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2020年読んだ本トップ10



2020年はおそらくほとんどの人にとっては大変な一年であっただろう。家の中にいる時間が増えた人も多いだろう。
かくいう私もその例にもれず、そのおかげもあって今年も多くの素敵な本と出会えた。そのうちの10つをここで紹介したい。簡単な内容紹介と共に、自分がこれらの本を通して考えたことや新たに沸き起こった疑問についても少しばかり書いた。
順番は順不同で、ランキングはつけていない。そして、残念ながら、紹介できなかったものも数多くある。

私の内容のまとめ方や考察によくない部分があるかもしれないことは重々承知しているものの、それでも自分がインプットしたことをアウトプットすることに価値があると考え、本記事を書かきました。
反対意見や間違いの指摘も含め、いろんな意見や感想をお待ちしております。そして、ぜひ皆様のおすすめもお待ちしております。

◯上野千鶴子『女ぎらい』

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本書のタイトルにもなっているように、本書では「女性嫌悪」、学術的な用語を使えば「ミソジニー」、がいかに社会にあまねく浸透し、我々の視線や価値観を規定しているかについて論じた本である。このミソジニーは男性には「女性蔑視」、女性には「自己嫌悪」として立ち現れているという。男性間の友情、児童性虐待、皇室、家族など様々な場所で見られる女性嫌悪について本書は論じているが、こんなにも我々の社会が女性嫌悪に規定されていたのかとただただ驚くばかりである。そして、そのような社会の中で生き育ってきたため、否応無く(程度の差はあれ)すべての人がそれによって規定されている(私自身自分の身を振り返った時にぞっとするものがあった)。

さて、あまりにも幅広い内容について論じた本なのでなかなか簡単に内容を紹介できないが、ここでは「男性」にフォーカスをあてて本書の内容を幾ばくか紹介したいと思う。
本書において、上野はフロイト、セシヴィックなどを引用しながら、男性の友情(=ホモソーシャル)はミソジニー(女性嫌悪)によって成り立ち、ホモフォビア(=同性愛嫌悪)によって維持されると論じる。これを上野はさらに、平易な言葉で「男と認め合った者たちの連帯は、男になりそこねた男と女とを排除し、差別することで成り立っている。」と説明する。このような男性による男性の承認という構造の中で、いわゆる「男性らしくない」部分は「女々しい」「オカマみたい」として否定されるようになる。これを上野は「逸脱と多様性を排除した定型的なもの」と呼び、女性嫌悪(さらには同性愛嫌悪)に支えられている男性間の関係は、実は男性を窮屈な定型に押し込んでいるという。
フェミニズムやジェンダー論に偏った見方をもった男性(もしかしたら女性も)は往往にしてフェミニズムを男性を否定してくる何かとしてみる。これについて上野はこのようにいう。

誤解しないでほしい。フェミニズムが否定しているのは「男性性」であって、個々の「男性存在」ではない。もし「男」と分類されている者たちが、(中略)「丸ごとのわたしを肯定したい」と思うなら(中略)女がミソジニーと格闘したように、男も自分のミソジニーと格闘するほかないだろう。

ここで、上野が使っている「男性性」とは何かについて慎重に前後、及び本全体の内容を読んで考えなくてはならない。なぜならここでいう「男性性」を誤解してしまえば、「男性性の否定」という言葉ですら自分への否定と思ってしまうからである。そして、それはもちろん男性を「定型的なものに」押し込んでいるものである。
男性の不幸という現象は様々な数字によって裏付けられている。例えば、自殺者のうち約7割は男性で占められ、幸福度に関しても男性と女性の間で大きな差がある。この現象は一方でジェンダー論においてはしばしば「特権のコスト」として論じられるが、男性の不幸という現象からわかるようにフェミニズムやジェンダー論をなんらかの形で男性側が自分たちの幸せを広げることにつながる契機にできるのではないかと本書を通じて感じた。その意味で、本書は男性にとっても(そしてもちろんのこと女性にとっても)読む価値がある本なのではないかと感じた。

