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短編小説 夢のなみ(une vague de rêves)

 (ユヌ·ヴァーグ·ド·レーヴ。 気持ちのおもむくまま、意識の流れるままに書いていたので、気ながにのんびり読んでいってください)

 船の先端に立って、ぼくは海の風を感じていた。ひとり、船のふちに寄りそってたたずんでいた。
 そおっとうしろを振り返ってみても、そこにはだれひとりもいない。広い甲板には、ぼくがひとり。ぼくは首をかしげながら、両手をポケットにいれて客室の方へ歩いていった。歩きながら、ふと、また思い出したように船のふちに行って、船の下を見た。

 うん、確かに海の上にいる。それから、もう一度さきほどまでいた船先にもどった。両手を上げ、正面から来る風を全身にあびた。確かに風はあびているのに、向かって来ているという感じがしない。よく見ると、この船は大海原の中で停止しているのだ、たたずんでいる。ぼくがここに静かにいるように、この船はエンジンを停止して海の上にたたずんでいる。



 止まっているんだろうか。エンジンの音も聞こえてないほど、この船が大きいとは思えなかった。人の気配もしない、なぜだろう。そしてぼくはなぜここにいるんだろう、この船に乗っているんだろう。じぶん自身わからない、いつしか乗っていた。
 どういう経過で乗船するようになったのか、いまいち思い出せない。どういう成り行きだったのだろう、振り返ってみても不思議な思いだ。頭がぼうっとしていたというわけでもないのに、まあ、考えてもしょうがない。客室の方に行ってみよう。何かわかるかもしれない。この船が何という名前で、どこに向かっているかわかるだろう、あるいは向かっていたかわかるだろう。ただ、いまこの船が止まっている状態だとしても。

 そこで、ゆっくりとおそるおそる、人間がいるだろう客室に向かった。近づいてなかを見ても、ひとりっ子いない。乗務員ぐらいいてもよさそうなのに、だれもいない。船のなかを推し進めていって、だれかいないか、さがし求めていった。
 人がいたらいたで、怖いような気もする。大勢いたら、なんだか安心。少数が静かにたたずんで微笑みでもしたら、それはそれでちょっとこわいかな。周囲も見回してみた。人の気配さへない。もしかしてこの船は幽霊船、大洋の中で、ひとりぼっちの船。難破船かな。難破していたのなら船がひっくり返るとか、遭難した跡が見えるはず。

 船そのものが健全に海の上で浮いているから、そうでもない。あるいは海賊に襲われて、人も物も略奪され殺されて、用のないものは海の中に放り込まれたとか。そんなことは現代ではありえない。
 でも、わからないぞ。現にニュースでは中近東あたりで、海賊が出没して、略奪しているというから。そうか、いまいるあたりは中近東。そうでなくても、アフリカあたりの政情不安定な国近くの海上。そんなことを考えながら、船内を探りみていた。いまだに猫一匹見当たらない。しょうがないなと思いながら、ふと客室の内から、さっきまでいた船先の甲板を見た。すると、人らしき姿が見えた。

 ぼくは、とっさに客室の外に出た。チャイナ服を着た少女がひとり甲板の上にたたずんでいた、右手に筆を持っている、そばにはペンキの缶。ぼくは、少女のそばまで歩いていった。少女の顔は、中国人の顔に似ていた、もしかして日本人の女の子かもしれない。
 やおら少女は筆をペンキにひたして、何か甲板の上に書き始めた。大きく、ゆったりと力強く書いていった。漢字四文字。書き終えてぼくの方を振りかえり、しばらく見つめていると、スタコラっとその場から去っていった。四、五歩も行くと、甲板の板を引きあげ、人ひとり分が入る、地下のドア穴のなかに入っていった。

 そうか、こんなところに地下入り口があったのか。知らなかった。それから少女がぼくのそばを通り過ぎたとき、この女の子は中国人だと思った。根拠はない、そう思った。どこか日本人とは違和感があったもの、ぼくだけが思う感情かな。それにしてもどういうことだろう。さきほどまで少女がいた、甲板上の文字。

