飾り立てられている。芸術好きのお君さんの視点からすると田中もまたきらびやかに見えるのだろう。芥川の文章でもお君さんの視点から見た感じを演出するように、田中が華美に描写されている。

デートでは普段通らない小川町、淡路町、須田町などを歩く。田中に先導されるまま歩くお君さんの視点から見ると、それらの街は美しく非日常の景観が心を満たす。そのような夢見心地で目的地のお洒落な食事処へ向かう様子が描かれるのである。

ただそんな楽しいデートだけで終わらないのが芥川龍之介だ。個人的にはここからが面白い。

田中に連れられ歩いているお君さんはふと道端のとある八百屋に目がとまる。その八百屋の店頭に並んでいる葱の値札には「一束四銭」と書いてあり、思わずお君さんはこれを凝視してしまう。

当時はあらゆるものが暴騰していたらしく一束四銭という葱は滅多になかったらしい。なのでそれを見たお君さんの今までの「夢見心地」が一気に「実生活」というリアルさに上書きされ、田中を残して電光石火のスピードで葱を買い求めてしまう(しかも二束も)。田中も楽しんでいたデートが現実に上書きされてしまい、若干困惑している様子でこの物語は終わる。

芥川と言えば暗くどんよりした懐疑的な話が多いが、今回の話はこのようにギャグ漫画とかにもありそうな展開だった。しかしこれはこれで面白いと思う。夢見心地というような綺麗な理想をフリにしてリアルの得の方を優先する様を描いて落とすというのは漫才や落語でもありそうな感じがある。昔からこういうネタって使われているんだなという面白さもあって「理想フリ→現実オチ」パターンの歴史深さを感じた。

あともう1つこの小説の面白い点を付け加えるなら、この話はお君さんの主観で小説が構成されているのではなく、冒頭と終わりに小説家(おそらく芥川と同一)が「締め切り間近なのでお君さんの話を早く書かないといけない」という風に明け透けに語っている点だと思う。そのためこの小説は全編通して小説家の視点からお君さんのできごとを書くという形式になっている。

「締め切り間近なのでお君さんの物語を書かなければならない」とあえて書いていることで、これを書いている小説家すらも物語のロマンを追い求めているようで実は実生活のために書いているんだぞというのをメタ的に語っているように思える。考えてみるとこれはどんな小説にも言えることで、文面でどんなにロマンチックに書いていても、それを書く理由はロマンもあるが、たいていは実生活が介在していてそれ抜きでは完成しないことが多いだろう。原稿料や印税というリアル抜きでは小説は作れないのである。

というわけでいつもの小説のように懐疑的な話ではなく漫画的な話かと思いきや、実は小説に対する懐疑をしていたという、いつものお家芸(懐疑)をやっているのではないかというのが自分の見立てである。

もちろんそこを懐疑して意味あるのかと言えばそうやって書かれた小説により感動する人もいるし、それを知っても感動するという現象自体は変わらないだろう。なので小説に対する懐疑自体に意味はないと思うのだが、この小説の構造自体は面白いなと思う。

でもそんな構造なんてなくて、単にネタとして本当に締め切りだから入れている可能性ももちろんあるよなとも思う。このあたりはわからないけど「実生活」というワードをあえて強調しているので単なるネタではないような気もする。少なくとも自分はそうあってほしいと思っている。どちらにしろそういった解釈の余地もあって面白かった。

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