最後に上野氏があとがきで書いた言葉で締めたいと思う。
あとがきで上野が男性にとっても女性にとっても不愉快な本になるであろうことを認め、その不愉快さはあなたがミソジニーを空想的なものではなく、現実に存在する者だと知っているから感じるのであるという。そして、このような不愉快な本をなぜ書くのかという問いに対してこのように答える。

どんなに不快であれ、そこから目を背けてはならない現実がそこにはあるからだ。そして、わたしたちがそれを知ることによって、それがどんなに困難でも、その現実を変えられる可能性があることを知っているからだ。

◯宮台真司『制服少女たちの選択』

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社会学者の宮台真司が90年代に起きた援助交際・ブルセラブームを分析した本である。本書において宮台真司は援助交際やブルセラショップで自分が身につけていた衣服を売るなどの逸脱現象自体が問題なのではなく、あくまでそれが起きている要因である社会構造の変化などが問題とし、そこに社会システム理論に基づいて分析の焦点を当てている。
その分析によって様々な要因が明らかになったものの、中でも注目すべきはこれまで社会のコミュニケーションを支えていた共通前提の消失である。宮台は「道徳」と「倫理」の違いを、道徳は世間的なものに支えられるのに対して、倫理は自分の内面にある確かさによって支えられていると区別した上で、日本はこれまで自分と周囲が違わないこと、つまり世間的な道徳と自分がずれていないことによる安心をコミュニケーションの支えにしてきたという。しかし、それが70年代以降社会共同体の崩壊と消費社会の到来によってなくなり、社会が「島宇宙化」したという。
そして、これの島宇宙化した社会は今日までも続いており、宮台氏はその後も著書などでその点に触れている。

さて、本書から得られる帰結として、逸脱をする個人が悪いのではなく、一見逸脱にみえることは社会システムの変容の中で個人が最適な戦略をとった結果にすぎないのである。共通の前提がない現代社会において、我々は自らが必然的なものもしくは前提とみなすものを安易に他者に当てはめてはならず、共通の前提がない中でいかに他者とコミュニケーションをとるか、どのような社会を作るべきかを我々は考えなくてはならない。

◯真木悠介(見田宗介)『自我の起原』

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社会学者・見田宗介が筆名の真木悠介を使って書いた著書で、表題の通り人間の自我の起原を進化学などを動員しながら辿った本である。
ドーキンスが「利己的な遺伝子」と形容するように遺伝子は自己保存・自己複製を優先の命題とするため、本来遺伝子の乗り物である個体はそれに沿うような行動をとるはずである。それではなぜ人間をはじめとする一部の生き物は必ずしもそれに沿わないような行動をとれる「自我」を持つのか。これについて動物行動学、進化生物学の知を総動員して強い「自我」は脳の発達並びに集団で居住する群居性・社会性などを通じて獲得されたという暫定的な結論を述べるが、本書を通じて見田は「他者と共鳴する生」という生のあり方を見出す。一般的に哲学において<生>について論じるとき、単純に動物として生きていることを意味する生物的な生(古代ギリシャ語を使ってzoeと呼ばれる)と人間らしい文化的な生活を送ることを意味する文化的な生(古代ギリシャ語を使ってbiosと呼ばれる)という二項対立がよく持ち出されるものの、本書を通じてこのどちらとも異なる<生>の形式を見出すことができる。我々は他者(他の生物種も含む)と共存する中で、様々な経路を通じて、相互の生に影響を与え合う。それはウイルスの感染のような場合もあるが、ミツバチと花のように互いの生に利するような仕方で共存し合うこともできる。このように我々は同種個体間・異種個体間の関係の中で、我々は相互に生の歓びを与えあうことができる。見田は生の歓びを「性であれ、子供の「かわいさ」であれ、花の彩色、森の喧騒に包囲されてあることであれ、いつも他者から<作用されてあること>の歓びである。つまり何ほどかは主体で亡くなり、何ほどかは自分でなくなることである」ことだと説明する。つまり、見田が本書を通じて見出したことは、自我の確立の結果として、むしろ個体が自己を解放し、エゴイズム(利己性)を超越できるようになる可能性である。