 「朝三暮四」

 なんのことだ。もちろん意味はわかっている。あの中国の故事成語。だれでも知っている教科書で習った、あのフレーズ。サルにとちの実を、朝みっつ夕べはよっつ。少ないといったので、朝よっつで、夕べにみっつにしたら喜んだという。あのことわざ。
 なぜ文字をあの少女が、いまここで、なんの意味もなく、書いたとは思えない。深い意味とか。いまここにいる、ぼくの存在の意味を暗示しているとか。そんな大げさなことでもないだろう。まったくいまの置かれている状況と、関連性がない文字だった。どうにか結びつけて考えてみよ、といっても無理な話だった。



 考えてみれば、いきなり現れて何かわからないこと、文字を書いてすぐに消えていった。あの思わせぶりの少女の出現と行為。どう、わかれというのでしょう。なんの違和感もなしに受けいれたのも、いまの状況ではおかしな話だ。   

 あの娘から、何かこの船の事情を聞けたかもしれないのに、ただたたずんで見守っていただけだった。ぼく自身、いま思っても不思議だ。いまからでも遅くない、あの地下に通じるドアのなかに入ってみよう。遅まきながら思った。何か、地下室にはこの船の秘密があるかもしれない。
 すぐに甲板の地下に通じるところまで行った。ドアについている取っ手を引きあげようと思った。だが地下のドアは開かない。なかから鍵でもしているのか、どんなに力いっぱい引きあげてもドアは開かない。しばらく孤軍奮闘していると、なにやらおかしげな感じになってきた。この船が動いている、さっきまで海に漂っていると思われていたものが横に動いている。

 これは動いているのじゃない、横に揺れている。もっと正確にいうと、斜めに傾き始めていた。ぼくは急いで船体の右端に行った、左の方に低く傾いていたからだ。船の上から見たらわからない、どうもどこか船体が破損している、そこから水が入って浸水しているようだった。よわったな、どうしよう。どこか知らない海の上でひとりおぼれて死んでいくことになってしまう、まだぼくは死にたくないのに。
 そんなこといっている場合ではない。ここは、いっときも早く逃れる解決策を見つけださなくては、おっ、そうだ。こんな遭難に備えて、救命ボートがついているはずだ。さがさなくちゃ、どこにあるのかな。たぶん映画なんかによく出てくるように、船体の端についているはず。ぼくは急いで見にいった。



 あった。思ったとおり救命ボートらしきものがついていた、ぼくはすばやくそこまで行った。だが船体がかなり傾き始めていて、ボートについているロープを解くことができない。いまどきなんでロープで結びつけているんだろう、もっと簡単に取りつけるものがあるはずなのに。
 またそんなことをいっているときではない、早くこの船から離れてしまわなくては、船もろともひっくり返って海のなかへ沈みこまれてしまう。もっと悪いことに船体に巻きこまれて、体がひき裂かれることがある。悠長なことをしている場合じゃない。だがボートと船に結びつけられているロープが解けない、あまりにも硬く結びつけられている。
 いったいどういう意味なんだろう、ことに対処していない救命ボートなんて。そんなことをいっているときにも、船はじょじょに海に沈んでいった。ぼくはこのボートをあきらめて、別のボートをさがしにあたふたしながら行った。

 もう遅かった、そんな暇がなかった。いまはただ、船に巻きこまれないためにもここにいてはあぶない、ぼくは何か祈りをささげるように破れかぶれな思いで、海のなかに飛びこんだ。まるでバンジージャンプみたいに。 
 空中空間の大きな世界へ、飛翔する気持ちだった。ただ海中だけに入るときも水圧を感じたし、呼吸もままならないのも待っていた。大きな海に包みこまれていった。