見田宗介は大澤真幸や宮台真司など日本を代表する多くの社会学者に影響を与えた大家であるが、他の学問領域を動員しつつ我々が無意識に所与とする(あたりまえと思う)ような境界線をいとも簡単に超えるような想像力で書かれるその著書は常に我々の想像力を刺激し、どこか見たこともない遠くの景色を見せてくれるのである。

◯フランソワ・オスト『ヴェールを被ったアンティゴネー』

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本書はベルギーの法哲学を専門とするフランソワ・オスト教授によって書かれた古代ギリシャ悲劇『アンティゴネー』のアダプテーション(翻案作品)である。アダプテーションとは、既存の作品をその構造と展開を引用しつつ、現代風に新たなにアレンジした作品のことをいう。『アンティゴネー』はあまり日本人には馴染みがないかもしれないが、『オイディプス王』の続編の一つといえばある程度イメージが湧くのではないだろうか。
本書ではライシテ(世俗主義、政教分離)を原則とするフランス社会(もしくはベルギー社会)を背景とし、これまで普遍的とされていた西洋的な自由や平等といった概念が果たして普遍的なのかを問う。そして、社会においてこれまで所与(あたりまえ)とされていた価値観が果たして正しいのかと問うことにおいて、日本社会にも間違いなくあてはめて考えることができる作品である。

主人公のアイシャが不幸の事故で兄ノルダンを無くし、もう片方の兄であるハサンが瀕死に状態に陥っている時点から物語は始まる。この原因不明な事故に対して、学校側はノルダンがテロを仕掛けようとし、ハサンがそれを止めようとしたという図式に仕立て上げようとし、そしてノルダンへの追悼儀式およびイスラム教のヴェールを含めた宗教的な標章の着用の一切を禁じる。これにアイシャは激怒し、イスラム教のシンボルであるヴェールをかぶりながら、学校でノルダンの追悼を行おうとする。これに激怒した校長はアイシャと言い争いになる。校長は言い争いを通じて終始校則や自由・平等といった西洋的な価値観を振りかざすが、自身が振りかざすルールや(社会的通念とされる)価値観へ反省的な視線を一切目を向けない。そして、アイシャはついに自らの講義をハンガーストライキという形に変え、死に向かおうとするのであった。。。

興味深いのは、古代ギシリャの悲劇である『アンティゴネー』のアダプテーションは現代日本社会においても可能だということである。
訳者である伊達亜伸氏は、自身のゼミで本書を扱い、学生にも『アンティゴネー』のアダプテーションを書かせたところ、女性議員(上記におけるアイシャ)が子どもを議場に抱えていったところ議長(上記における校長)に咎められるという作品と、保育士の妊娠の時期を園長が決めていた保育園で保育士が子どもを授かったことにたいして園長に糾弾されるという作品ができたという。そして、驚くべきことに両者とも現実にあったニュースから着想を得て書かれたという。
このように、社会におけるルールや正しいとされる価値観が果たして正しいのかということを絶えず我々に問いかけるという点で本書は大変意義が深い本である。

◯高橋哲哉『犠牲のシステム ー福島と沖縄ー』

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東大の教授である高橋哲哉による著書。
本書において、高橋哲哉は犠牲のシステムを「或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持され(中略)犠牲にする者の利益は、犠牲にされる者の犠牲なしには生み出されないし、維持されない」と定義し、このシステムにおいて「犠牲は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての「尊い犠牲」として美化され、正当化されている」、そして「隠蔽や正当化が困難になり、犠牲の不正当性が告発されても、犠牲にする者(たち)は自らの責任を否認し、責任から逃亡する」という。
この犠牲のシステムの実例として、福島の原発および沖縄の基地をあげる。本書において政治家などの政策の意思決定に関わるアクターはもちろん、メディアや一般市民の責任も問われる。この本を通じて、犠牲のシステムにおいては、たとえ一般市民でもその責任から逃れられず、「仕方ない」と思うことや無知であることも含め犠牲への加担となりうることを我々は突きつけられる。それでは、どうすればいいかという問いが生まれるが、この問いに我々は絶えず向き合わなくてはいけない。
すべての人が社会運動を起こすことは現実的ではないかもしれないが、例えば、しっかり考えた上で投票する、ちゃんとニュースを見て知ろうとするなど、小さなことを少しずつ積み重ねてゆこうとするしかないのではと感じた。