 しばらくすると、状況が見えてきた。海中空間にのみこまれている。
 変な表現。このままずうっと、海に沈みこまれていたらどうしようもない。しかし、じたばた、どたばた手足を動かしてもしようがない。成り行きにまかせるしかない。
 ぼくの周囲が空気みたいに水ばっかりだもの。どうしようもない。海中遊泳しても、暗くてどこにも出口が見あたらない。こうなったら、浮くにまかせよう。どうせ、死ぬ身だもの。なすがままよ。

 といっている場合じゃない。息苦しくなってきた、早く海の上にあがらなくちゃ。必死で両手両足を左右に広げた。そおっと、上を見た。白く光っている。おおっ、たぶん、あれが海の上。ぼくの息がきれないうちに早く、そこまで行かなくてはいけない。目をこらして上昇していくとき、ぼくのそばを大きな魚がゆったりと通り過ぎていった。



 ぎょ。フカ。
 サメかも。ぼくはびっくりした。そいつが通り過ぎたのを確認したら、急ぎ手足で、いちもくさんに漕ぎだした。泳ぎだして、どんどん上昇していった。一刻も早く、海の上にあがっていかなければならない。映画みたいに、下半身をサメたちに食われてしまわないうちに。食べられたらどんなに痛いか、想像もつかない。つきたくもない。
 ぼくは、どんどん上にあがっていった。生きてきたいままでの人生のなかで、こんなにも力を出したことがないようなエネルギーを使って、全速力で海中遊泳して、あがっていった。その効果があって、すこしずつ、光がもっと明るくなってきた。もうひと息だ。サメたちが気づかない間に早く、海の上にあがってしまわなくては。でも海の上にあがっても展望が開かれるとはおもわれない、もっとすごく激しい状況が待っているかもしれなかった。

 そういってはいられない。上にあがることが先決だった。もうすこし、おっと、海面が見えた。最後のひとかきだ。そしてやっと、海上におどりでた。助かった、空気も吸える、おまけに海上の波も荒れていなくて静かだった。顔をすこしあげた、天候も穏やかだった、そんなに青い空ではない、暗く、くもっている気配でもなかった。すこしばかり、ひと安心した。

 周囲を見渡してみた。ラッキー、ボートがある。よく湖で、カップルが乘るような小型のボート、沈没した船に取りつけられ、ぼくがあたふたして取り戻そうとしていたものより小さかった。あの船に取りつけられていたのだろうか。そんな感じがしない。ここにあるということはやっぱりどこか、なかにあったのだろう。もっけの幸い、目の届くところにぽつんと浮かんでいた。のどかそうに、漂っていた。
 ぼくは急いで、ボートのあるところまで泳いでいった。もちろん疲れている、必死の思いで泳いでいった。

 でも、なかなかたどり着かない。見ると、すぐ手に届きそうなのにおかしいな。ボートが波に揺られ、離れていっているのだろうか。そうとしか思えない。それにすこしばかり疲れてきた、手足が思うように動かない。静止していると、口のなかに水が入ってきそうで息つかいがむずかしい。そこで子供のころ、プールでやっていたように背泳ぎの態勢で空を見あげよう、体を浮かせたままで、しばらく休もうと思った。
 海の上では、プールみたいにうまくいかなかった。あたり前だった。水の濃度とか塩分が関係しているのか思うようにいかない、もっぱら子供のころからプールばっかりで海に行ったことがなかったから、要領を得ないということでもない。どうなんだろう、この気持ち、状況のせいにはしたくない。こんなことを考えるときではないと思いつつ、海面にすこし沈みこんでいる状態になっている。体が疲れきって、どうしようにも動けない。もう、このまま海にのみこまれて沈みこんでいくんだ。そうだったらそれでもいい、死んでもいいや。どうにでもなれ。

 口をすこしでも開けると、海水が入ってきた。ほんとに塩辛くて、いやになる。半面、この状態でもこんなことを考えるなんて、意外とぼくって冷静だな、と変に開きなおりというか、あきらめきっているというか。どこかに、まだここで死んでいくことはないだろう、とばくぜんと感じていた。なぜだかわからない、だれかが助けてくれるだろうと。