「犠牲」という概念の発展を辿った同著者による『国家と犠牲』も合わせて読むと面白い。

◯大江健三郎『沖縄ノート』

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ノーベル文学賞受賞者として知られる大江健三郎によって1970年に発表された著書。
表題の通り、沖縄の歴史および1970年当時の現状に筆者が向き合った著書であり、『ヒロシマ・ノート』と並んで大江による先の戦争の悲劇について書いた著名なエッセイである。最も沖縄の場合は戦前ひいては近代以前からその歴史の悲劇性を見出しうるが。

本書を通じて、大江はたえず「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」 を問うている。沖縄の人々によるはっきりした拒絶や優しさの裏にあるやんわりとした拒絶を目の当たりにし、本土日本が沖縄を抑圧・搾取してきた歴史や現状に向き合ううちに生まれた問いである。そして、前者の問いに対して、「日本人とは、多様性を生きいきと維持する点において有能でない属性を備えている国民ではないか」という結論に達する。(これらの大江の思考は国民国家の枠の中にあるものであり、そういった意味で大江もある種のナショナリストといえるのではないかと私は思った)
本書を通じて我々は、上記の高橋哲哉がいう「犠牲のシステム」にみられる行動、①ある者(たち)が他の者(たち)を犠牲にして利益を生み出す②犠牲が「尊い犠牲」として正当化・美化される③犠牲に対して犠牲にする者たちが責任を否認あるいは責任から逃避する、のすべてをみることができる。①にあたるものとして、琉球処分にはじまり、戦前の沖縄迫害の歴史、戦争中に日本政府および軍が沖縄の人々に強いた犠牲、戦後のアメリカ統治、そして沖縄返還の交渉が進んでいた1970年当時にまで続く(そして我々が知る通りそれは今日までも続く)。さて、注目すべきは、②と③である。なぜならこれらは権力者のみならず我々一般市民が日常的に無意識にしがちな行為である。それが本書で登場する日本人の「中華思想」的感覚であり、沖縄の現状に対して「意識的に無知」であろうとする日本(本土)人の姿勢であり、日本(本土)人の沖縄に対する「差別の紐帯」とも呼べる差別的な構造である。上記で紹介した高橋哲哉の『犠牲のシステム』に登場する2009年に民主党政権のもとで普天間基地問題が再浮上した際の日本人の反応と合わせて、本書を通じて我々は日本という国家が抱える罪をみることができる。

本書の最後で大江は、日本人であり続ける以上「どのようにして自分の内部の沖縄ノートに、完結の手だてがあろうか?」と問う。この問いはもちろん沖縄問題が終わっていない今日においても閉じていないはずである。そして、これは、沖縄の現状を仕方ないとして思考停止したり、意識的に無知であることを選ばずに我々が向き合わなくてはならない問いである。

◯カールシュミット『政治的なものの概念』

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ドイツの法学者・哲学者であるカールシュミットが1932年に発表した著書。
表題の通りシュミットは本書にて「政治的なもの」について述べているが、彼によれば政治とはグループ間の友・敵関係を巡るものである。これは友敵理論として知られており、例外状態と並んでシュミットを代表する概念となっている。
シュミットによれば政治的な対立は、道徳をめぐる対立や経済的な対立など様々な対立の中で「もっとも強度な、もっとも極端な対立」であり、「いかなる具体的な対立もそれが極点としての友・敵結束に近づけば近づくほど、ますます政治的なもの」となるのである。この考えにたった上で、シュミットは最大の政治的単位である国家およびその主権の役割を強調する。のちにシュミットはナチス支持者となり、ナチスのイデオローグ的な役割を果たすようになるが、その点も相まって彼はしばしば批判される人物である。