 ゴツン。
「痛(いて)っ」

 海上に身を漂わせていたぼくの頭上に、何かが、ぶっつかった。体を振りかえってみれば、なんと、海の上に浮かんでいたボートがぼくのそばにいた。なんだよ、もう。追いかければ離れていくし、追わなければ近づいてくる。思わせぶりな女みたいだな。
 でも助かった。もう、放さないぞ。ぼくは態勢を整えて、ボートをしっかりとつかんだ。

 ふう。おもわず、ひと息ついた。これで安心、もうすこし時間がたっていれば、あぶなかった。体がへとへとだった。命綱というか、命ボートだ。ぼくはしばらく、ボートをつかんだまま、休んでいた。疲れをとってから、ボートのなかに這いあがろうと思った。
 ふと、ボートのなかに這いあがろうとして、なかをのぞきこんだ。すると、なかに人がひとり、寝そべっていた。倒れているかのようだった。



 あっ、チャイナ服の少女。朝三暮四の女が、気絶しているかのように横たわっている。どうして、ここに。そうか、あの船から脱出したのだ。それにしても、なんだか変な感じ。よくもまあ、うまく逃れたもの。少女の弱い力で、しかもボートなんか、ちゃんと知ってて乗りだしたのだろうか。あるいは、まだ他に人がいて手伝ってもらったとか。
 そんなことどうでもいい、早くボートのなかに入らなくちゃ。さっきからくたくた。なかで体を休みたい、ゆっくりと、この少女みたいに横たわりたい。

 ぼくは最後の力を振りしぼって、ボートのなかに入ろうとした。だがなかなか這いあがれない、何回やってもうまくいかない、力が思うようにバランス取れない。こんなに力がいるなんて、映画なんか見ていると、いとも簡単に這いあがっているような感じだった。あまり乱暴に思いきってやるとひっくり返るし、そうかといって、力を出しきらないと体が伸びあがっていかない、うまく要領よくバランス的にやらなければ。
 ボートのなかの少女は、何も知らずにさっきから眠りこんだまま。もうこうなったら少女に頼むしかない、少女に手助けしてもらうしかない。腕を伸ばしてみた、でも手が少女の方に届かない。手でボートのへりをポンポンと叩いた。

「ねえ。ちょっと、君。起きてくれない。ねえ」
 でも少女は目をつぶったまま、寝ている。倒れこんでいるといった方が正確だろう。あのね、ちょっと、と大声を出しても身動きひとつしない。何度か、声を出して呼んでもだめ。しようがないな、まったく。せっかく救いのボートが来たというのに、これじゃ、このまま海のなかで放置されているようなものだ。だからといって、いつまでもこうやっていてもしようがない。



 そこでもう一度、力を出してバランスよく、ボートのなかに這いあがろうとした。それでも、だめだった。これ以上、変に強引にやったら、それこそボートごと転覆してしまう。すこしは、なかに少女がいることで重心がついていることもあったのに、まったくのお手あげ状態だった。
 ほとほと困惑してしまった。顔をおもわず、ボートの外側のへりに押しあてたまま、脱力感がともなっていた。

 ああ、いったいここで、ぼくは何をしているんだろう。どうしてこんな目の遭わなければいけないんだ。それに、そもそも、どうしてここにいるんだ。考えてみれば、おかしな話だよ。
 あの船に乗っていること自体が不思議だった。気づくと、船に乗っていた、漠然とした意識のなかでぼくは船に乗りこんでいたのだ、あまり考えないで船にいた。そんなことってあるかな。意味もなく船のなかにいたなんて、そんなはずがない。よく考えてみよう。確かあのとき、そう、あの船に乗りこむまえ、ぼくは何をしていたんだろう。何の目的で船に乗ったのだろう。