そして、シュミットは平和主義者を含め、何人も政治的なものを免れることはできないと語る。なぜなら平和主義者が直面しなければならない非平和主義者との対立は、いつでも政治的な対立に陥る可能性があるからである。
現在国際社会では米中対立をはじめ様々な政治的な対立が激化し、各国の国内状況に目を向けてもコロナの流行という例外状態に直面して民主主義・自由主義が退潮しているように見える国が多い(最もそれらはコロナが始まる前からあった課題ばかりである)。シュミットがいう「政治的なもの」という命題を果たして我々は克服できるか、できないとしたらいかにそれと共存できるかということは今日においても問われている。


◯マックスウェーバー『職業としての政治』

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本書はマックスウェーバーが1919年に学生を対象に行った講演を書き起こしたものである。マックスウェーバーは言わずもがな『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などで知られる歴史に名を残す社会学者の大家である。
さて、本書は表題の通り、政治家がもつべき倫理について語っているものである。政治は非常に広い概念ではあるものの、「およそ自主的におこなわれる指導行為なら、すべてその中に含まれる」とウェーバーはいう。その上で、ここで「政治」と使う場合は、「政治団体(=国家)の指導、またはその指導に影響を与えようとする行為」をさすという。
そして、倫理を、結果ではなく信念や理念(例えば、宗教的な信念や個人的な理想など)に責任をもつ「心情倫理」と結果に責任を持つ「責任倫理」に区別した。前者の場合、例えば結果がよくなくても、「私は頑張ったんだ」「私は信念を曲げなかった」で許されるのに対し、後者は目的に対してどんな手段を使ってでも、その目的にかなった結果を出すことが求められる。そして、政治家は責任倫理のみを持ち、一切の言い訳が許されないとウェーバーは主張する。そして、このことを承知の上で、「それでも」といえる人が政治家になるべきだと論じている。

これに関して我々はどのように考えるべきだろうか。政治家とはそうであるべきだと考えることもできれば、意図せざる結末を考えた上で必ずしもそうとは言えないと考えることもできる。
そして、本書は政治家の倫理についてのべた本ではあるものの、その内実政治家ではない人にとっても一考に値するものがあると私は考える。本書においてウェーバーは本来は広い概念である政治を国家の中のものに限定した上で論じているが、学校、サークル、会社などの中で組織の意思決定に関わることがある人であればなんらかの形で(ウェーバーのいう)自ら「政治」的なものに関わるのである。そして、民主主義社会において我々の投票が政治での意思決定を左右する以上、我々にも本来ウェーバーがいうところの「責任倫理」的なものが当てはまるべきである。そのことを踏まえた上で、本書のウェーバーの主張を改めて考えると、非常に興味深い。

◯益尾知佐子『中国の行動原理』

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本書は中国研究者が書いた研究者らしくない本とでも言えばいいだろうか。
長年中国の対外政策の研究に携わった益尾氏による本だが、本書でとられている方法論は必ずしも学術的な方法に則っているわけではない。表題の通り本書は中国が国内外においてどのような行動原理に従って政策を行っているかについて解き明かそうとする本だが、これはともすれば過度な一般化に陥ってしまうようなテーマである(そしてそれゆえに本書には批判も一定数ある)。それでも筆者が長年中国研究および中国の人々に携わった経験を総動員しながら書かれた本書はどこかしら中国を説明する上で非常に説得力があるようにみえるものがある。