 うーん。あれっ。全然、場面が浮かんでこない。乗船するときの映像が現れてこない、まっ白だ。そんなはずがない。何も考えないで目的もなしに乗るなんて、そんなことはありえない。どうしたんだろう。集中して、思いだそうと意識を高めているのに現れてこない。船の甲板にいた状況からまえの、記憶が出てこない。
 まさか、そんなはずがない。意識ははっきりしている、思考能力もちゃんとある。乗船まえの思い出だけがない、記憶を思いつかない。これが記憶の忘却か、そういうことなのか。そんなこといって知的概念に浸っている場面ではない、早いとこ、ここから脱けだしたいのにそんなこといっている場合か、と大声を出したい気分だった。ほんとに。



 コンコン。
「あいてっ」
「ねえ、おじさん。さっきからぶつぶつ、何、いってんの」
 叩かれた頭を片手で押さえながら、顔を見あげた。眠っていたと思っていた少女が、こちらを不思議そうに見ている。何か、動物を見ているようにこちらをうかがっていた。あれっ、さっきまでボートのなかで倒れていたんでは、いつのまに。さましている少女の目がくりくりして大きい。

「君、中国人じゃなかったの」
「父親が日本人で、母親が中国人。だけど、おじさん。いったい、ここで何をしているの」
「遊んでいるように見える」
「わかんない」
「だろ。だから悪いけど、ぼくをボートのなかに引きあげてくれない。助かるんだけどね」
「いや」
「あのね。ぼくをいったい、どうしようというんだ。ここに、こうやっているとぼくは死んじゃうし、サメだって襲ってくるかもしれない。早く変なこといってないで、助けてくれよ。さっきから、ひとりでボートのなかに入ろうしているのに、なかなかむずかしくてできないんだ。頼む」

 少女は何を思ったか、ボートのなかに座りなおした。左手を右のひじにあて、右手を頬に添えて考えこんでいる。さて、どうしようかな。目をぼくの方に寄せ、思案中だった。
 何を考えているんだ、何を考えることがあるんだ、早く助けてくれ。ぼくをひっぱって、ボートのなかに入れてよ。いったい、どういうつもりなんだ。とにもかくにも、不思議な少女だ。存在そのものがおかしなものなのに、いったいこの状況をどう思っているのだろう。何も思っていないかもしれない。


「ねえ」、と少女はこちらを振りむいて、いった。
「古事記のなかで、イザナミがイザナキに戸のなかを見ないで、といったのはどうしてか、わかる。おじさん」
「わかんないよ、そんなもの。イザとなったら、ナミでもナキでも、どっちでもいいよ。ここから脱けだせたら」
「何いってんの。じつはね、見ないで、といったのは、見てね、ということなのよ。物語を展開するための方便なのよ。わかる」
「わかんないよ」
「だめね、わかんないだから。あたしがいや、といったのは、これからさき、どうなるんだろうということを期待させているんじゃない。だめな人ね」

 ああ。ぼくはさっきよりも、もっと虚脱感に襲われた。ぼくをどうしようというだろう。いい加減にしてもらいたい。ほんとに、このままサメにでも食われてしまうんじゃないのか。頼むよ、何をしたいんだ、ぼくに。いたって、善良に生きてきたと思われるぼくなのに、なぜ、こんな理不尽な仕打ち。わけのわからない遭難。意味のない少女の問いかけ。ただ静かにいたいぼくなのに、どうして。

 なのに、少女はぼくの頭を、コンコン。
「おじさん。何してるの。早くしないとサメに食われるよ」
「いいよ。食われても」
「ほんと。すぐ、うしろ。ほら、泳いでる」

 えっ。おもわず、うしろを振りむいた。ほんとに、大きな物体がこちらにのっそりとやってくる。
 ぼくは、びっくり仰天。なりふりかまわず体を動かした。どたばたしながら、どこで、どうして、そんな動きができたのかわからないほど、機敏な動作でボートのなかに入りこんだ。少女の力を借りて、どうにかこうにか、なかにすべりこむことができた。落ちついて下を見れば、サメらしき物体が、ボートの下を優雅に通り過ぎていくのがわかった。

 あぶない、あぶない。もうすこしで冗談なしにどうなっていたか、わからない。もし、どたばた手足を動かさないでいたら気づかれなかっただろう。そんな保証もなかった。何はともあれ、助かった。じつにあぶないところだった。
 それにしてもいつのまに、気づいたらボートのなかにあがることができていた。やれば、できるもんだな。

「ねえ。君」
「そう」、と少女はうなずいた。
少女は、ふふふっと笑っていた。ぼくも合わせて笑った。

 意外と、この娘は頭がいい、気転も早い。おもわず、ふたりとも顔を見合わせて笑った。それから、思いだしたように少女はいった。
「おじさん、どこから来たの」
「ぼくがいいたいセリフだよ。君はどこから来たんだ」
「あたしは、渋谷から。おじさんは」
「ぼくは神田から、じゃなくて。君はどうやって、だれも乘っていないような船に、ひとりで乗っていたんだ。船のなかを見まわしても、人の気配さえなかった。なぜ、君だけ。両親と一緒じゃないの」

 どうしてかしら、少女は言葉をぼかしていた。何か秘密があるのだろう。別に秘密にしてもどうなるものでもない。ほんとうにおかしな娘だ。こっちは、別に知ってもどうなるものでもない。いいたくなかったら聞かなくてもいい。それより、いまからこの状態をどうするかだった。
 ただ海の上に漂っていてもしようがない。こんな小さなボート、さっきの大きなサメみたいな奴がボートに軽く一撃すれば、簡単に放り投げられてしまう、転覆してすぐに海中にのみこまれてしまう。波なんかでもすこし大きなものが来れば、ざぶんって感じ。それに天候状況もある。それよりもっと、食べ物はどうするんだ。
 そんなこといろいろ考えていたら心は暗転することばかり、それでなくても、とても大変なのに。

 それにもかかわらず、目のまえにいる少女はいたって冷静。こんなことは慣れているといわんばかりに、余裕がある態度だった。とても子供とは思われない。すこしもあわてるところがないのだ。ぼくは黙って、少女を見つめていた。どうして、ぼくは不思議に思って、少女に聞いた。
 少女は、黙って遠くの方を見つめていた。
 それは風に聞かなければわからない、とむかしの歌の文句をいうはずもなかった。あれは確か、ボヴ・ディランの歌だった。そんな歌を少女が知るわけがない。ロックは金のためにだめになった、と嘆いた彼の言葉も届いているとも思えない。
〈そこには、ただ風が吹いているだけ〉
 これも、どこかで聞いたような歌の文句だ。意外と、人って、歌の文句に左右されているんだね。むかし、親戚のおじさんがよくギターを弾きながら、歌っていたものさ。たしかフォークソングで、はしだのりひことシューベルツの「風」という歌だったな。


 そんなことに、感慨にひたっている場合じゃない、とじゅうじゅうわかっているつもりです。いまの状況をまぎらすつもりもなく、感じていた。それなのに少女は、無言でまだはるか前方を見つめている。何を見ているのか。
 さっぱり。何かを探しているとでも、だれかが助けにくるのを待っているとか。少女は見つめている、遠くを。もし助けがくるなら遠くからじゃなく、近くからじゃないかな。同じ乗船した仲間とか。そんなことが考えられるとしても、同じ乗船した人が助かったとは思われない。また少女ひとり、身寄りもなく旅の途中とも思えない。そんなこと、何も教えてくれないからわからない。

 ここは大海原。もう、じたばたしてもしようがない、なるようにしかならない。でも、どうにかなってほしい。
 おや、どうしたんだ。少女は探すのをあきらめたのか、こちらを振りむいて座りなおした。どうにもならないことを悟ったらしい。開き直った風にも見えない。ただ、ぼくと向かいあって座っている。意味もなく、ぼくの顔を見ている。初めて、しっかりと顔を見たという感じだ。もしかして、あらためて見てぼくがハンサムだと思っているらしい。そうではないな。まあ、いいや。こうなったら二人旅、どうともならない状況のなかで、運命にまかせるしかない。