本書では、中国の対内・対外の様々な政策の行動原理を、①中華帝国の喪失感②強烈なリアリズム③中国共産党内の組織慣習の3つから説明しようとする。とくに3点目に関して中国の家族構造である「外婚制共同体家族」から中国で広く見られる組織構造を説明し、それを中国共産党にもあてはめて説明を試みようとする部分は大変面白い。また、抽象的な議論に止まらず、広西チワン族自治区の事例や海洋政策の事例など具体的な事例についての紹介もあり、本書は中国を知る上でかなり興味深く読めるものになっている。

先にも説明した通り、本書は必ずしも学術的な方法を取っていないため、過度な一般化や論理の飛躍ではないかと思われる部分もあり、「それ本当か?」「それはいいすぎだろ」と思ってしまうことも多々ある。
それでも中国と深く関わったことがある人が本書の内容を(程度の差はあれ)説得力あるものとして読めるあたり、やはり長年中国研究に携わった筆者の犀利な(鋭い)観察眼と直感に只々感嘆の念を覚えるばかりである。

◯趙汀陽『天下的当代性』

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中国の著名な哲学者趙汀陽による「天下」概念に関する著作。
「中国は一つの物語で、天下は一つの理論である」で始まる本書は、「天下」という概念がどのように生まれ、中国の歴代王朝にどのように組み込まれ、そしてグローバル化が進む現代において「天下」概念をどのように再考できるか、どのような形で「天下」概念を今日の世界・国際社会の構想に活かせるかについて論じた本である。
筆者は国家を最大の政治単位とする国際政治の問題、たとえばイスラエル-パレスチナ問題といった深刻な国家間の衝突を解決できない、を指摘した上で、世界を政治単位とする国際政治を構想できないかと問い、そのヒントとして「天下」概念を持ち出す。「天下」概念は外部が存在せずすべてを内部に包含する「無外(all-inclusiveness)」を原則とし、そして古代中国の周朝において世界(といっても当時の中国の人々が認識しうる範囲で)を政治単位とする「天下」概念に基づく政治(天下システム)が行われていたという。周朝の天下システムは、すべての人に公正に資源を分配する「徳治」およびすべてのアクターの満足(効用向上)を目指す「協和」を原則に行われ、分封制度、礼楽制度といった制度のもとで世界を政治単位とする政治が行われていたという。もちろんここでいう「世界」は実際の世界よりはるかに小さく、現代中国の半分にも満たないものであったものの、周朝がやろうとしていたことは実に野心的であったという。その後、周朝が崩壊し、秦漢王朝を境に郡県制による国家を政治単位とする統治に切り替わって以降、「天下」は中国内部に圧縮されるようになったという(そして、近代以降は中国も西洋的な国民国家に切り替わらざるを得なくなった)。そして、筆者は現代のグローバル金融システムやインターネットなどに天下システムを実現させる可能性を見出しつつ、一方で新たに立ち現れうる構造的権力(systematical power)の危険性にも警鐘を鳴らすのであった。

さて、この「天下」概念をもとにした議論を皆様はどう思うだろうか。素晴らしいと思う人もいれば、どこか危ない匂いを感じる人もいるであろう。実際に、人類の歴史を見れば、何か普遍的な概念を唱えつつ、実は特殊的な概念にすぎず、他者を抑圧する結末に行きつくようなケースは数多くある。西洋が近代に唱えた「普遍的価値観」や「啓蒙」はそのような批判を数多くこれまで受けてきたし、日本が戦前に唱えていた「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」もそうであった。そのように考えると、中国からこのような議論がわきおこることに対して常に我々は慎重な視線を向けなければならない。その一方で、国力が増大し、今後国際社会でさらなる影響力を発揮するようになる可能性が高い中国において、中国の人々が世界や国際社会の構想に関してどのような考えを持っているかを知ることには大変大きな意義がある。本書は日本語訳が存在しないため、残念ながら日本の読者がアクセスしづらいものとなっているものの、許紀霖の『普遍的価値を考える』などで天下概念を含めた中国の現代思想の潮流について知ることができる。そして、本書が翻訳、もしくはなんらかの形で日本で紹介され、その内容について反発も含めて日本で議論されることを願ってやまない。


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