 しかしどう考えてみても、明るい展望が見えなかった。幸運に身をまかせるしかないのだろうか。どうやっても、危うい未来形しか見いだせないのなら。
 すると、何を思ったのか。少女が、指を右の方にさし示している。海のなかをさしている。えっ、何。ぼくは指さしている方を見た。黒いものが海原の下を覆っている。ふたりが乘っているボートの下を中心に、百メートルばかりの黒い物体が海面すぐ下に広がっていた。

 いったい、これは何。クジラか。大きいサメか。それとも、SF的な未確認物体か。一見して、わからなかった。これからさき、ぼくたちがどうなるかわからないように。
 よく見ると、黒い物体はふわふわ動いている。黒い布みたいに、海のなかで揺れている。とても硬い物体には見えない。機械でできたもの、潜水艦ではない。ノーチラス号ではないようだ。生物でもないし、魚のなかには、こんなタコやイカみたいにふにゃふにゃするものもいるだろう。もしかして、大きいエイとか。
 そんな風には見えない。いったいなんだろう。この浮遊物みたいに、海のなかに漂っているものは。

 しばらく海のなかで揺れている黒い物体を見ていたら、何やらそのなかで、白い映像が見えてきた。幽かだが、動いている。見つめているにしたがって、だんだん動いている形が見えてきた、姿が現れてきた。像が見えるにつれて、そのまわりが、バックの曇りがとけるようになっていった。動いているものは、どうやら人間の形をしている。どこかに向かって走っている姿だった。
 それもよく見ると、どこかで見たような感じがする。だれだろう。男のようだ。
 走っている男が、すこしばかりズームアップしてきた。


 何かに追われているように見える。気のせいかな、一生懸命全力で走っている。しばらくすると像が鮮明になるにしたがって、走っている男の姿がしだいに変わっていった。今度は顔もはっきり見えてきた。
 おおっ、なんとぼくの姿だった。ぼくの顔をした男がなんだか知らない、走っている。どうして。これは、いったい何。何かのイメージスクリーン、何か未来を暗示するイメージとか、そんなものだろうか。ぼくの将来を見透かしているもの。あるいは、いまいち記憶を思いださない過去のストーリーとでも、わからない。

 ぼくは目を上にあげた。空を見あげ、気分を変えてひと呼吸した。これは何かの迷い、目の錯覚。ひとつ気持ちを変えて、意識をととのえてみなければならない。
 気分をととのえて、もう一度、海のなかを見つめた。やっぱり、ぼくの像が見える。スクリーンに映っているように、ぼくの姿がそのなかで走っていた。いったいなんだろう。ぼくに何かを促しているのか。どういうことなんだろう。そこで、よく見てみようと思った。

 そのとき、はっと気づいた。少女がいない。ぼくの目のまえに座っていた少女がいなくなっている。あれっ、どこに行ったのだろう。知らないうちに海のなかに落っこちたのかな。落ちる水の音もしなかった。海のなかの物体に気をとられている間に、どこかに行っちゃった。空の上にふっ飛んでいったのかな。ほんとに摩訶不思議なことばかり。
 船に乗っていたのも不思議だった。それから起きたことも、なんだか不思議な思いがすることばかり。夢のなかじゃあるまいし、夢にしても現実性がない。学校で習ったフロイトでさえも解釈しようがない。ラカンでも。

 それを暗示するかのように、さきの見えない展開が訪れようとしていた。ぼくの目のまえに大きく現れてきた。どうしようもない現実が、大波が、とてつもなく何倍も大きい波が、空をおおい隠していった。視界をさえぎるように、ぼくを襲い、包みこんでしまった。

 いま思えば、やっぱり夢としか考えられなかった。



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